若干煩あり。求めざらんには、如かじ

 永遠(とこしなへ)に、違順に使はるる事は、偏(ひとへ)に苦楽の為なり。楽といふは、好み愛する事なり。これを求むる事、止む時無し。楽欲(ぎょうよく)する所、一(ひとつ)には名なり。名に、二種あり。行跡(こうせき)と才芸との誉(ほまれ)なり。二(ふたつ)には色欲。三(みつ)には、味(あじはひ)なり。万(よろづ)の願ひ、この三(みつ)には、如かず。これ、顚(てんどう)の想より起こりて、若干(そこばく)煩(わづらひ)あり。求めざらんには、如かじ。(「徒然草」第二百四十二段)

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 禍福は糾える縄の如し(=カフクハアザナエルナワノゴトシ《「史記」南越伝から》幸福と不幸は、より合わせた縄のように交互にやってくるということ。吉凶は糾える縄の如し。デジタル大辞泉の解説)

 この諺言は、いつの時代にも世間においてはよく使われました。兼好が上の段で述べているとおりです。いい時と悪い時はまるで縄をなうように、交互にやってくるから、一喜一憂しても仕方がないというのかもしれません。自分が好むことをどこまでも追及する、それも当然であるが、際限がないのです。人間が追い求める「楽」には「名(名誉欲)」「色欲」「味(食欲)」の三つあると彼は言います。これに異論のある人がいるでしょうか。多少や強弱においての個人差はあっても、どなたもこの「三欲」には思い当る節があるはずです。それによって、手痛いしっぺ返しを経験された方もきっといますね。

 これを人間の「情念」と言い換えてもいいでしょう。どんな人にも、この情念があります。愛憎、怒り、恐れといったものは、おそらく人間から除去することはできないものです。いくらかでも少なくすることがせいぜいであって、情念のない人生は、ぼくには考えられないのです。それは「ストレス」のない生活が想像できないのと同じです。「空気の抵抗がなければ、もっと自由に飛べるのに」と愚かな鳩は考えたと、カントは言いました。たしかに「苦楽」の襲来や追及のために、ぼくたちはいつでも七転八倒しているのです。自分では気づかないだけのことであって、この苦や楽のために、好き放題にふりまわされているといってもいいでしょう。兼好は「楽欲」(ぎょうよく)といっています。この「楽欲」を情念というのは、それは自分の内から生じてきてぼくを困らせたり、悩ませたりするからで、この欲に対して、何時でもぼくは受け身。受動でしかないんです。passions というのは、passive にしか経験されないんですね。

● 楽欲=《「楽」は願う意》仏語。願い求めること。欲望。(デジタル大辞泉)

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 兼好さんは別の個所でも述べています。

 真に、愛著(あいぢゃく)の道、その根、深く、源、遠し。六塵(ろくじん)の楽欲(ぎょうよく)、多しと雖も、皆、厭離(おんり)しつべし。その中に、ただ、かの惑ひのひとつ、止め難きのみぞ、老いたるも若きも、智あるも、愚かなるも、変はる所なしと見ゆる。

 自ら戒めて、恐るべく慎むべきは、この惑ひなり。(第九段)

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 とりわけ「色欲(愛着)」は始末に悪いもので、自ら戒めて、ひたすら慎みなさいという。きっと兼好さんにとっても難敵・宿敵であったのでしょう、この「色欲」は。以来、生まれ代わり死に代りして、人はすっかり入れ替わりましたが、「楽欲」するところは少しも変化しない。人間は生きているかぎり、この「三欲」のすべてにか、あるいはどれかに悩まされ惑わされ、幾たびも間違いを犯すのです。その度に、後悔の臍を噛むのですが、一向に改まらないのは、生きている証拠でもあります。「バカは死ななきゃ治らない」

 その囚われから抜け出す道はあるか。ある、と兼好は断定します。「これ、顚倒(てんどう)の想より起こりて、若干(そこばく)煩(わづらひ)あり。求めざらんには、如かじ」と。いずれにしても、世の中に対する逆立ちした想念から、この「楽欲」は生じるのですから、何よりも求めないに限るのです。というのですが、それが出来れば、苦労も苦悩も起こりはしないんですね。わかっちゃいるけど、止められない!

 「顚倒(てんどう)の想」とはどういうことか。少し面倒な言い草になりますが、人生の意味や価値を自分(人間の分際)で決める姿勢や態度を指すといっていいでしょう。自分で人生の価値を決めるというのは顚倒した態度です。うまくできたときは幸せで、失敗したら、不幸になるというのは、いかにも当たり前のようですが、よく考えると成功も失敗も、同じ自分の経験です。自分は変わってはいなんです。

 ある大学に入学出来たら幸福で、不合格だったら不幸だというけど、人間の値打ちは「大学の合否」に依存しているんですか、そのようにぼくは聞きたいですね。こんなことの連続が生きているということではないでしょうか。まさに顚倒、です。合否は偶然みたいなもので、「違順に使はるる事」と兼好さんは言っています。いい時と悪い時はいつでもやってきます。だからどちらにも拘泥しない、また齷齪(あくせく)しないように、自らを訓練するしかないとは言いませんが、もう少し果報は寝て待てというか、三日続きの荒天なんてまずないんだと知ること、そんな姿勢や態度を自分の中に育てたらどうですか。

 君子危うきに近づかず。

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。