菜の花や月は東に日は西に

春を告げます、若草色のフキノトウ 京都・与謝野、地元の味にも

 (土の中から新芽をのぞかせたフキノトウ(京都府与謝野町金屋))

 京都府与謝野町の野山でフキノトウが次々と芽吹き、住民に春の訪れを告げている。/ 町内では田畑のあぜ道や道路わき、日光の当たる斜面などで、若草色の新芽が見られるようになった。/ 与謝野町金屋のカフェ「四季菜きはら」の近辺では、2月上旬から顔を出し始めた。摘み取ったフキノトウはフキみそにして店で提供するほか、町内の道の駅や京都市内のレストランに出荷している。/ カフェ店長の女性(39)は「今年はしっかり雪が降ったのに、暖冬だった昨年並みに早く出てきた。春になり、新型コロナウイルスも収束してくれたら」と願う。(京都新聞・2021年3月1日 8:54)

 フキノトウが何で話題になるのか、あるいはするのか。まあ、雑草といってはよくありませんが、だれも気きにしないままに育つもので、わざわざ記事や写真にすること自体、それなりに自然と人間の関係がおかしくなっている証拠だし、自然環境が年々狭められていくという例証にはなるでしょう。タラの芽やフキノトウなどは、拙宅の裏庭でもいきおいよく育っていますし、やがてそれは知らぬうちに姿を消しています。また来年までとでもいうように。

 木喰という言葉があります。あるいは木喰聖人(しょうにん)とも。

● 木喰上人(読み)もくじきしょうにん=木の実や果実を常食とする (木喰戒を守る) 僧の総称。木喰応其と木喰五行明満が有名。(ブリタニカ国際大百科事典)

 元は普通名詞のように使われ、草食を旨とした出家者をさしていたのでしょう。それがある時期から特定の僧(固有名)を言い当てるようになったのです。いまだって、探せばいくらでも「木喰さん」はいるに違いありません。いわば野生の草や木の実を常食していた、縄文人のようでもあります。このような食用の草木は実に古くからこの島にも存在していたのであり、それが豊かだったから、ついには人口が一億を超えたともいえるのです。

 話はわき道にそれていきます。脈絡のないところが、雑文・駄文の本領かもしれませんので、お許しください。

 ぼくの好きな俚諺のような言葉に「元の木阿弥」というのがあります。由来や詳細は不明で、諸説があります。その一つに「木喰」が出てきます。以下に、ある辞典の解説を出しておきます。

「ふたたび元のつまらない状態にもどること。 [解説] このことわざの由来については諸説あって、定かではありません。「天正記」は、戦国時代の武将筒井順昭が病死したとき、嗣子順慶が幼少だったので、遺言によって、声のよく似た木阿弥という盲人を薄暗い寝所に置き、順昭が病床にあるように見せかけていたが、順慶が長ずるに及んで木阿弥はもとの市人にもどったという故事によるとしています。また、「七人比丘尼」は、ある人が妻を離縁して出家し、木食(もくじき)の修行をして、木阿弥、木食上人などと呼ばれ尊ばれたが、年を経るに従い、木食の修行も怠りがちになり、元の妻とも語らうようになったのを世人があざけって取り沙汰した話によるとしています。そのほか、百姓の木工兵衛が僧に献金して某阿弥の号を得たが、村人は新しい名で呼ばず、たまたま呼んでも旧名にひかれ木工阿弥などと呼ぶため、買名の功もむなしかったという話によるとする説、朱塗の朱がはげて木地があらわれた意の元の木椀から転じたものとする説などがあります。「も」の頭韻によるリズムのよさで常用され、「もくあみ」の語から広がるイメージによってさまざまな説を生んだものと考えられます。[使用例] 殖やした当座が少し楽なばかり、三月と経たぬ中にまた元の木阿弥となる[二葉亭四迷*其面影|1906] (ことわざを知る辞典)

 どうしてこんなに多様な由緒が残されたのか、なんとも不思議だし、だからぼくは、これまでもずっとこの由来について考えてきたのです。埒もない話ですが、木喰説はいかにもありそうです。もう少し書きたい気もしますが、ここで止めておきます。また「妙好人」という存在にも、ぼくは興味を抱いてきました。このことについては、柳宗悦さんや鈴木大拙さんがよく書いておられました。民間にあって在家僧のようなたたずまいをしていたとも受け取られます。篤信の人であり、いかにも仏道に背くなどということは金輪際しない、そんな人たちのことでした。

● 妙好人=真宗を中心とした浄土教の篤信者のこと。《観無量寿経》が念仏者を〈人中の分陀利華(ふんだりけ)〉とたとえたのを,唐の善導が《観経疏散善義》で注して,〈人中の好人,人中の妙好人,人中の上上人,人中の希有人,人中の最勝人〉と称したのに始まる。本来は念仏篤信者に対する褒賞語で,法然,親鸞,一遍などもその意に用いたが,江戸時代末に《妙好人伝》が板行されて以後,とくに真宗の在家念仏者の篤信家を指す語となった。そのほとんどは農民を中心とする庶民的な念仏者で,その生活がすべて念仏中心に展開するのを特色とする。(世界大百科事典 第2版の解説) 

 出家するまでもなく、再上等と評価されてしまった「念仏者」がいたというのでしょう。若いころに、いろいろと仏教関係の雑誌を手当たり次第に読んだことがありましたが、その中にも「妙好人」はよく出ていました。今ではあまり見られなくなった「好々爺」などという言い方が、どこか妙好人を想像させるという点で静かで、爽やかな、奇特な人という印象でした。こんな「人中の妙好人」も、何かの折に「元の木阿弥」に還るということがあったのでしょう。お里が知れる、つまりは「元の性悪」に戻る、つまりは「先祖返り」、いや性悪の人間に舞い戻るといった風情であります。

 木喰さんといい、妙好人というのも、彼や彼女たちは牛や豚の肉を食べたことはなかった(殺生戒)という意味では、ベジタリアンだったとも言えます。一汁一菜、あるいは一汁三菜も、もとは粗食を指していたし、この食べ物は、今では寺域を出て世間にまで浸透しています。粗食という以上に、栄養価の高すぎない食事、精進料理などと称されるものが、今日もてはやされるのは、仏教の影響というよりは、健康第一嗜好に根差しているのでしょう。春の七草は言うまでもなく、フキノトウやタラの芽やワラビ・ゼンマイといった自然由来の食料こそが、今となれば最高の贅沢という時代になりました。

 拙宅の周りは草食の材料には事欠きません。まるで「野草の宝庫」です。これをよく食すれば、ぼくは妙好人になれるでしょうか。あるは「木喰上人」に近づけるかどうか。どうも、「元の木阿弥」がうってつけという気が自分でもしますね。雨もやみました、すこしばかり歩いてきます。一日、漫歩(万歩)です。

 京都の与謝は蕪村の母の郷里とされてきました。彼の姓もそれによったとも、かつて彼の地(京都丹後地方の与謝郡)に遊んだことからとも言われています。蕪村句を二つばかり。

・うたた寝のさむれば春の日くれたり    ・雲を呑んで花を吐くなるよしの山

 蕪村が木喰さんだったり、妙好人だったりであったとは言いません。きっと、今日でもどこにでもいるであろう、大変自意識の強い人だったと思われます。人間にはそれぞれの自覚・自己認識が生まれてくるものでしょうが、その強弱は生まれや育ちによる部分が大きな力を持っているでしょう。その伝でいえば、蕪村は自意識過剰ではないかと言われるほどの人だったといえます。異常に強すぎる自意識からの解放を願いつつ、南画を描き俳句を詠んだというのが事実だったようです。その残されたものを見れば、自意識は十分に抑制されているとも見えますが、その内面・内心はどうであったか、それはだれにもわからないことだったでしょう。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。