どこにもいかず、時に叶って咲くのは花です

【地軸】ミモザ 黄金色の小花が集まって咲く ミモザは、国連が定めた「国際 女性デー」のシンボル。イタリ アでは「ミモザの日」とも呼ばれ、日ごろの感謝を込めて女性に花を贈る習慣がある▲当日のきのうに合わせ、企業などがさまざまなキャンペーンを展開していた。知ることから始めようと呼び掛ける広告や、生理用品を割り引くというコンビニもあった。年々、意識が高まっているように感じる▲記念日は、米国で起きた婦人参政権を求めるデモを起源とし、1975年制定された。先人の努力で少しずつ女性の権利が認められてきたが、性暴力被害を告発する「#MeToo」運動に象徴されるように、差別や偏見はまだ根強い▲日本では、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗前会長の女性蔑視発言が問題となった。とりわけ海外から大きな反発があったことは、意識の差を示していよう。「これくらいのことで」と感じた人がいるとすれば危険信号だ▲政治や組織の意思決定の場に女性が多く参画することで、政策や経営に良い効果をもたらすことが知られている。前向きに取り組めるかどうかが、将来を方向づける分岐点にもなろう▲ミモザには「思いやり」という花言葉がある。日本で長年刷り込まれた意識を変えるのは簡単ではないが、関わる人同士が互いに尊重し合い、女性が当たり前に社会で活躍できる。ミモザがそんなシンボルとなるよう前進し続けたい。(愛媛新聞・2021年3月9日)

● ミモザ(英語表記)Mimosa=熱帯アメリカに約 300種ほど知られるマメ科の1属で多年草または低木。ネムリグサ属ともいう。葉は2回羽状に分れた複葉を互生する。花は蝶形花をつくらず,頭状または穂状に多数集ってつく。花弁は小さく4~5枚あり,おしべは 10本以下で,10本以上あるアカシア属と区別される。最も有名なものはオジギソウである。なお日本ではこの属とは別のアカシア属の植物 (ミモザアカシア) をミモザと呼んで切り花用などに使うこともある。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)(左はアカシア)

歌:ゴスペラーズ
 作詞:安岡優
 作曲:黒沢薫(2004年)

誰かと比べるような 恋なんてしなくていい
誰も知らない(秘密の)その扉開けてあげる

もしも全ての光を(思い出も)暗闇と引き換えても
たったひとつの(君だけに)愛の形を確かめて

ガラスの靴で踊るミモザ 金色の甘いキスを
連れてゆくよ君がいれば きっと最後の恋さ

触れた場所にメロディーライン(I love you)
お互いを覚えてる
二度と消えない(君だけに)真実のこの鐘を何度でも鳴らそう(以下略)

 自主トレと称している散歩の途次、たいていの場合、ぼくは一本の木の前に立つ。時にそれは梅であったり、桜であったり、あるいは辛夷(こぶし)や木蓮(もくれん)などなど、それこそ季節の使者よろしく、時節を告げてくれる木々に、ぼくは感謝したくなります。この所、少し歩いた雑木林のはずれに造成された住宅地の一角にみごとな樹が今を盛りに咲いています。黄色い小さな花をこぼれるばかりにつけ、それこそ、あたり一面にかぐわしいにおいを漂わせている風情です。多分、ミモザだろうと見当をつけていましたが、その通りで、これだけ豊かに育ち、たくさんの花を盛りに咲かせているのに出会ったのは久しぶりです。この種類の木には面倒な類型・系統がありますが、ぼくはそれには無関心で、とにかく、この樹木の下を通るたびに「ハッピー」と言いたくなるのです。だからこそ、自主トレにも精を出そうかという、殊勝な心がけにはなりませんが。花はいいですね。自分を出していますから、誰かに見られるためではなく。

 この時期、梅が終わり、桜まで若干の間があるのですが、ふと目を高空にあげれば、高さ二十メートルもあろうかと思われる一本の木が堂々とした佇まいで佇立しており、その木には真っ白な花々が咲き誇っています。「辛夷」(コブシ)(➡)です。辛夷咲く、あの丘、北国の春と、人口に膾炙した歌謡曲にも詠みこまれている木です。都会では街路樹なんかに仕立てられていますが、拙宅のある田舎では一種のランドマークとなるほどに、立派な姿をしているものがたくさんあります。かなたの雑木林の中に、ひときわ高く聳えているといいたくなるような姿に、しばしば見とれます。

 ミモザが、国連制定の「女性の日」のシンボルツリーであることは知っていましたが、それにかかわりなく、ぼくは清楚であり柔らかそうなミモザが好きですね。アカシアの花も好きですが、この黄色(春のシンボルカラー。菜の花にモンキチョウなど、絶妙のコンビでしょう)がとても気に入っているのです。菜の花を一本の木にまで成長させたのがミモザじゃないかと思ってしまうくらいです。女性差別は許せないし、それを乗り越えて前に進むためには合言葉や掛詞が必要なんでしょうが、ミモザにはそれだけで、独自の美しさがあるのはなんともいいですね。花の美しさというものなんかはない、あるのは美しい花だけだと、誰かが言いましたが、そうかもしれない。「誕生日の花」があり、その花には、誰かにとって都合のいい「花言葉」があります。ぼくが聴いているラジオ深夜便では、毎日花言葉を報じています。このミモザの花言葉は「思いやり」だとか。どうしてかな。

 花には花の、木に木の風情というものがあります。まるで人間と同じです。違うところは、置かれたところでじっと咲いたり実ったりするというところでしょう。渡辺和子さんの著書に「置かれた場所で咲きなさい」というベストセラーがありました。咲きたい時に咲き、誰が見てなくとも咲く。熟成とか、成熟という語がピッタリの定めです。誰にも見られない山中深くに咲いて散る花々あり。人は、その花を見る(会いに行く)ために、道を遠しとしないのでしょう。ぼくが散歩をするのも、きっとそこにじっと立っている、咲いている木や花に面会するためなんでしょうね。花木に面会する、都会では人間に面会と言えば、病院か刑務所か。風情があるとはいえなさそうですね。

 「アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい」と挽歌の如くに歌ったのは西田佐知子さん。1960年の事、時あたかも日米安保反対運動はたけなわを迎えていました。痺れに痺れた連中を知っています。桑原某、久野某さんなどなど。あるいは雨に打たれて亡くなった方がいても不思議ではない時代でした。しかし、幸いに佐知子さんはいまだ健在と聞きます。夫は有名なアナウンサーのS口さん。「夜が明ける 日が昇る」という歌声が今でも、どこかから聞こえてきそうです。

 さらに「アカシア」と言えば、直ちに連想が働くのが「アカシアの大連」でしょうか。詩人の清岡卓之さんが初めて書いた自伝的な小説(1970年刊)。妻の亡き後に、その悲嘆を埋めるかのように書かれた小説でした。大連は満州事変時、日本の租借地でした。日露戦後にロシアから移された地域で、1945年の敗戦時まで日本が統治していたのです。このあたりの小史についても触れたいのですが、「自主トレ」の時間が迫ってきていますので、いずれ後日にでも。(本日は、かみさんを誘って、これからまた「自主トレ(ウォーキング)」に出かけます)

___________________________

投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)