幸福は外側にはなく、追っかけるものでもない

 世界の人々が実践している幸せになるための8つの秘訣

 (Secrets to Happiness Around the World)キャスリーン・レリハン

<コロナ禍のいま人々がどのように幸福を見いだしているかは、国や地域によってさまざま>2020年は、幸せを追求することがかつてなく難しく感じられた1年だった。と同時に、孤独で暗い日々の中に幸せを見つける人間の強さを知った1年でもあった。もっとも、実際に人々がどのように幸福を見いだしているかは、国や地域によってさまざまだ。ヘレン・ラッセルの著書『幸福の地図』から厳選したアイデアに、本誌が見つけたものを加えて、世界の人々が実践している「幸福の秘訣」を紹介する。

01 サウダージ(ブラジル)「サウダージ」、つまり失われた幸せへの郷愁は、ブラジルやポルトガルの文学や音楽でおなじみのテーマ。17世紀ポルトガルの作家マヌエル・デ・メロいわく、これは「苦しくも楽しく、楽しくも苦しい」感情だ。

02 ニクセン(オランダ)不安を解消し、創造性を高めたい? それなら、オランダ人が言う「ニクセン」、つまり「何もしない」を実践してみてはどうだろう。特定の活動をせず、精神を自由に浮遊させれば、人生への充足感が湧いてくるかもしれない。

03 フリルフスリフ(ノルウェー)ノルウェー語に「フリルフスリフ」という言葉がある。「自然に囲まれて、心身共に元気になる」といった意味だ。ノルウェーの人々の幸福度が高いのは、自然の中で時間を過ごすことを好むライフスタイルが理由かもしれない。

04 シス(フィンランド)フィンランドの人々は、どうやって過酷な冬を乗り切っているのか。その秘訣は「シス」にあると言われる。困難に負けない不屈の精神のことである。長時間サウナで汗をかき、凍った海で泳ぐのも、その一環と言えそうだ。

05 メラキ(ギリシャ)食卓に着く人の心を喜びで満たすギリシャ料理。その全てに含まれている隠し味が、愛に突き動かされて一心不乱に課題に取り組む姿勢、「メラキ」だ。これを実践すれば、本人も周囲の人たちも幸せになれるという。マルチタスクはやめたほうがいい?

06 ウブントゥ(南アフリカ)「ウブントゥ」は、博愛主義の精神を表現した言葉だ。2013年、南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領の追悼式でバラク・オバマ米大統領(当時)は、「ウブントゥ」の立派な実践者としてマンデラをたたえ、「周囲の人を思いやる」ことの意義を説いた。

07 ケイフ(トルコ)トルコの人たちは、友人と軽食を楽しんだり、海辺を散歩したりするなど、日常のちょっとした時間を大切にする。それがトルコ語で言う「ケイフ」。この習慣を取り入れれば、手軽に幸せを味わえるかもしれない。

08 ワビサビ(日本)「ワビサビ(侘び寂び)」という考え方の根底にあるのは、はかなさや不完全さを尊ぶ思考だ。仏教の影響を強く受けて形作られた日本の文化では、生命が無常のものであることを認め、物事を最も自然な状態のまま受け入れることにより、人生への充足感を得られるとされる。それは、端の欠けた陶器や、老いつつある人の顔に価値を見いだすことだったり、宙を舞う桜の花びらをめでることだったりする。(News week for WOMAN・2021年03月08日)(https://www.newsweekjapan.jp/stories/woman/2021/03/8-2.php)

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  Helen Russell さんはイギリス版「マリー・クレール」の元編集者だそうです。この8個の方法やスタイルがいいかどうか、やってみなければわからないというばかりです。幸福とは、happenから来ているとすれば、それは瞬間のもの。瞬く間に過ぎゆく時間です。それは人それぞれの感じ方であり、同じ人でも心身の調子に強く左右されるものでしょう。

●ヘレン・ラッセル Helen Russell 英国版『マリ・クレール』元編集者。ジャーナリスト。『サンデー・タイムズ』のリサーチャーとしてキャリアをスタート。2010年に英国版『マリ・クレール』編集部へ。デンマーク移住を機に退社。現在、『タイムス』『ウォール・ストリート・ジャーナル』『Grazia』『Stylist』など世界中の新聞や雑誌に寄稿しているほか、『テレグラフ』のコラムニスト、『ガーディアン』の特派員として活躍している。(出版社より)

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 今朝は八時過ぎから歩きだしました。この二、三日は雨天がつづきましたので、三日ぶりでした。いつものようにコースを決めてから歩きだすのではなく、足の向くまま、気の向くままです。本日も約二時間、歩数にして約一万四千歩ほど歩きました。これが定番のようです。田圃のあぜ道を歩いたり、森の中を通ったり、近所にある「ふるさと村」とかいう別荘地兼住宅地の中を上り下りしながら歩き、まだまだいけそうでしたが、雑用を思い出したので帰宅したという次第。ゴルフクラブ「一番」を持っての散歩です。素振りの練習をするのではなく、ストレッチの道具として使う時があるからです。

 これもどこかで触れましたが、作家の幸田文さんは「歩くとは考えること」だといわれたようです。考えるは歩くことといってもいいでしょう。でも都会や自動車の多い通りを「考えるとは歩くことだ」と実践していたら、それは「考えるとは死ぬこと」になりそうです。まるでプラトンのようです。ぼくはこんな危険は犯さない。まず車が通らない道、通っても、せいぜい軽自動車かトラクターの類です。ところどころに「イノシシに注意」と立て看板が出ています。「歩く」と「考える」はつながっているのは確かですが、とぎれとぎれにつながるといえばいいのか。同じ問題を歩行中にずっと考え続けるのはぼくには至難の業です。考えていたつもりでも、景色に見とれて、まったく上の空、花や植木に目を奪われ、頭は空白になります。これが、ぼくにはいいんです。確かに何かを考えるのですが、自然に違うところに気が移っている。実に巧妙な脳の働きであると、ぼくは感心します。

 ヘレン・ラッセルさん(➡)の本によると、オランダ人は「ストレスを知らない」という。嘘だろうと思う。ストレスという「言葉」を知らないんじゃないですか。犬や猫だって、あるいは人間とつきあっている動物も植物も、きっとストレスを感じています。密になり過ぎると、生き物はストレスを感じるのです。知らないのではなく、オランダ人は「ストレスからの解放策」を上手に実践しているんでしょう。ぼくはまだこの本を読んでいませんし、きっと読まないでしょう。なぜなら、ぼくは「幸福だから」です、と言いたいのですが、そうじゃありません。幸福になるとかなりたいと念じる必要性を感じないくらいに、ぼくは無神経なのかもわかりませんし、それこそ、ストレスを感じないのかも。負荷はかかっているんですが、感度が鈍いから敏感に反応しないというのでしょう。鈍感なんです。鈍感はいいですよ。そのノロさ加減を説明するのはなかなか困難ですが。

 ぼくは不幸だと嘆きもしなければ、幸福だとひとり合点して、有頂天にもならない。競馬に当たれば幸福、外れれば不幸、こんな人「生の幸不幸」を信じる人はいないでしょう。おみくじで大吉が出ると「幸運」ではありますが、果して幸福と言っていいか。反対に「大凶を引いたら、如何します。家に帰って寝込みますかね。ぼくが知っている神社では「凶」や「大凶」は、入れないことにしているそうです。とまあ、幸不幸を他人頼みにするのはよろしくないね。こういう減らず口を叩くので、若いころから、お前は気に喰わない奴、とよく言われます。気に入られたくないとは言いませんが、誰かに好いてもらおうというほど、ぼくは初心(うぶ)じゃないね。 

 いまだかつて睡眠薬というものを飲んだことがない。仮にお酒を睡眠薬といわないのならですが。眠くなれば寝る、そうでなければ寝ない。不眠症という現象を経験したことはありません。これだけでもハッピーじゃないですか。多分、ぼくはぐっすり寝る方です。寝る時間はほぼ決まっています。夜の十時ころです。きっと五時には目が覚める。今朝は、猫に起こされて四時に起床。「起床」は転結の始まりなんですね。その言うところは、今日一日は今日で終わり。明日は明日の風が吹く、という投げやり、あるいはやり投げのような、人生への身の処し方です。一回に一投。果報は寝て待て、とも。待てば海路の日和あり、とも。その日その日を暮らすことに興味を持つ。そのせいかどうか、ぼくは「明け暮れ」という言葉が大好きです。 

  夜が明け、日が暮れる。月日が過ぎる。一日一日が過ぎ去る。「毎日が平穏無事に―・れる」 熱中して終始そのことをする。ある物事に没頭する。「勉強に―・れる」(デジタル大辞泉)明けたら暮れる、であり、明け暮れに余念がないということです。まあ、あえて言えば、一日の生活、その時その時の仕事(すること)に注意深くあるということでしょう。集中でもあり、気分転換でもあるのが、明け暮れのいいところです。つまり、一日一日である、さらにいえば、一時には一事を、それに尽きます。いっぺんにいくつものことをすることはもちろん、考えることすらできません。一時に一事を。

 幸福を感じるには、特別の秘訣なんかないね、ぼくの経験では。幸福だと思えば幸福だし、同じ状況でも、不幸だと思えば不幸になった気がするんですね。気の迷いというのは、怖い、木の葉がお化けに見えるんですから。悲観主義と楽観主義ということを言います。ぼくはこれを、いつも次のようにとらえて実践しようとしてきたのです。悲観主義に陥るのは気分に支配されるからであり(杞憂)、楽観主義は意欲するというか、注意深く物事に処する態度だと。誰にも、分け隔てなく雨が降る。なのに一人は憂鬱になるが、もう一人は「いい雨だ!」と、口に出して言う。そうすれば、憂鬱の虫は消えてしまうんですね。その程度のものですよ、人生の幸不幸の生み出されるところは。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)