はかなく消える夜空の花火のように

湖面を色彩豊かに夜空を染め上げたびわ湖大花火大会(2021年3月5日午後8時12分、大津市錦織町)
 希望の花火1000発、琵琶湖の夜を照らす 事前告知なし、通行人ら歓声

 春の観光シーズンを盛り上げようと「びわ湖大花火大会~希望の春花火~」が5日夜、大津市の大津港であり、約千発が小雨の降る夜の湖を華やかに照らした。/ 琵琶湖の夏の風物詩「びわ湖大花火大会」は昨年、新型コロナウイルス禍で中止となった。今回は、観光シーズンの幕開けや、東京五輪で10月に変更された今年の大会に弾みをつけようと、同実行委員会が開催した。コロナ対策で観覧者の密集を避けるため、事前告知はしなかった。/ 午後8時に湖上の2カ所から次々と打ち上げられ、琵琶湖のきらめきやさざ波をイメージした青色の花火「びわ湖玉」も初披露。恒例のフィナーレを思わせる「金銀の大瀑布[ばくふ]」もあり、通りがかりの人らから歓声が上がった。(京都新聞・2021年3月5日 22:54)

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 琵琶湖は曽遊の地、幼いころには格好の水遊び場となっていました。また周遊船に乗って、周囲の景色を眺めたり、竹生島や三井寺を訪れたこともありました。今ではすっかり記憶の彼方に消え入りそうになっていますが、季節外れの花火とくれば、かすかに残っている滋賀の都や琵琶湖のあやしげな記憶が刺激されました。いま、大津には愚弟が住んでいます。すっかり無音を決め込んでいるのですが、果して無事だろうか。

 ぼくは無粋を画に描いたような人間で、花火も好きではない。まず騒々しいし、蚊に刺されながらの見物も洒落ていない。これもずいぶんと昔だったか、京都の嵐山で花火打ち上げがあったが、岩田山のおサルをはじめ、多くの動物たちに遠慮したのか、やがて沙汰止みになりました。あちこちで年中打ち上げられていますが、忙しいこと、五月蠅いこと。昨年来のコロナ禍のために、多くが中止されている中の、琵琶湖花火大会でした。(上は山下清作「長岡の花火」1950年作・貼りえ、あるいはちぎり絵)

 かみさんと昼食に出かける店が拙宅の近間にあります。車で十五分ほどですが、なかなか気に入っています。ぼくは、たくさんの酒を浴びてきた人間でしたから、魚には目がなかった。この店は刺身と天ぷら、あるいはアナゴやこはだといった美味なるものを丁寧に食べさせてくれるので、酒を飲まなくなった今でも、しばしば舌鼓を打ちにいくのです。値段は高くない、かといってべらぼうに安いというわけでもありません。もちろん自腹で、(接待なんかではないから)安心・安全にゆっくりと味わえるのが気に入っているのです。

 先だって、何度も通っていながら初めて気が付いた。店の入り口脇にしつらえてあるカウンターの天井近くの壁面に、額縁がかかっていました。偶然目に入った、なんと山下清さんの「花火」の切り絵ではなく「摺り物」でした。かなり大きなもので本物だとすぐにわかりました。本当に懐かしい先輩に出会ったような気がしました。おやじたちがさかんに話題にしていたこともあり、ぼくは早くから彼の履歴や作品を知っていました。

●山下清(1922-1971)=昭和時代の画家。大正11年3月10日生まれ。養護施設八幡学園ではり絵をまなび才能をしめす。点描風の作品はたかく評価され,昭和14年の展覧会は人気をよんだ。各地を放浪して気ままな制作活動をつづけ,「放浪日記」を刊行。「日本のゴッホ」「裸の大将」とよばれた。昭和46年7月12日死去。49歳。東京出身。画集に「山下清画集」。(デジタル版日本人名大辞典+)

 この山下清さん、ぼくは、ずいぶんと彼の作品を観たし、彼の行動や物言いを興味を持って調べたこともあります。ばくが大学卒業後数年して、彼は亡くなりましたが、千葉県の市川にあった彼が在園した八幡学園跡を訊ねたり、その近くにあった精神病院の院長さんで、彼の主治医のような役割を果たしていた式場龍隆三郎さんの書かれた本などをいくらも読んでは一層興味を掻き立てられたことがありました。(上の写真、右は手塚治虫さん)

● 式場隆三郎(1898-1965)=大正-昭和時代の精神医学者。明治31年7月2日生まれ。静岡脳病院院長などをへて式場病院をひらく。昭和21年ロマンス社社長となり,「ロマンス」「映画スター」などを発行。ゴッホ研究家,放浪の画家山下清の後援者としても知られる。昭和40年11月21日死去。67歳。新潟県出身。新潟医専卒。著作に「ヴァン・ゴッホの生涯と精神病」など。(同上)

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 語る必要もないのですが、大学に入ってから、ぼくは心理学や精神分析の文献をたくさん読みました。きっと式場さんなどの影響があったかもしれません。そのご、ドイツやスイスの精神分析学者の何人かを学びました。ビンスワンガー、ウェルトハイマー、コフカ、ケラー、ボス、さらにはヤスパース、その他、よく理解もしないで読み漁ったことを思い出しています。いまでも何冊もの古びた書籍が書棚で埃をかぶっています。その後アメリカやイギリスの学者に移っていき、いつしかぼくの精神分析・分裂病遍歴もうやむやになったのです。その痕跡はいくらか残り火(埋火)として、ぼくのどこかに埋もれているのかもしれません。

 山下清さんを、思わぬところでみつけて、語るに墜ちた話に流れていき、そして花火の残り影のように、夜空に霧消してしまうのでしょう。音もなく消えてゆく花火、山下さんの貼りえの印象は、いつでも音のない世界でした。ここまで来て、ずいぶんと昔に書かれた「音、沈黙と測りあえるほどに」という故武満徹さんのご本を思い出しました。それにしても、亡くなった人は、当たり前ですが、どなたもどこまでも静かなたたずまいで記憶の淵から浮かび上がってくるのです。(写真の右の人は式場隆三郎さん、京都鴨川にて)

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*追記 (奇縁というのでしょうか。山下さんの素晴らしい伝記を書かれた小澤信雄さんが亡くなられました。銀座育ちの洒脱の見本のような方でした)

 作家の小沢信男さんが死去 評伝「裸の大将一代記

 画家山下清の評伝「裸の大将一代記」などの作品で知られる作家の小沢信男(おざわ・のぶお)さんが3日午後11時47分、CO2ナルコーシスのため東京都千代田区の病院で死去した。93歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は妻三重子(みえこ)さん。

 日本大芸術学部在学中に花田清輝に作品を認められ、戦後の民主主義文学運動をリードした新日本文学会に所属。小説や詩、俳句、評論、エッセー、ルポルタージュなど多彩な作品を晩年まで執筆した。2001年「裸の大将一代記―山下清の見た夢」で桑原武夫学芸賞を受賞。主な著書に「犯罪紳士録」「東京骨灰紀行」など。(2021/03/07 14:45共同通信)

 小澤さんは筑摩書房から多数の著書を出しています。その書肆の著者紹介による記述です。【1927年生まれ。東京・銀座西8丁目育ち。日本大学芸術学部卒業。大学在学中の52年、『江古田文学』掲載の「新東京感傷散歩」を花田清輝に認められ、53年に「新日本文学会」に入会。以後、小説、詩、俳句、評論、エッセイ、ルポルタージュなど多ジャンルにわたり文筆活動を行う。著書に『私のつづりかた』『東京骨灰紀行』『裸の大将一代記』『悲願千人斬の女』(以上、筑摩書房)、『俳句世がたり』(岩波書店)、『通り過ぎた人々』(みすず書房)、『捨身なひと』(晶文社)、『本の立ち話』(西田書店)などがある。】(筑摩書房)

 小澤さんを追悼する意をこめて、浅草は田原町育ちの粋人作家、久保田万太郎さんの句を一、二句。

 ・震災忌向あうて蕎麦啜りけり  ・湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 

 「震災忌」とは関東大震災のこと。「湯豆腐や」は、妻にも子にも先立たれて、たった一人で最晩年を孤独に生きた万太郎(1889-1963)さんの、あるいは辞世の句、白鳥の吟(うた)だったかと思う。この一か月余後に亡くなります。ぼくの最も愛する句です。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです