風化したっていい、でも風化させては…

  3月11日

 【日報抄】鏨(たがね)をはね返すほど硬い岩も、長い年月にわたって風雨にさらされ、日に焼かれるうちにもろくなる。そして、次第に崩れ落ちていく。こうした過程を風化と呼ぶ。記憶や印象が時とともに薄れていくことも意味する▼惨禍の記憶を風化させてはならない。よく言われる。ところが意外な言葉を聞いた。「風化したっていいんですよ」。原発事故で福島県双葉町から柏崎市に避難した渡辺浩二さん(51)は、こう話す▼苛烈な体験をした人が生きていけるのは、その記憶が少しずつ薄れていくから。心がぬくもる体験を新たに重ねていくから。生傷のようだった記憶が薄れることで癒やされていく。年月には、そんな作用もあるのではないか▼「生傷がそっくり残っていたら、生きてはいけない」。渡辺さんは言う。「でもね」。ふと、言葉に力をこめた。「風化させてはいけないことも、やっぱりある」。それは大切な思い出であり、過去の経験から導かれた教訓だ▼あの日まで、故郷を離れて暮らすなど考えたこともなかった。現在の暮らしが、ずっと続くとは限らない。「想定外」は起こり得る。巨大な災害に突如襲われたら。想像を巡らせ、備えなければならない▼風化した岩のかけらは、やがて砂粒となり土となって生き物をはぐくむ。いま柏崎のNPO職員として防災や語り部の活動に取り組む渡辺さんは、風化する岩に自身を重ねる。わが身に刻まれた教訓がこぼれ落ち、防災の土壌となれば-。人生を変えたあの日から10年である。(新潟日報・2021/03/11 08:30)

*****************

+++++++++++++++++++++

 今朝も田圃道を歩きながら考えた。

 十年目の3.11だ。当日のことはありありと記憶している。自宅にいたが、あまりの揺れの凄さに観念したと思う。家が壊れるという恐怖ではない。狭い部屋の壁に作り付けてあった本棚が倒れかかってきた。それを押さえながら、ふっと恐怖が走った。地震であるのはすぐに分かったが、そういえば、震源がどこであり、規模はどれくらいかがわからなかった。かなりの時間、わが身も揺れつつ、壊れてゆく本棚を意味もなく押さえつけながら、どういうことか、しきりに原発のことを思った。何処の原発ということではなかったが、とにかく原発事故が頭をよぎった。どんな振動にも壊れない、耐震設計は十分すぎるほどだったろうが、その格納容器という心臓部につないである無数の配管はどうか。きっと破壊されているかもしれない。

 そのことを、ぼくは素人ながらに、直後に人にも話し多くの若い人にも説明した。時間がたち、事態の凄さが徐々に分かって来たが、いよいよ原発は大丈夫かという心配が高まった。津波の凄烈さにも脅威を募らせた。やがて水素爆発が立て続けに起こり、大惨事が世界中に明らかにされた。時間の経過とともに、原発事故は大津波による浸水ですべての電源喪失のゆえに冷却水が送れなくなり、やがて溶融に至ったと説明された。今日ではそれが通説・定説になって、いまだに「電源喪失」津波説が幅を利かせています。そうでなければならない事情があるからです。それを主張するためには嘘でも隠蔽でも捏造でも何でもする、あるいは人殺しまでもするかもしれない。なぜだろうか。そして、一日も早く原発事故を形骸化、無化しようと策略を企んできた権力者の十年でした。

 仮に地震動による機器の破壊による冷却水不足や、送水不能状態が続いたために、結果的に燃料棒のメルトダウンを惹起したとするなら、この島のすべての原子力発電は、改めて設計段階から議論を始めるべきであり、既存の原発はすべて新基準に基づいて、再設計される必要があるでしょう。すべては廃炉化、それとも天文学的資金を以て改造しなければならないのです。

 やがて事故原因解明の闇が明かされることをぼくは、強く願っているのです。しかし、問題は、あるいは核心部分は、原発是非の問題なんかではないのです。それは隠れ蓑として使われてきました。事の核心部は核兵器問題です。今となれば、金儲けの側からいうと、経済合理性を棄てたくなくなったのも事実ですが。

 「復興」という言葉についても、人それぞれの受け止め方があるし、それで当然だと、ぼくは考えている。直接の被災者にも、いろいろな理解や受け止め方があるのも分かります。はたして「復興」したのかどうか、それを決めるのはだれか。「復興」、それは決して物理的なものだけではすませられないのであって、たぶんに心理や心情にかかわることでもあるのです。政府や行政は時間を切って、復興は終了したといいたいのでしょう。もっと言えば、原発事故は致命的なものではなかったという話にしたがっている。だから、あちこちをせかしながら、しきりに「終了宣言」へと舵を切って来たのです。が、そうはいかない。原発政策や原発維持は、一政府が決めることでもない。あるいは国民投票にかける必要があるでしょう。いまだに原子力緊急事態宣言は出されたまmです。なぜ、解除しないのでしょうか。

(青森県六ケ所村使用済み核燃料再処理工場)(ここには原発何十基分もの核物質がある)

 いまでも毎日決まった時間に天気予報や時報を知らせるのと同様に、行政無線で被爆線量をアナウンスしています。本日何時現在の放射線量は●✖マイクロシーベルト、と。当地では、これが日常になっているのでしょうか。あるいは非日常が十年、変わらずに続いているのでしょうか。それを脇にして、あるいは目を塞いで、永田町や霞が関では好き放題の乱痴気騒ぎです。どうしてこうなったのか。戦後も七十五年が経過しました。いまあるような自分勝手な政治、嘘でなければ始まらない政治というものがいつどうして始まったのか。

  まだ、田圃道を歩きながら考えています。

 「アカシアの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい」、西田佐知子さんが、切々と(そのように、青二才のぼくの耳に届きました)謳ったのは、戦後十五年になろうかという時でした。島全体が「日米安保」反対で大騒動でした。ぼくは高校生だったが、東京まで出張って、反対運動のデモを実見してきた社会科の教師が、今ならライブ感覚の「現場中継」を授業で繰り返し話したので、奇妙な感覚を持って記憶しています。この教師はどうしてこんなに上気して話すのだろうか、と。普段は、実にシニカルな人だった。やがて、反対派が一敗血にまみれた段階で、どこからかハスキーな声で「朝の光の その中で、冷たくなった わたしを見つけて あの人は 涙を流して くれるでしょうか」と呼び掛けたかのようでした。アカシアという言葉が異国趣味を漂わせながら、けだるい、しかも諦めを滲ませて、若い美空に不思議な倦怠感を呼び覚ましたかのようでした。ぼくの同級生が西田のサッチャンにハマっていたのをよく覚えています。その、大人びた心持は、ぼくには理解すべくもなかった。

「アカシアの雨が止むとき」
 水木かおる作詞・藤原秀行作曲

(1960年4月)

アカシアの 雨にうたれて
このまま 死んでしまいたい
夜が明ける 日がのぼる
朝の光の その中で
冷たくなった わたしを見つけて
あの人は
涙を流して くれるでしょうか

アカシアの 雨に泣いてる
切ない胸は わかるまい
思い出の ペンダント
白い真珠の この肌で
淋しく今日も 暖めてるのに
あの人は
冷たい瞳(め)をして 何処(どこ)かへ消えた

アカシアの 雨が止む時
青空さして 鳩がとぶ
むらさきの 羽の色
それはベンチの 片隅で
冷たくなった 私のぬけがら
あの人を
さがして遥(はる)かに 飛び立つ影よ

 日米安保条約改定を進めたのは石橋内閣の後を襲った岸信介首相でした。東条戦時内閣の商工大臣であり、満州経営の立役者でもあった、官僚政治家だった。彼は条約締結と引き換えに退陣しました。反対運動が激しくなった時、彼は自衛隊を導入することを防衛長官に求め、拒否されたという一齣もありました。この反対闘争の最中で一人の女学生が死亡した。その後、この島は「経済成長」「所得倍増」の道をまっしぐらに進み、政治の季節に覆いが掛けられましたが、季節は終わってはいませんでした。その渦中に東京五輪が開かれました(1964年)。この時期に、原発開発がすすめられ、やがて本格的な原子力発電時代の幕を切りました。とくに岸の実弟の佐藤栄作は首相として「核兵器」所持をアメリカに認められなかった代わりに、いつでも核武装が可能となるような原子力政策を展開します。プルトニュームの保有です。その典型が青森六ケ所村に建設された「使用済み核燃料再処理工場」です。

 今現在、この島では約四十トンのプルトニウムがあるそうです。この量で、約三千から四千発の核兵器が作られるといいます。原発をどうあっても維持したいというのは、極めて政治的な思惑そのものからです。核兵器に転用できる能力も設備も、資源もつねに準備しておくという、周到な執念からの権力政治です。核保有の道筋を棄てない、あるいは核武装へのあくなき病もうが渦巻いていたのです。また、この島のかかる「選択」を許容したのがアメリカでした。戦後一貫して釣られてきた、アメリカの軍事政策の実践だったといえます。このような核武装への道を、手段を択ばずにとったのが岸の馬子(孫)だった「嘘つき総理」でした。これは、彼が選んだというのではなく、彼をあしらい、手なずけながら、核兵器の道を進みたかった黒幕がいたのでしょう。それが誰であるか、今は明かさないでおきます。そのためには、少々の原発事故ではへこたれないどころか、さらに前のめりになってその政策を強引に敷設しようとしてきた、この十年ではなかったか。事故発生は、この闇の勢力にとっては、一顧だにする必要もなかった。

 1%のプルトニュム、これこそが鍵(虎の子です)となります。何千億、何兆円がかかろうとも、原発政策を変更せず、何度失敗しても高速増殖炉建設を続け、さらに危険極まりない地盤の上に再処理工場をなんとしても建設したかった、それこそが、愚かな総理を立て続けに選びながら、着々と執拗に前進させてきた劣島核武装計画だったのです。原発事故は、大事の前の小事ですらなかったと、権力の側はたかをくくっているのです。本当の「日米安保」問題は、ここに核心を秘めてきたのです。日本はアメリカの核兵器製造工場であり、貯蔵庫だということです。

 「原子力緊急事態宣言」も10年を経て、なおも発令中です。これが解除されるのはいつになり、どういう状態になれば可能なのか。廃炉作業が続けられているといわれます。では、その廃炉はどういう状況になれば完成(終了)するのか。多分、これには終わりは見えてこないと、ぼくは考えています。人類が生存している間に、果して廃炉作業の完了を見るとこができるのか。いまでも放射能は拡散されています。上空に、地中に、あるいは海水中に。被爆状態もまだまだ持続中です。250キロほど離れた地点で放射能が拡散されている最中、都心を中心に五輪が開かれようとしている。さらに、コロナ禍による緊急事態宣言が発令中で、死者は約8,000人、新規感染者はやがて五十万人に達しようとしている。そのさなかに五輪を開くというのか。狂気の沙汰であり、死の商人や死の政治家の独壇場となっています。如何に異様・異常かという話です。

 ここまで考えてきて、なんだか胸が苦しくなった。無性に腹も立ってきました。花粉症がそうさせたのか、原発事故問題の対応に真剣味がまったく感じられない政府や行政の態度に怒りが込みあげてきたのか。これ以上歩くのが嫌になったのです。少しは風も吹いていますが、青空です。でも、歩くのが面倒にもなりました。ぼくには珍しいことです。考えることは歩くこと、なのかな。普段の半分くらいしか歩かなかったが、本日はこれにて帰宅。(そして今これを書いている。午前十時過ぎ)

 「苛烈な体験をした人が生きていけるのは、その記憶が少しずつ薄れていくから。心がぬくもる体験を新たに重ねていくから。生傷のようだった記憶が薄れることで癒やされていく。年月には、そんな作用もあるのではないか▼「生傷がそっくり残っていたら、生きてはいけない」。渡辺さんは言う。「でもね」。ふと、言葉に力をこめた。「風化させてはいけないことも、やっぱりある」。それは大切な思い出であり、過去の経験から導かれた教訓だ」

 「風化」を口にできるのは、経験者だけだ、傍観者は風化の促進剤じゃないですか。腐敗しきった権力は、きっと腐敗を続けながら、強権を発動しようとします。しかし、やがて腐敗菌が身中に回りきって、仆れざるを得ないのです。アクトンさんが言った「権力は腐敗する」というのは不正確でした。ぼくなら「腐敗するのが権力なんだ」というでしょう。いまでは「頭も顔までも腐敗」している輩がソーリの座を乗っ取っている。彼や彼らは、人民の「慨嘆」「死苦」を歯牙にもかけていないはずだ。

_________________________

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。