私のふるさとは、戦争の道具になったり

【滴一滴】詩人の石垣りんさんは昭和の初めに旧制の高等小学校を出てから40年余、銀行で勤め上げた。「定年」という詩がある▼〈ある日/会社がいった。/「あしたからこなくていいよ」/人間は黙っていた。/人間には人間のことばしかなかったから。/会社の耳には/会社のことばしか通じなかったから。〉▼たとえ黙っているとしても万感胸に迫るに違いない。「お疲れさま」の言葉を贈りたい。会社の制度によるものの、年度末は退職する人が多い時期である▼今、企業に希望者の雇用が義務づけられているのは65歳まで。それが新年度から努力義務ながら、70歳までになる。ゴールが遠のくことに戸惑いを覚えることもあろうが、年齢を重ねた後の働き方を考える上での転機にもなる▼石垣さんの退職は1975年、55歳の時。「まだこれから」の思いもあったろう。冒頭の詩には〈「あきらめるしかないな」/人間はボソボソつぶやいた。〉のくだりもある。84歳で亡くなるまで詩人として活躍した▼シニアの活躍は社会の要請でもある。65~70歳の働き方は今の継続雇用制度などに加えて、業務委託や社会貢献活動への従事も可能とされる。ただ、なかなか働く側の思い通りにならないのが実情のようだ。「あきらめるしかないな」で終わらずに、次に挑める「70歳現役社会」を目指したい。(山陽新聞デジタル・2021年03月31日 08時00分 更新)

 本日は年度末です。明日からは新年度。今のぼくにはことさらの感想もありません。「定年」という社会の仕組みがまだ残っていますし、その日を迎えて一人、あるいは大勢で感慨に浸るということもあるのでしょうか。数日前に一枚のはがきが届き、「定年を迎えて、退職しました」という友人の消息でした。ぼくにもそれらしい退職の時期はありましたが、ほとんど意識しなかったし、取り立てて「定年(停年)」を感じ取る感傷もなかった。ぼくはよほど偏屈にできているようで、人並みに、「おめでとう」「お疲れさま」などと言われるのが実にいやでしたから、だれにも知らせないで、こっそりと勤め先を辞めたという風にしたかったのです。ある友人が奇特にも、職を辞するのを「記念」して、小さな会を開いてくれた。予想していなかったので、とても驚いたし、友人の好意をありがたく受け取りました。仕事務めは辞めましたが、特段、目新しい生活を送ろうという気分にもなりませんでした。

 ただ、人並みにではなく、まず「余生」とか「老後」という言葉は使いたくなかったし、そのような「生活の仕方」を自分に課そうともしないままで、今に至っているのです。しばらくはこれまでとは違う生活に慣れるのに少し戸惑ったりしましたけれど、今ではなんの不都合もなく(とは言えませんけれども)、まあ「平凡に徹して」、滑ったり転んだりと、その日をなんとか暮らしています。

「定年」 石垣りん

ある日
会社がいった。
「あしたからこなくていいよ」

人間は黙っていた。
人間には人間の言葉しかなかったから。
会社の耳には
会社のことばしか通じなかったから。

人間はつぶやいた。
「そんなことって!もう40年も働いてきたんですよ」
人間の耳は
会社のことばをよく聞き分けてきたから。
会社が次にいうことばを知っていたから。
「あきらめるしかないな」
人間はボソボソつぶやいた。

たしかに
はいった時から
相手は、会社だった。
人間なんていやしなかった。
出所:三菱UFJリサーチ&コンサルティング「2019(平成31/令和元)年度新入社員意識調査アンケート結果」

 「高年齢者雇用安定法」が改正され、それ以前とはまったく異なった労働環境の時代が生まれようとしています。人生の新たな設計が求められるのでしょうか。これまでは希望者は六十五歳まで雇用されるようになっていましたが、この四月からは、更に最長七十歳までに延長されたのです(希望すれば、七十歳まで働くことが可能なようにという、努力目標が企業に対して設定されました)明治以降、早い段階から五十五歳定年制が普及しましたが、近年の高齢化社会の到来で、いつしかそれが六十歳となり、更に六十五歳にまで延長されてきました。長寿化は、一面では高齢者が働かなければならない時代でもあるのです。「人生百年時代」ともてはやされていますが、それはどんな社会なのか、人間が働くことに喜びを見出すことがとてつもなく困難な時代でもあるとされるのはどうしてでしょうか。コロナ化だけが直截の原因ではないでしょうが、「働く環境」は目を見張るほど素早く変貌しています。

 少子高齢化時代・社会の到来は、きわめて早くから想定されていましたが、そのための社会福祉や労働政策を策定するという、当たり前の政治課題をほとんど考慮することなく、いたずらに高齢化社会の危機的状況を煽るような社会的な風潮が続いてきました。政治の貧困が最大の原因ですが、それ以上に、そのような人間を尊重しない政治にすべてをあずけたような経済セクターの無責任をも忘れることが出来ません。

 非正規雇用の爆発的な拡大、それに歩調を合わせるように正規社員の雇用環境の激変、その本質は悪化ですが、それが加わって、さらに展望のない社会生活を映し出しているのです。終身雇用、年功序列などという労働慣行はとっくに霧消しており、いまではその日暮らしを余儀なくされるような、不安定な生活状況に、多くの人たちは苦しめられています。このような傾向は、昨年来の「コロナ禍」でさらに顕著になり、看過できないほどの「格差」「貧困」を産んでしまったのです。それを修復する気づかいは政治にはありません。

 石垣さんの「定年」に出てくる「会社」は理不尽で非人間的な組織であり、それは紛れもなく国家の「一下請け」です。その下請け(孫請け)が学校だというと、違うよと言う非難が出るでしょうか。

 「国家がいった。あしたから生きなくていいよ」「人間は黙っていた」「あきらめるしかないな」「 たしかに 生れた時から 相手は、国家だった。 人間なんていやしなかった」と、いい加減な替え歌を弄んでいるうちに、背筋が寒々としてきました。 考えるまでもなく、学校も会社も、みんな「国家」の先兵でした。そんな「国家」の時代を早く通り越したいものです。

“””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

 石垣さんの「詩を書くことと、生きること」の一部を引用しておきます。すっきりと清々しいという漢字を、ぼくはいつも彼女の詩から受けてきました。稀有ことですね。

 私が就職したとき、象牙の印鑑を一本九十銭で、親に買ってもらいましたが、毎日出勤簿に判を捺している間に、白い象牙がすっかり朱色に染まりました。この間、印鑑入れを買いに行きましたら、これも年配の古い店員さんが「ずいぶん働いたハンコですね」と、やさしく笑いました。お互いにネ、という風に私には聞こえました。
 それにしても一本のハンコが朱に染まるまで、何をしていたのかときかれても、人前に、これといって差し出すものは何ひとつありません。
 一生の貯えというようなものも、地位も、まして美しさも、ありません。わずかに書いた詩集が、今のところ二冊あるだけです。綴り方のような詩です。
 ほんとに、見かけはあたりまえに近く、その実、私は白痴なのではないかとさえ、思うことがあります。ただ生きて、働いて、物を少し書きました。それっきりです。(中略)

 つとめする身はうれしい。読みたい本も求め得られるから。
 そんな意味の歌を書いて、少女雑誌に載せてもらったりしました。とても張り合いのあることでした。
 と同時に、ああ男でなくて良かった、と思いました。女はエラクならなくてすむ。子供心にそう思いました。
 エラクならなければならないのは、ずいぶん面倒でつまらないことだ、と思ったのです。愚か、といえば、これほど単純で愚かなことはありません。
 けれど、未熟な心で直感的に感じた、その思いは、一生を串ざしにして私を支えてきた、背骨のようでもあります。バカの背骨です。
 エラクなるための努力は何ひとつしませんでした。自慢しているのではありません。事実だっただけです。機械的に働く以外は、好きなことだけに打ち込みました。(石垣りん「詩を書くことと、生きること」『ユーモアの鎖国』ちくま文庫所収)

___________________

 桜の花の 栄ゆる御代に

***************************

○ ちょうちょう=日本の唱歌の題名。スペイン民謡に基づくとされる。作詞:野村秋足、作曲者不詳。発表年は1881年。歌いだしは「ちょうちょう ちょうちょう 菜の葉にとまれ」。(デジタル大辞泉プラスの解説)

○ 野村秋足 のむら-あきたり(1819-1902)=江戸後期-明治時代の国学者。文政2年生まれ。尾張(おわり)名古屋藩士。鈴木朖(あきら),植松茂岳にまなぶ。明治元年藩校明倫堂の教授となる。のち愛知師範,岐阜師範などでおしえた。明治35年12月29日死去。84歳。本姓は大橋。初名は正徳。通称は八十郎。号は蔦廼舎,琢斎,橘西など。著作に「伊勢参宮道之記」「外舶瞬覧」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

 野村秋足は愛知師範学校時代に伊沢修二の知遇を得、その命で「唱歌」の採録に着手し、「蝶々」の詞を得たとされます。

歌詞:「小学唱歌集」(1881年)
蝶々 蝶々 菜の葉に止れ (作詞 野村秋足)
菜の葉に飽たら 桜に遊べ
桜の花の 栄ゆる御代に
止れや遊べ 遊べや止れ

おきよ おきよ ねぐらの雀 (作詞 稲垣千頴)
朝日の光の さきこぬさきに
ねぐらをいでて 梢にとまり
あそべよ雀 うたへよ雀

1947年以降の歌詞
ちょうちょう ちょうちょう
菜の葉にとまれ
菜の葉にあいたら 桜にとまれ
桜の花の 花から花へ
とまれよ遊べ 遊べよとまれ

 「蝶々」の出自は明らかではありませんでした。スペイン民謡とされたり、ドイツ民謡とされたり。今ではドイツ派が優勢です。明治十四年編集、翌十五年に発行された最初の小学校唱歌集(初編)の一曲として採用されました。学校唱歌の一番バッターだったんですね。他には「見わたせば(むすんでひらいて)」、「霞か雲か」、「蛍(蛍の光)」、「菊(庭の千草)」など全九十一曲が収録されていました。多くは外国産の曲でしたが、音楽教育(唱歌)の伝統のない社会でしたから、一面では当然でもありました。この唱歌集編纂にも、伊沢修二氏は多大な働きをしました。東京音楽学校校長(初代)として、西洋音楽の採用・輸入にも力を尽くし、そこから日本の歌曲ともいわれるものが生まれてきたのです。詳細は省きますが、これまでにまったく経験しなかった、音階や音調の曲が小学校をはじめとする学校教育に浸透する手がかりを作ったのでした。

 いまでも「蝶々」がよく歌われるのではないでしょうか。春の花盛りを唄の面から愛でる趣を持った曲調だし、年齢を問わず歌えるという唱歌の基本に忠実に日本化された嚆矢となったのも、じゅうぶんにうなずけると思います。この数百年、あるいはもっと前から、蝶々は「花から花へ」と著しい活躍をし、受粉作業を引き受けてもいたのです。いまでも拙宅の周りに、あるいは小さな庭に蝶々が舞い降りてきては花から花へと「遊び」に夢中です。しかし、この愛すべき昆虫も、やがては絶滅するのかと思えば、人間のこの先は決して明るくないことをしきりに感じてしまうのです。それをも考えさせてくれる「蝶々」ではあります。

  「菜の葉に飽たら 桜に遊べ 桜の花の 栄ゆる御代に 止れや遊べ 遊べや止れ 」という歌の心は、あきらかではなかったか。これが麗しい「伝統」になったとは言いませんけど、桜の花に寄せる、いわば偏愛ともいうべきものの背後にどんなものがあったか、それを類推させるに足る「唱歌」ではあったでしょう。

“”””””””””””””””””””””””””””””

○ さくらさくら=日本の唱歌の題名。作詞者不詳。江戸時代から伝わる筝曲に基づく。筝曲としての採譜は1888年。歌詞がつけられたのは1941年。歌いだしは「さくらさくら 野山も里も」。2007年、文化庁と日本PTA全国協議会により「日本の歌百選」に選定。(デジタル大辞泉プラスの解説)

 「野山も里も 見わたす限り かすみか雲か 朝日ににおう さくさくら 花ざかり」とこの歌を耳にして、ぼくは宣長さんの「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」の和歌を想起します。「朝日ににおう」山桜を、いったいどれだけの人が見たというのか。朝日に照り輝き、まるでにおうさくら花をみて感動する「私の心」を宣長は歌ったのだとすれば、それ大和民族の心なのだと、どうしていえるのか。ここに、本歌取りというのか、宣長の心持こそが、大和心なのだという観念が住みついているのがわかると、ぼくは考えるのです。おそらく、この歌が歌われようとしていた当時、つまりは明治初年以降でしょうが、目にできる桜の大半が山桜だったと思われます。

 桜には数えきれないくらいの品種(数百種・バラ科です)がありますが、もっとも単純な分類は「ヤマザクラ」と「サトザクラ」でしょう。山に咲く、里に咲く、その違いだけで種類も異なっていました。根拠を示すのは難しいが、この唱歌に詠われているのは「山桜」だと、ぼくは推定しています。これは日本に自生する、かなり古いもので、たぶん宣長さんが詠みこんだのもこれだったでしょう。樹高は二十メートルにもなる大木で、樹齢千年も生きるものが今でも各地にあって、その華麗な輝きを誇っています。(右はソメイヨシノ)

 この唱歌について何かを言うつもりはありません。ただ、歌を仲立ちとして、それに加えて、日本の学校の庭に植樹された木の多くがサクラ(ソメイヨシノ)だったことをも考えると、桜好きの傾向は「教育的産物」だったとは言えませんか、その程度の語るに落ちた話柄を持ちだしただけのことです。

 今春は実に桜を堪能しました。まだまだ桜の季節は続きますが、天気のいい日は、毎日のように二時間、三時間歩く、その道筋に、おそらく大小数百本の桜木がありますが、その中でも遠くにかすんで見えるものや、目前の小振りなものまで、百本を数えるばかりの桜を見ているのです。新しい発見もありました。いいなあと、ぼくが感心するものの多くは、山桜でした。もちろん、これにも多くの種類がありますが、素人にも見分けがつきます。匂いや樹形、あるいは花の開花時の葉と花のコラボなど、おそよ「ソメイヨシノ」とは比較できません。どちらが好きか嫌いか、それは人それぞれの好みです。もちろん、ぼくは「山桜」派です。(左は山桜)

_________________________

 守りたいものはあるか

昭和二十九年法律第百六十五号 自衛隊法(自衛隊の任務)

第三条 自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。(中略)

3 陸上自衛隊は主として陸において、海上自衛隊は主として海において、航空自衛隊は主として空においてそれぞれ行動することを任務とする。(以下略)

+++++++++++

(図表は「令和元年度「防衛白書」から)

 今時の「自衛官募集ポスター」いろいろ。知人や友人、あるいは縁者に、自衛官がいますので、常々、自衛隊の活動などには深い関心を持っています。あるいは「感謝」と言ってもいいくらいに、自衛隊の災害救援・復旧活動などには頭が下がる。自衛官募集ポスターが行政関係の役所などに張り出されていたのを何度も見ていますが、こんなに色鮮やかな、驚くほど開放的な「女子キャラ」であふれかえっているのは寡聞にして知りませんでした。「定員」を満たすための隊員募集が大変であるとは聞いていましたが、それにしてもよくぞここまで派手に「アニメ」調を導入したものだと、驚愕し感心するばかりです。はたして、これで定員が満たされたのか、狙いは的中したのでしょうか。あるいは、実態は「非難殺到」だったのではなかったか。集め李ためには手段は構わぬ、そんな心意気がポスターの背後から透けて見えそうです。

++++++++++++++++++

 明治四年に設置された帝国陸軍以来、山あり谷ありというべきか、花も嵐も踏み越えて、時にはあたら無謀な戦陣を張ったがために、多くの犠牲を方々でうみだしたのであり、その責任や保障問題をあいまいなままにして、いつの間にか、国民をも欺きながら、今日ある姿にまで「自衛隊」という防衛かつ戦闘軍は履歴を重ねてきました。近年は、軍隊があれば国防は大丈夫という時代ではありません。いつ何時、どこからどんな攻撃兵器が飛び込んでくるかわかったものではなくなりました。「冷戦時代」には、核拡散というのか、核武装競争が熾烈に展開された結果。そこにつぎ込む戦費(核軍備開発費用)に耐えられなくなるほどに、愚かな競争が続いた結果、「冷戦」はいったん集結、雪解けを迎えたといわれましたが、やがて選手交代、(冷戦時再来の)数歩前段階の、新「熱戦」時代が始まっているとも言われます。米中間がそうなのでしょうが、二つの大きな国に挟まれて、この小さな島はどこに歩を進めたらいいのか。

 よく「備えあれば憂いなし」と言われます。ホントにそうか。ぼくはむしろ、「備えあるから、憂いあり」「備えあれども、憂いあり」だと考えています。(仮想)敵が新たな武器を開発し、それを使う準備をしているとどこかから連絡が来れば、防衛庁は宗主国に相談し、言い値で「古くて高額」の武器を購入する(させられる)。「武器の爆買い」と言われる現象がこのところずっと継続しています。おそらくこの競争(意識)に自制能力はないのですから、さらに無理を重ねることになります。

 自衛隊という「軍隊」の定員は法令できめられていますが、このところ定員割れを起こしています。したがって、自衛隊員募集に拍車がかかっているのです。あの手この手で、隊員集めに狂奔しているともいえます。この「アニメキャラ」もその一方法でしょう。これで誰を狙っているのか、ぼくには判然としませんが、きっと大きなターゲットがあるのでしょうし、このような「キャラクター好き」が軍隊向きかどうか、それもぼくにはわかりません。いずれにしても、この案内によって、どれだけ効果があったのか、明らかにしてもらいたいものです。

 小なりと雖も一国の防衛には軍隊が必要です。この島国は不幸で無残な歴史を持ってしまった結果、「自衛隊という、軍に有らざる軍隊」(詐称・自衛隊)を拡張せてきました。この数年の「防衛庁関係予算」も拡大の一途を続けています。純粋に国防のためだなどとは、殆んど信じられていないのですから、無駄な防衛費の拡大増加というべきでしょう。このほかに、「後年度負担」という借金の支払いもあります。誰が見ても、この島防衛軍はアメリカのATMであり、防衛費において、顕著にその機能が発露しています。島ですから、大陸とはつながっていません。四囲は海です。大海の孤島とはいいませんが、いったい、この海岸線をいかにしてに防衛するのか、制空権は他国が握っています。アニキャラで集まったとされる隊員で、はたしてよく防衛任務を果たし得るのか。

 徹底した対話外交というのは、取るに足りない政治手法でしょうか。こんな狂気じみた軍事大国(米中ロ)の谷間に咲いた「白百合」(という譬えはふさわしくないことは自覚しています)が、(自国防衛に徹するために、防衛力を強化するという荒唐無稽の愚作で)どうして軍事大国を向かい打つ能力を発揮できるのか、無手勝流を信条として生きてきた年寄りには、はるかに理解を超える愚問であり、珍問です。防衛費は膨張し、人民は疲弊し、政官業は私腹をさらに、これ見よがしに肥やしています。政治家無能島の人民や憐れ。

 静な夜口笛の消え去る淋しさ(喜多一二(かつじ)二四年「北国柳壇」)(後年、鶴彬と改名・1909-1937)

 ここで、ぼくは「防人」を想起します。なぜだかよくわかりません。この島を防衛するために、主として東国から募られた兵士たちは、はるか九州の地に赴き、朝鮮半島からの襲撃に備えたという。千数百年前の兵士たちの多くは妻帯者だったかもしれないし、父母を故郷に残したままで任地に出かけざるを得なかった。残してきた妻子や父母への別離の辛さを詠う、その調べにはけっして「アニメキャラ」に感じられる明るさやルンルン気分は微塵もなかったと思うのです。変われば変わる、世の習いですね。それにしても「防衛」「国防」「敵基地攻撃」「安全保障」「集団的自衛権」などと、狂気が空虚を孕んで、勇ましい言葉が氾濫しているわりには、この島の現実は「チャラい チャラい」というほかありません。それでも、一方では「国防」を声高く叫ぶ勢力が跋扈し、己の存在をこれ見よがしに主張する、それに政治が便乗しているとさえ思われる風潮をどう受け止めたらいいのか。

奈尓波都尓 余曾比余曾比弖 気布能比夜
伊田弖麻可良武 美流波々奈之尓
(なにはつに よそひよそひて けふのひや
いでてまからむ みるははなしに)

知々波々我 可之良加伎奈弖 佐久安例弖
伊比之気等婆是 和須礼加祢豆流
(父母が 頭掻き撫で 「幸(さ)くあれ」て
言いし言葉(けとば)ぜ 忘れかねつる)

○ さき‐もり【防=人】 の解説《「崎 (さき) 守 (もり) 」の意》古代、筑紫・壱岐・対馬 (つしま) など北九州の防備に当たった兵士。663年の白村江 (はくそんこう) の戦い以後制度化され、初め諸国の兵士の中から3年交代で選ばれ、のちには東国出身者に限られるようになった。その後数度の改廃を経て、延喜(901~923)のころには有名無実となった。(デジタル大辞泉)

__________________________

 春風そよふく 空を見れば

 「朧月夜」は大正三年に発表されました。作詞は高野辰之 作曲は岡野貞一。このコンビで数えきれないほどの唱歌を生みだしています。いわば、小学校音楽教育の最大の貢献者の一方の傑物でもあったのです。どうして「唱歌」が教科として導入されたか、以下に簡単な解説を示しました。この導入期に尽力したのが、前に触れた伊沢修二です。彼はさまざまな領域において尽くした人ですが、学校教育の草創期にはこのような百科全書的才能と勇猛果敢な行動力を兼備した人材は不可欠だったのです。彼がアメリカに学んだ際(森有礼初代文部大臣の好意があった)、いろいろな教育施設を訪ねています。養護学校、幼稚園・小学校、教員養成学校など。その中で、学校における唱歌に大いに興味をそそられたようで、それをこの島にもたらそうとしたのです。音楽の効用というものを直感したといってもいいでしょう。音楽がなければ、何ができないか、あればどんなことができるか、伊沢さんはそれを知悉していたといいたいほどでした。

 「歌が旗になる」ということはいくらでもありました。ぼくは戦後に育った者だったのに、「軍歌」を歌うと奇妙な気分に侵されましたし、学校で「校歌」を斉唱させられたのは、「心を一つにして」、全員一丸となるという魂胆が見え見えでした。後年、伊沢さんは初代の東京音楽学校(言東京芸術大学音楽学部)校長を務めます。「学制」草創期、彼は音楽取調御用(いまでいう文部官僚です)に抜擢され、獅子奮迅の活動を展開し、明治十四年には「小学校唱歌」を敢行します。その間、様々な人材を登用し音楽教育の進展を図るために、いくつもの施策を実施したのです。その中に、上の二人もいたのでした。唱歌は世に連れ、世は唱歌に連れて、学校教育の秩序維持の為に大きな威力を発揮したのです。

 

*************

○ 唱歌(教育)(読み)しょうか唱歌教育 英語のソングsongまたはスィンギングsingingにあたる「唱歌」ということばが、日本の学校教育において最初に用いられたのは、1872年(明治5)の学制によって、小学校における一教科として「唱歌」が規定されたときである。その後、それに伴って『小学唱歌集』『中学唱歌』『尋常小学唱歌』など学校唱歌のための教科書が刊行された。したがって唱歌といえば、授業において「歌うこと」(歌唱)、および歌うための教材つまり「歌曲」の両方を意味していた。その後1941年(昭和16)に小学校が国民学校と改称され、それまでの「唱歌」という教科名が「芸能科音楽」と改められた。それ以後は、「歌曲を正しく歌唱し」というように、音楽の授業において歌うことは「歌唱」とされ、「唱歌」ということばは、「平易なる単音唱歌を課し」また「文部省唱歌」などというように、主として歌唱教材としての「歌曲」を意味するようになった。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

○ 伊沢 修二(読み)イザワ シュウジ=明治・大正期の教育家 東京師範学校校長;東京音楽学校校長;貴院議員。生年嘉永4年6月29日(1851年) 没年大正6(1917)年5月3日 出生地信濃国伊那高遠(長野県高遠町) 別名号=楽石 学歴〔年〕大学南校(現・東京大学)〔明治5年〕卒 経歴郷里の藩校で和漢の学を修め、明治初年東京に出て大学南校に学び文部省に奉職。7年に愛知師範学校の校長に就任。翌8年米国に派遣され声楽、視話法を習得。11年帰国後、東京師範学校長、12年音楽取調御用掛になり、教員養成の改善、唱歌教育の推進に精力を注いだ。14年「小学唱歌集」を刊行。20〜24年東京音楽学校初代校長をつとめる。一方、文部省編集局長として教科書検定制度を実施。23年国家教育社を結成。日清戦争後、台湾総督府学務部長となり、植民地教育を行う。30年帰国後、貴院議員、32年東京高師校長。36年楽石社を設立し吃音矯正事業に尽した。作詞作曲も多数、作曲に「紀元節」があり、著書に「教育学」「進化原論」「教授真法」「視話法」などがある。(20紀日本人名事典の解説)

○高野辰之=1876-1947 明治-昭和時代の国文学者。明治9年4月13日生まれ。上田万年(かずとし)に師事,明治43年東京音楽学校(現東京芸大)教授となる。日本の歌謡,演劇史の学術的研究をおこない,「日本歌謡史」で昭和3年学士院賞。「春が来た」「朧(おぼろ)月夜」「故郷(ふるさと)」などの文部省唱歌を多数作詞した。昭和22年1月25日死去。72歳。長野県出身。長野師範卒。号は斑山。著作に「日本演劇史」「日本歌謡集成」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

○岡野貞一=大正・昭和期の音楽教育家,作曲家 生年明治11(1878)年2月16日 没年昭和16(1941)年12月29日 出身地鳥取県鳥取市 学歴〔年〕東京音楽学校〔明治32年〕卒 経歴東京音楽学校教授の傍ら、文部省嘱託の教科書編纂委員を務め、第1期国定教科書「尋常小学読本唱歌」「尋常小学唱歌」の編集を担当。唱歌として広く歌われた「故郷(ふるさと)」「春が来た」「児島高徳」「水師営の会見」「朧月夜」「橘中佐」「三才女」「紅葉」「春の小川」などを作曲。(20世紀日本人名事典の解説)

(*https://www.youtube.com/watch?v=LORWSwhU-5Q 歌は鮫島有美子さん)

++++++++++++++++++++++

************ 

 今でも歌われているのでしょうか。ぼくの小学校時代は「唱歌」の代表のような位置づけでした。歌詞は若干の変化をみましたが、この歌に表現されている、そのままの春の小川で遊びに専念したのでした。ここに登場する生き物は、その多くが絶滅したか、それが危惧されています。たかだか百年の時間において、この島国がいかに環境に負荷を与え、取り返しのつかない破壊を遂行してきたか、それをあからさまに明示しているのが、「唱歌」ではなかったか。それを歌うのは、懐かしさや思い出などではなく、むしろ歴史の中に刻印された人間の、ある種の「愚かさ」を忘れないための記録としての記念歌なんですね。この歌は、歌うか歌わないかは別にして、「国歌」と称される偏頗な歌よりもよほど、人間の姿の来た道をはっきりと教えてくれるように、ぼくだけは考えているのです。

 この「春の小川」、発表は大正元年。当時、作詞をした高野さんが代々木に住んでおられたので、その付近を流れている河骨川(こうほねがわ)をテーマに書き上げたとされています「河骨」とは、スイレン科の植物で、この川には豊かに育っていたからだといわれています。別名に「センコツ」とあります。(*スイレン科の多年草。小川や池沼に生え、葉は長さ約30センチの長楕円形で、基部は矢じり形。夏、花柄を水上に出し、黄色の花びら状の萼(がく)をもつ花を1個つける。かわほね。《季 夏》「橋の下闇し―の花ともる/青邨」)(デジタル大辞泉の解説)

 この川は、前回の東京五輪(1964年開催)のための都市再開発によって「暗渠(あんきょ)」化され、地上から姿を消してしまいました。ぼくは当時、上京していたので、この「暗渠」工事をいたるところでみかけたものです。川が潰され、姿を消し形を変えたら、それは川ではなくなります。その上に、人間は暮らしているのです。ぼくに言わせれば、都市化=文明化(civilization)というのは、自然破壊決行を意味します。例えば、首都高速道路、これもいたるところで工事中の現場に遭遇していました。鴎外のいう「普請中」でした。鳥も虫も魚も、駆逐され、やがては人間も、その生活世界が暗渠化され、地上から追放されようとしています。それが文明社会の進み行きです。

 早春賦ならぬ、壮春賦、あるいは晩春賦とでも名付けるべき唱歌は無数にあるようです。それを取り上げて何かを語るつもりも能力もありません。ただ思いつくままに、二、三を数えて、ぼくの記憶力の試験台にしているだけの、いわば徒然草であり、枕話です。唱歌というものが、今の時代に生まれにくくなっている理由ははっきりしています。歌にしたくなる四季や風情や労働が消滅してしまったからであり、それだけのことですけれど、唱歌が遺物になるような社会には欠けたところがあるように思われます。唱歌が失われるというのは、なにかぼく自身の大切な一部を抜き取られてしまったようで、居たたまれない気がするのです。

________________________________

 美しい言葉、正しい言葉というものはない

 言 葉 の 力                              大岡 信  
 
 人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものだはなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。
 京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかで、しかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。
「この色は何から取り出したんですか」
「桜からです」
と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。志村さんは続いてこう教えてくれた。この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。
 私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。
 考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。
 このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。
 (中学校『国語2』、光村図書出版、平成3年版)

 桜と聞くと、きっと思い出す文章がいくつもあります。その中でも取り分けて印象に残っているのが、上に掲げた大岡さんの「言葉の力」です。長く中学校の教科書に掲載されていましたので、実際にこの文章を読まれた方は多いだろうと推察します。ぼくは、いろいろな機会に繰り返し読みました。おそらく大げさではなく百回は越えているはずです。一文を、しかも決して長くはないものを、百回以上も読むというのはどういうことか。「読書百遍、意自ずから通ず」というのでしょうか。たいていはそうなるのでしょうけれども、ぼくの場合、まだ十分に理解が届かい部分が残っているのです。

 また、大岡さんが訪問されたという志村さん、彼女はぼくの卒業した京都市立嵯峨小学校のすぐそばに住んでおられたといいます。京都にいた時、そんな話は一度も聞いたことがなく、上京後に何かの折に知るようになったのです。それでどうというわけではありませんが、釈迦堂近くの仕事場で、染色という微妙な色を生み出す工夫を重ねられていたのかと考えるだけでも、ぼくはワクワクするのです。その作品を何度か見ました(多くは写真刷りでした)。それでも得も言われぬ色合いの深さと快さを感じ取ることが出来ました。

 「言葉の力」の中核はどこにあるのでしょう。「 春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が」「 花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった 」長い箇所を引用しましたが、どうでしょうか。桜の花びらは、ある意味では、幹をはじめとする樹木全体の「形骸」であるかもしれず、あるいは、抜け殻だと言い換えてもいいでしょう。染色家の、その仕事に向けられる志の深さは、桜の幹全体から、いわば涌出された、命の水でもあったのだと知り、ぼくの感動は驚愕に変わるです。そのように読ませてくれた文章を書かれた大岡さんにこそ、ぼくは感謝したいのです。百回を超えてもまだ分かり切らない文章の背後に、神秘と言えば浅薄になりますが、桜の樹木から得られた「樹木全身の色」に心身を捧げられた染色家の覚悟というものをみぬき、それをまた渾身の力で「言葉の力」を使い切ろうとした詩人、この二人のコンビネーションが「言葉の力」という一文を成立させたのでしょう。

 茨木のり子さんの「さくら」に刺激されて、よからぬ方向に流れてしまったようです。桜から死を連想するのは自由ですけれども、詩人がそれでいいのかという、ぼくのささやかな疑問は「 木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった 」という表現に出会うことで、桜の本懐とでもいう、当を得た指摘に打たれたのでした。何事も人それぞれ、感じ方も千差万別です。それでいいのであって、他人がとやかく言うのは、やはり無粋というのでしょうね。

 最後の段落は、下手な解説は不要です。「 一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味 」を果たして、読者として受け止めうるか。言葉を考える、言葉で考えるというのは、そのような微妙繊細でしかも、ささやかさそのものである「一語」に、まさに言葉の力を与えることが出来てはじめて、現実になしうる体験となるのでしょう。

++++++++++

○ 大岡信(1931~2017)=詩人,評論家。静岡県三島生れ。東大国文科卒。読売新聞記者,明治大学教授,東京芸術大学教授を務める。東大卒業後,谷川俊太郎らの《櫂(かい)》に加わり,1959年,吉岡実,清岡卓行らと《鰐》を結成。詩と批評を発表した。1956年の処女詩集《記憶と現在》以降,詩集には《春 少女に》(1978年。無限賞),《水府》《地上楽園の午後》などがある。評論活動も多彩で,《蕩児の家系》(1969年。歴程賞),《紀貫之》(1971年。読売文学賞),《詩人・菅原道真――うつしの美学》(1989年。芸術選奨文部大臣賞)など。また《朝日新聞》連載(1979年―2007年)の《折々のうた》は広く読者の関心を得た。1994年度の恩賜賞・日本芸術院賞を受賞。《大岡信著作集》全15巻。大岡玲は長男。(百科事典マイペディアの解説)

○ 志村ふくみ(1924-)=昭和後期-平成時代の染織家。大正13年9月30日生まれ。母の小野豊に基礎をまなび,黒田辰秋,富本憲吉,稲垣稔次郎(としじろう)らにも師事した。植物染料による紬織(つむぎおり)をつくり,日本伝統工芸展などで活躍。平成2年紬織で人間国宝。5年文化功労者。19年井上靖文化賞。滋賀県出身。文化学院卒。随筆集に「一色(いっしき)一生」(昭和58年大仏(おさらぎ)次郎賞),「語りかける花」(平成5年日本エッセイスト・クラブ賞),「白夜に紡ぐ」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

####################

 朝八時過ぎに家を出ました。本年一月に亡くなった、かみさんの姉の法要(「納骨」)でした。東京までの長丁場?車で出かけ、京葉道路や首都高をお寺のある場所の近くまで走った。通行料の高いのに驚きました。片道だけで二千円超。明るい陽光に誘われて、人も車も相当に多いように感じました。

 お寺は足立区の竹ノ塚、何十回通ったかしら。浄土真宗派です。この場所も半世紀前からの馴染みになりました。長く通っても一向に馴染まないのが「お経」というやつ。今回は「仏説阿弥陀経」を読まれたのですが、無意味な読経と言わなければならない。漢字を棒読みするだけで、意味はさっぱり。なぜ、ぼくたちに親しい言葉に翻訳しないのか。ずっと不思議に思っていたし、却って、ちんぷんかんぷんが「ありがたい」と思わせているとしか考えられません。「般若心経」然り。どうして、各教派の坊さんはこれを、意に介しないで読みつづけてきたのでしょうか。ぼくなりに、すこしはお経の言わんとするところは理解しようとしてきたし、自分でも読もうと試みましたが、なにせ、その喜びや楽しみがぼくにはわからないのです。本願寺派の最大の怠慢・懈怠ではないか、そんな繰り言を、坊さんの「読経」を聞きながら唱えていました。宗教の教団化・金権欲化は、止まるところを知らないようで、あたかも堕落の坂道を突き進んでいます。

____________________