
この時世でもあり、とても岡山までは行けそうにもありません。ぼくは彼の地には何度か足を運んで遊びました。備前焼を楽しみにしていた時期が長く続きました。安い焼き物を買っては悦に入っていたのかもしれません。その他、いろいろな機会に岡山に足を向けたのでしたが、ゆっくりと滞在したことはない。駅前の飲み屋で当地の友人と会食したり、あるは拙い話をするために出かけたりしましたが、美術館に寄ったことはなかった。だから、今回は行きたいという気持ちが募りましたが、無念、時間切れです。




● 雪舟(1420~1506)室町時代の画僧で,日本水墨画の大成者。諱(いみな)を等楊といい,雪舟は号。備中(びっちゅう)に生まれ,俗姓は小田氏と伝える。幼少で出家して上洛(じょうらく),相国寺の春林周藤に師事,この間画法を周文に習った。寛正年間に対明貿易の拠点であった大内教弘治下の山口で雲谷庵という画房を営む。1467年大内政弘の勘合船に便乗して渡明,1469年帰国。当地ではすぐれた師を見いだせなかったが,大陸の自然に直接接触し,宋元以来の名作に触れる機会をもったことが,後の画業形成に大きく寄与した。帰国後は大分に画房を開き,また山口の雲谷庵も再興して旺盛(おうせい)な作画活動を続け,ときおり旅行して各地の真景を写し,多くの傑作を生んだ。画風は,宋元明の筆法を意欲的に吸収し,特に南宋の夏珪・李唐・梁楷など謹厳な北宗画的筆法に倣(なら)ったもの,および玉澗などの破墨を摂取したものが目だつ。弟子に秋月等観,如水宗淵らがあり,桃山時代に雲谷等顔が出て以来,雲谷派が形式技法を継承した。狩野派・長谷川派に与えた影響は絶大。代表作《四季山水図》《山水長巻》《秋冬山水図》《天橋立図》。(マイペディア)
● 浦上玉堂(1745-1820)江戸時代中期-後期の文人画家。延享2年生まれ。備中(びっちゅう)岡山新田藩士。寛政6年50歳のとき,春琴,秋琴の2人の子供をつれ脱藩。以後60代半ばに京都におちつくまで,琴をたずさえ各地を放浪した。独学で独自の山水画の世界をきずいた。詩人としての評価もたかい。文政3年9月4日死去。76歳。名は孝弼。字(あざな)は君輔。通称は兵右衛門。別号に穆斎。作品に「東雲篩雪(しせつ)図」(国宝),「煙霞帖」「山紅於染図」など。詩集に「玉堂琴士集」。(デジタル版日本人名大辞典+plus)

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水墨画といい、南画(文人画)というが、ぼくは呼称や流派にあまりこだわらない。とにかく、観ていて、心が少しでも動けば十分に満足なんです。日がな一日、眺めていても飽きが来ない。退屈だとは思わない。そして、いつしか、作者の時代や境遇に没入(そんなことは不可能ですが)したように錯覚してくれば、ぼくはもう最高の時間を過ごしたことになります。禅僧の中でも、ぼくは雪舟が好きでした。理由は単純です、好きに生きた、描きたいように描いたと思われてくるからです。彼は生きながら伝説を残し、死して後、更に伝説は深まったのでした。今でいえば、帝術大学の観を呈していた、京都相国寺にの「美術学部」に学び、将来を高く嘱望されていた雪舟は、そこを退学し、山口に赴き、大名の大内氏の庇護の下、素質を開花させ、さらに明にまでわたり、留学三年ばかり、現地の空気を吸って帰朝します。やがて、才能はさらに開き、無所属の文人画家となります。禅僧の生活の方は少し中休み状態でした。時には足利義政に請われるも、それを受けないままで自由な境地を全開させたのですね。禅僧であり画家であるというのは、どのような生き方ができるのか、その一典型を雪舟は印したとも言えます。彼の生きた地点から、後年の狩野派が生まれます。(玉堂については、機会を改めて)

▼相国寺(しょうこくじ)=京都市上京区今出川通烏丸にある臨済宗相国寺派の本山。京都五山の一つ。万年山と号する。弘和2=永徳2 (1382) 年に足利義満が後小松天皇の勅願を奉じて創建した。開山は夢窓疎石。足利氏代々の尊崇を受けたが,応仁の乱以後衰微した。その後豊臣,徳川両氏の寄進により堂宇も補修され旧観を回復したが,いくたびか焼失し,その後再建された。塔頭 (たっちゅう) 鹿苑院があった (→鹿苑日録 ) 。国宝『無学祖元墨跡』を蔵する。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
お寺や宗派のことはよくわかりませんが、奈良や平安はもちろん、鎌倉や室町あたりでも、それぞれの寺は、今でいうところの帝国・国立大学でした。そこを出た人は新たな大学の教授になるというように、現に存在している各宗派は生き延びてきたでしょうし、そこを中途退学した僧たち、その代表は法然や親鸞、あるいは日蓮なども、彼等はいわば、公認されない私立学校を細々と始めたかのようでした。雪舟の所属した禅寺は、時の天皇や足利牛の庇護の下、西独権力としても権勢を誇りに誇っていたのです。別格とされた大徳寺に加えて、相国寺、天龍寺、建仁寺、東福寺、万寿寺などが勢威をもち、その寺々を管轄するように南禅寺が主格視されて、京都五山とされたのは、後醍醐天皇時、足利義満の権勢がこれを始めた。権力に翻弄されたかったのか、権力を翻弄したかったのか、いずれにしても祭政(政教)はいつでも背中合わせで、世を睥睨してきたのでした。(同様に鎌倉五山もあった。この制度は本家筋の中国に倣ったものでした)

前輪に育ち、あるいは山水画の技法を獲得したと思った雪舟は、照光寺という帝国大学を中途退学したのか、あるいは休学のつもりだったか、いずれにしても期待されながら、寺を出て、諸国を漂うように、周防に出かけ、大名に出会い、将来の方向を定めて、墨絵で生きようとしたのだった。ほどなく、明にまで留学したのです。
(ここで、雪舟たちの画業のあれこれを騙りたい気もしますけれども、ぼくには任が重すぎます、つまり明らかに不向きでありますので、今はここまでにしておきます。「読書百遍…」、という意味に似せて、「展観百遍、絵図自ずから明らかなり」、と行くかどうか。
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