コラ 遊びに行ぐが?おらんだば大丈夫だべ?

【北斗星】「世界隅々広まってしまったうだでー(厄介な)ウイルスだ」。新型コロナウイルス収束の願いを秋田音頭のリズムに乗せた替え歌「五六七(ころな)撃退音頭」の一節だ。三味線奏者の梅若鵬修さん(41)=秋田市=が作詞した。動画サイトで公開している▼県内の民謡歌手5人が交互に歌う。鵬修さんらが呼び掛けて実現した。進藤義声(ぎせい)さん(86)=同=のパートは、こうだ。芸の道には日々の稽古が欠かせないと歌った後、「パソコンかづいでオンラインレッスンだ 俺だばつでがれねで(ついていけないよ)」▼新型コロナ流行を受け、パソコンなどの画面を通じて各種の習い事を指導するオンラインレッスンが普及した。県内ではゴルフ、ダンスなどのほか、民謡教室でも取り入れられている▼進藤さんは「秋田追分」生みの親の鳥井森鈴(しんれい)(1899~1979年)ら多くの先輩から民謡を教わった。鳥井は特に厳しく、納得するまでそばに立って何度も歌い直しを求めた。他の先輩からも、楽屋におけるマナーなどを現場でたたき込まれた▼そんな経験を積んだ進藤さんからすればオンラインには隔世の感があるのだろう。音頭の歌詞は自分の気持ちそのものという。「文章を書くのに使っていたからパソコン自体に拒否反応はないんだが」と笑う▼一方、鵬修さんはオンラインを有効活用しながらも「細かいところはやはり伝わりにくい」と難点を指摘する。民謡を生で教え、聴かせ、楽しんでもらう。2人共通の願いだ。(秋田魁新報電子版・2021年2月21日)

(秋田音頭の代表的な歌詞)
ヤートセー コラ 秋田音頭です
ハイ キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー
コラ いずれこれより ご免こうむり
音頭の無駄をいう(アーソレソレ)
お耳障りも(お気に障りも)あろうけれども
さっさと出しかける
ハイ キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー(以下略)
コラ 秋田名物 八森ハタハタ
男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)
能代春慶 桧山納豆
大館曲げわっぱ
コラ 秋田の国では 雨が降っても
唐傘などいらぬ(アーソレソレ)
手頃な蕗の葉 さらりとからげて
サッサと出て行がえ
コラ 秋田の女ご 何どしてきれ(綺麗)だと
聞くだけ野暮だんす(アーソレソレ)
小野小町の 生まれ在所を
お前はん知らねのげ
コラ 秋田川端 日幕れに通ったば
ピカピカ飛んで来た(アーソレソレ)
蛍と思って ギッシリ掴んだっきゃ
隣りのハゲ頭

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 秋田(に限りませんが、おしなべて東北方面)は民謡の宝庫だといえます。その理由や背景は何でしょうか。庶民(農山漁民)が辛辣かつ活発に権力批判を怠らなかったという意味合いもあるのでしょうが、それ以上に、平々凡々たる日常の明け暮れに、あきらかな区切りをつけるための勢い(クレッシェンド)だったといえます。よく言われる「ハレとケ」の境界を明確にするための伴奏であり、導入儀式でもあったでしょう。

● ハレとケ=冠婚葬祭など公の行事が行われる特別の改まった日をハレ(晴)と呼ぶのに対し,日常,平生もしくは私を意味する言葉。ふだん着を褻衣(けのころも),居間を褻居(けい)という。ハレとケのダイナミズムが日本の民俗文化を大きく規定している。(百科事典マイペディアの解説)

 秋田音頭は、今ではすっかり形も中身も変わってしまいましたが、その名残はどこかに残されているはずです。秋田は江戸時代になってからは佐竹氏の支配するところとなり、その治世は廃藩置県にまで及ぶ。(ここでは詳細は略します)東北といわれる地域は、じつはこの島社会の「さきがけ」だったのではないかという証拠もあり、縄文時代には「中心地」をなしていたのです。民謡の本来は、労働歌(ワークソング)であり、生活の伴奏曲であり、権力に対する批判精神の発露でもあったでしょう。それはまた、庶民の生きた姿をリアルに示した自画像でもあったと、ぼくは考えています。各地・各在所に民謡が残されているのは、何よりもそこに生きていた人々の呼吸でもあったのです。

● 久保田藩ともいう。江戸時代,出羽国秋田地方 (秋田県) を領有した藩。室町時代以来この地を領有していた秋田氏が,関ヶ原の戦いで西軍に加担したため,慶長5 (1600) 年常陸 (茨城県) 宍戸へ移され,同7年に常陸水戸 54万 6000石を領していた佐竹義宣が同じく西軍に呼応したかどで 20万 5800石に減封されてこの地に移った。以後外様大名佐竹氏が 13代にわたって在封,廃藩置県に及んだ。江戸城大広間詰。義宣は,久保田城を築き,城下に久保田町を開き,梅津政景を用いて院内銀山を経営するなど藩政確立に努めた。元禄 14 (1701) 年,弟義長に新田2万石を,甥義都 (よしくに) に同1万石を分与して,それぞれ岩崎藩,久保田新田藩を起したが,後者は享保 17 (32) 年宗藩に返還された。 10代義和 (よしまさ) は藩政改革を試み,13代義堯 (よしたか) は奥羽越列藩同盟に加盟した佐幕諸藩に対し孤軍奮闘した。明治5 (1872) 年の禄高は内高 60万石,実高 80万石。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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● 民謡=「民衆の生活のなかで生れ育った歌。民衆によって作られ,民衆のなかで伝承され,その本来の性質が民衆的な歌をいう。また特定の作曲者,あるいは創始者の創作意志が問題とされず,伝承されるにつれて,社会的環境や時代の背景によって音楽上も歌詞のうえでも変化していく。したがって流行歌とは違って時間的持続性をもつと同時に,民衆の生活の内容や形式と結びつき,郷土的,職業的な性質をもつ。日本では,俚謡,俗謡,田舎唄などと呼ばれていたが,明治以降,英語の folk song,ドイツ語の Volksliedの訳語として「民謡」という名称が定着した。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

 民謡について何かを話すとなると、たちまち一冊の書物になるほど、扱われる事項は多彩です。それだけ、庶民の生活万般にわたる息づかいがそこには存在しているからでしょう。息が長く、而も時代と共に変化を遂げながら、伝統の部分ははっきりと刻印として残される。だから、ある地域の民謡をよく見れば、生活文化の歴史がたどれるといわれるのです。

 テレビや新聞が各家庭に侵入し、学校教育が全国に普及するに及んで、民謡が形骸化されて行きました。いわば「骨抜き」にされてしまったのです。民謡は前時代の遺物とまでみなされたかのようですが、どっこい、ここに本来の民衆の地を這う生活の呼吸が、すこしは洗練されて、ハッキリと息づいていることが示されたようですね。

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 自制する力(注意力)は、自分の中に在るんだ

<金口木舌>校則、鋳型から多様性へ スカートの長さや髪形、靴下の色などを定めた校則。「ハイソックスは禁止」「左右の長さの違う髪形はだめ」。規定は事細かい。「こんなことまで」と首をひねりたくなるような校則もある▼「学校は軍隊みたいだ」という嘆きを中学生から聞く。校則の必要性を問われ、答えられる教員はどれぐらいいるだろうか。生徒を管理しようという学校側の意思の表れであろう。根底にあるのは古くて画一的な生徒観▼髪を黒く染めるよう教師に強要されたとして大阪府立高の元女子生徒が府に損害賠償を求めた訴訟の判決があった。大阪地裁は頭髪指導の違法性は認めなかったが、不登校時の学校の対応を違法として一部賠償を命じた▼元女子生徒は大人になって提訴した。判決を受け、名古屋大の内田良准教授は校則について「(何が良くて何が悪いかを)自分で考えて選べるようにするのが教育の使命だ」と時代の変化に沿った見直しを促す▼糸満市立西崎中の生徒会が校則の改定案をPTAや住民でつくる学校運営協議会に提案した。男子のスカート着用、腕まくりや登下校時のマフラーなどを認めるよう盛り込んだ。多様性を重んじる感性がうかがえる▼生徒を鋳型にはめる校則から多様性を尊重する校則へ。学校は社会の縮図。この中で生徒が提起し、教員と共に校則を変えていく。この試みは社会を変える力にもなる。(琉球新報・2021年2月20日 06:00)

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 黒染め強要訴訟 頭髪指導は「妥当」、不登校後の対応「違法」

 女性は2015年に入学。生まれつき髪が茶色なのに、教員から黒く染めるよう再三指導されて精神的苦痛を受け、16年9月から不登校になったと主張していた。生徒が頭髪の色を含む髪形を決める自由は、憲法で保障されているとも訴えていた。(以下略)毎日新聞 2021/2/16)(https://mainichi.jp/articles/20210216/k00/00m/040/241000c)

 いまだにこのような醜悪な問題が続いていることに、ぼくはやり場のない違和感を隠すことが出来ない。小さいころから、理不尽なことには納得が行かなかったし、その思いを自他に隠さなかった。そのためにいろいろと軋轢があったことは事実だったし、それには不愉快を通り越した感情を抱かされもしました。どんな集団でも、集団の秩序を維持するためにはある種の規制法として、規則を作り、それを構成員に守らせる。その典型は学校だ。明治の学校創設以来、いろいろな問題を学校はかかえてきたし、それを克服するような改革を敢行してきたが、梗塞の問題だけは大筋では変わらなかった、変えられなかった。その理由はどこにあるか。

 第一の理由は、収容している存在(児童・生徒)は管理しなければならないという設置者の思い込み(錯覚)であり、生徒たちは、おしなべて信用できないという、情けなくも悲しい大人(教師)の性(さが)、器量(人物の大きさ)にあるとぼくは言いたい。他人を信用できないものが「教師」をしているという漫画にもならない、グロテスクな構図がこの百五十年、この島社会では一貫して変化がない。拘置所や刑務所の監督(管理)者と収容者の関係をみれば、事態は一目瞭然です。ぼくがまだ学校教育と少しばかり関係していた時期、この問題についていろいろと考えさせられたことがありました。もう三十年以上も前のことです。「校則」の滑稽と深刻さは少しも変わっていません。定規を使ってスカートの丈を測る、頭髪の色が黒かどうか、真剣な顔つきで調べる。下着や靴下の色を調べる。などなど。こんなことを学校外で行えば、きっと犯罪として捕まる類の「事件」でした。それをまじめにか喜んでか、教師(男女)たちは教育の仕事としてこなしていた。それだけで、がっこうというところは、なんと愚かしい場所なんだといわなければなりません。バカもきわまれり、とぼくは思ったものでした。もちろん、ぼくの小中高時代とまったく変わらない景色でした。

(高いところから、黒服で、「判決を下す」という醜悪さ。可哀そうに)

 昨日、所用で出かけての帰りがけに、いつも通る坂道で通り過ぎた瞬間、何か白いものが見えた。後続車がいたので、しばらく先まで行って方向転換して引き返した。かみさんは「新聞かなんかだ」などと言っていたが、ぼくは「生き物だ」と確認しにかかったのです。最初に発見した場所まで戻ってみたがいなかった。「勘違いだったか」それでまた坂道を上りだしたところ、前方に確かに動く白いものが見えた。止まって確認したら鶏だった。とたんにかみさんは「烏骨鶏ですよ」と叫んだ、しかも二羽も。一個五百円もするとか何とか、かみさんは興奮していた。つまり卵一個の値段です。そんな貴重な鳥が野山を散歩している。タヌキやイノシシ、猫などもいるような里山です。おそらく坂の入り口の農家さんが飼っているのでしょう。鶏舎を嫌ってか、いつもながらの散歩(自主トレ)か、勝手に歩き回っていました。初めての出来事でした。いろいろな鳥がいるんですね。「アニマルウェルフェア」とかなんとかいいましたが、きっちりと権利を守っていた、飼い主は。

 鳥は鶏舎に、牛は牛舎にと考えるのは、人間の思い込み。そして子どもたちは「学舎」にということですか。自由にさせておくと、ろくなことをしないという錯覚・勘ちがいでしかありません。昔の人は言いました、「小人閑居して不善を為す」と。(「礼記‐大学」の「小人間居為不善、無至」による) 徳のない、品性の卑しい人は暇であるととかく良くないことをする。※俳諧・本朝文選(1706)三〈汶村〉「小人閑居して不善をなすとは、此閑居の見通しなるべし」(精選版 日本国語大辞典)

 学校の教師は「自分が小人である」と自己認識しているからか、いや「児童生徒はつまらない奴らだから」と見下しているからか、暇を与えると碌なことをしないという「不信感」が根底にあって、だから「校則」で「拘束」しなければならぬと思い込んだんでしょう。バカバカしいことかぎりなし。烏骨鶏に習え!

 「糸満市立西崎中の生徒会が校則の改定案をPTAや住民でつくる学校運営協議会に提案した。男子のスカート着用、腕まくりや登下校時のマフラーなどを認めるよう盛り込んだ。多様性を重んじる感性がうかがえる」とコラム氏。「服装の乱れは、心の乱れ」というのは教師の側。自分がそうだから、それを生徒たちに強いるというのは狭い了見です。「縄文人たちはみんな不良だった」か。理不尽な「校則」なんか、自信をもって「違反」したらいい。可笑しいものは可笑しいという態度をこそ、生徒たちは自分のものにしたらいいんです。それを育てるのが教育であり、その仕事にかかわるのが教師。説明のつかない、恥ずかしすぎる「規則や校則」を教師自身が感覚的に「無意味」と受け止めなければ、このバカバカしい醜悪な事態は終わらない。「う!こっけい!」

 蛇足 「違反している下着は学校で脱がせる、整髪料は発見したら洗髪させる――。福岡県弁護士会は22日、福岡市内の全市立中学校に実施した校則調査の内容を明らかにした。8割以上の学校に下着の色規制があり、大半の学校で頭髪や眉毛に関する校則があった。違反に対する一部指導には、県弁護士会が「人権侵害」と指摘する対応もあった。県弁護士会は来年2月にシンポジウムを開催し、校則見直しに向けて提言する予定。」(毎日新聞 2020/12/22)

 真面目は怖い、ぼくはいつでもそういってきたし、今でもその意見は変わらない。真面目に戦争をし、まじめに人を殺す。それが間違いであるとも、おかしいことだとも気が付かない。そんな「真面目さ」を要求するのが学校ではなかったか。だったら、不真面目の方がよほどぼくの性(しょう)に合っていました。ぼくは、小さいころから他人に「不良」といわれていましたが、それは「誉め言葉」だと受け止めていました。屑のような教師たちに「いい子」だといわれると、生きる勇気が失せるんだと勝手に決めていましたからね。校則はぼくには無用でした。自分を縛る力は自分の内にあると思っていたんですね。間違いではなかった。

 さらに追加しておきます。

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 中学生の私へ。「黒髪」「ストレート」ではない自分の髪を嫌いにならないで

中学校では、私のように髪がくるくるで茶色であるというだけで「悪い」とされた。それでも当時の私は、学校の校則や規範を疑うことはできなかったのだ。 神内真利恵『不登校新聞』子ども若者編集部記者

コロナがきっかけで、世間ではお片づけが流行ったらしい。それは自分の両親も例外ではなかったようだ。/ 先日実家に帰った際に、掃除していたら出てきたという古い写真が置いてあった。ほとんどは飼い猫たちの写真だったが、その中で一枚だけ、小学生時代の自分の写真を見つけた。/ 過去の自分の髪は今よりもずっと薄い茶色で、さらに遠くから見てもわかるほどウェーブがかかっていた。しかし、小学校の頃は、自分の髪の毛を気にしたことはほとんど無かった。/ その意識が変わったのは中学校に入った瞬間だった。薄茶色でウェーブのかかった、自分の自然なままの髪が嫌になった。/ 中学に入ると、非常に強いステレオタイプや規則が襲って来た。まず、小学校と違い、制服になった。爪も長くないかチェックされたり、とにかく、外見についてのルールが急に増え出した。

そうした中学の価値観では、髪の毛は「黒髪」で「ストレート」が良いとされた。私のように髪がくるくるで茶色であるというだけで、「悪い」と言われた。/ 生徒たちもまた学校側の考えに影響され、「黒髪」で「ストレート」ではない髪は「悪い」と考えた。/ 私は、基本的には成績優秀な方だったし、良い子のタイプであると思っていたので、自分が優等生の規範に合わないのが、居心地が悪かった。/ 今考えればバカバカしい話なのだが、当時の私はその規範を疑うのではなく、自分をあてはめようとしてしまった。つまり、髪の毛を「黒髪ストレート」にしようとしたのだ。/ “ブラック校則”という言葉は最近よく聞かれるようになったが、その頃の私は知らなかった。学校の校則や規範を疑うことは、田舎者で、習い事などもせず、生活のほとんどが学校と一体化していた自分には難しかった。(中略)

 学校が、今いる場所が、すべてではない

私は今大学生で、留学生も多い大学に通っている。当たり前だが、地毛なんて人種が違えばバラバラである。それに、カラフルに染めている学生も多い。/ 髪の色で成績は決まらないし、ひと括りに学校といっても、学校によって全然違う世界がある。自分の通っている学校がすべてではない。/ 頭皮を傷めるリスクのある染髪に関して、注意をするのはまだ理解できる。とくに子どもであれば、健康被害のリスクは高いだろう。にも関わらず、地毛に関して注意をするのは、体の健康も心の健康も害すだけなのではないだろうか。/ 中学生の頃の自分に会えたら、自分の髪の毛を嫌に思わないでと伝えたい。学校がすべてではないと伝えたい。規範を疑えと伝えたい。そう思わずにはいられない。(文:神内真利恵 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)

 (右上写真について 小学生時代の私。髪は薄い茶色で、遠くから見てもわかるほどウェーブがかかっていた)(筆者提供)

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 去る者日々に疎しと言いますが、…

【談話室】▼▽「千年後まで残るものを描いてほしい」。それが当時の住職からの注文だった。鶴岡市朝日地域の注連寺で1989(平成元)年秋に完成した天井画「天空之(の)扉」である。洋画家の木下(きのした)晋(すすむ)さんが杉板に墨で描き上げた。▼▽根源的な祈りの姿を表す合掌図をモチーフにした。鉛筆による手練の技法で描いた線を、面相筆を使って墨で面に構築していく。墨は板に染み込むので失敗は許されない。いっときも気を緩められない制作工程を、富山出身の鉛筆画の鬼才は自伝「いのちを刻む」で顧みる。▼▽おととし末に出版した自伝は波乱万丈の人生や画業を通して出会った人々との逸話をまとめた。刊行を記念した個展が東京・銀座の画廊で開催中で、パーキンソン病を患う妻を描いた作品を中心に近作も交え、22段階の濃さの鉛筆を駆使した細密な鉛筆画約20点を展示する。▼▽「天空之扉」は鉄門海上人の即身仏が鎮座する厨子(ずし)が安置された部屋に据え付けられた。天井は天界と俗界の接点となり、合掌図の皺(しわ)を刻んだ手指は人生の重み、風雪に耐えた歳月を物語る。見る方向を変えれば、古刹(こさつ)から仰ぐ月山の山容が浮かび上がり、悠久の時を語る。(山形新聞・2021/02/20付)

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 つい先日、木下晋さんについて触れたところでした。滅多にないことですが、間をおかないでまた書くことにしました。山形県内のお寺の天井画に木村さんの鉛筆画が「天空之扉」と題されて描かれたという。三十年以上も前のことでした。この木村さんの鉛筆画を、京都の友人(最後のところに、また出てきます)に紹介したところ、彼はあまりにも深刻過ぎてみることが辛いと言ってきました。どういうことだろうか、とぼくは深く考え込んでしまった。確かどこかで木村さんは丸木位里、俊さんについて語られていたように思いますが、そのご夫妻が描かれた「原爆の図」「沖縄戦の図」のことを思い出しました。

 その絵を、ぼくは沖縄の佐喜眞美術館で、何年も前に見たのでした。佐喜眞館長のお話では、この美術館のために「沖縄戦の図」は描かれたものだということでした。

 佐喜眞さんのことについても書かなければならないのですが、本日は別の要件もありますので、別の機会に譲ります。普天間基地内の「所有地」を米軍に掛け合って返還を求め、その地に美術館を建設したのでした。設計は真喜志好一さん。お二人にぼくは、沖縄でも東京においても、大いにお世話になったとがはありました。最近は連絡もしておりませんが、お元気でいらっしゃるだろうか。

●佐喜眞美術館=沖縄県宜野湾市にある美術館。平成6年(1994)創立。個人コレクションによる私設美術館。丸木位里(いり)・丸木俊(とし)の「沖縄戦の図」のほか、ケーテ・コルヴィッツらの作品を展示する。
URL:http://sakima.jp/ 住所:〒901-2204 沖縄県宜野湾市上原358 電話:098-893-5737

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 いかにも古い新聞の記事ですが、興味をそそられたので引用しておきます。

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 注連寺境内に「鉛筆碑」  鶴岡市大網の注連寺(佐藤弘明住職)の境内にこのほど、「鉛筆碑」が建立された。注連寺の大天井画の鉛筆模画の縮小版を手掛けたマック美術研究所(東京都)代表の田中昭さん(73)が、鉛筆画のペンシルワークの普及を願うとともに、使い終わった鉛筆に感謝し納めてもらおうと建立した。

 今月5日に注連寺境内で行われた建立式には、田中さんの他、ペンシルワークの第一人者で美術家の木下晋さんも参列した。木下さんは注連寺の大天井画「天空之扉」(1989年、墨絵)を手掛けており、2人の作品は拝観時に見ることができる。

 鉛筆の碑は、鉛筆メーカーの創業の地の新宿区内藤町にあるほか、学校などで設けているところもある。注連寺の鉛筆碑には、えんぴつ記念日(5月2日)にちなんだ「5・2」と「ペンシルワーク」の文字が刻まれており、碑前には使い終わった鉛筆を納める所を設けている。また碑の左脇の石板には「世界各国民族を超え子供から年配者迄みんなが使っている鉛筆に感謝すると共に筆記具を超えて未だ見ぬ多様で奥の深い表現を開拓する 鉛筆は今 長い眠りから覚め日本からペンシルワークとして再出発しています」と、田中さんが建立に寄せた思いが刻まれている。

 田中さんは「木下さんによって鉛筆画の大作が描かれるようになり、ペンシルワークというジャンルが確立していることを多くの人に知ってもらいたい。絵を描く人や美術部の学生など、思いがあり捨てられない鉛筆を納めてもらえれば」と語った。木下さんは「私にとって鉛筆は表現の源、商売道具であり大切なもの。ゆかりがある注連寺に碑ができたことをうれしく思う」と話した。(荘内日報社・2018.11.21)

(左上 注連寺境内にある「鉛筆碑」(⇦写真)田中さん(左)と木下さん=11月6日、致道博物館で)

●注連寺=山形県鶴岡(つるおか)市大網にある寺。新義真言(しんごん)宗湯殿山(ゆどのさん)派の大本山。山号は湯殿山。本尊は大日如来(だいにちにょらい)。開創は弘法(こうぼう)大師空海といわれ、湯殿山本地仏の大日如来は空海が825年(天長2)につくったものと伝えられる。湯殿山旧別当職の僧坊で、往時は注連密寺、根本注連掛(がけ)坊などと称した。本導寺、大日坊、大日寺などを含む一山の総号を日月(にちがつ)寺と号し、湯殿山が女人結界のため、女人遙拝所(ようはいじょ)として栄えた。

 湯殿山は月山(がっさん)、羽黒山(はぐろさん)とともに出羽(でわ)三山の一つで、江戸時代に月山・羽黒山は天台宗に統一された。当山は、第二次世界大戦後に新義真言宗湯殿山派として独立した。堂内にはさまざまな逸話のある鉄門海上人(てつもんかいしょうにん)の即身仏が安置されている。森敦(あつし)の芥川賞受賞作『月山』の舞台になったことでも知られ、境内に森敦文庫文学資料館が建てられている。(日本大百科全書の解説)

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 いろいろな連想が湧いてくるのですが、本日は少し時間の余裕がなくなりそうなために、連想の赴くに任せて、その後を追わないことにします。このところ、連日のように京都の友人が夜に電話をかけてきます。電話が必要なのは、彼にとっては深刻な事柄をかかえているからのようですが、赤の他人にはバカバカしいこと限りなしで、夫婦げんかの成り行きをしゃべられているだけの話。かみさんと喧嘩して、三週間前に、彼女は「家出」をしたという。それを「出家」と言わないところが、深刻ぶった茶飲み話じゃないかと、呆れながら、彼の言い分を聞く役目を強いられているのです。自分のことは自分で始末しなよ、と言いたいのは山々ですが、それがうまくいかないから、ぼくみたいなところに電話をかけるという事情が分かるので、話は聞くのを拒まないというだけなんですが。天気の模様がヤバそうだからと病んでも仕方がなし、その内に晴れるに決まっている、人間の気分だって似たようなもんだというのが、ぼくの姿勢です。

 「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」ゲテモノ食いの犬だって、夫婦喧嘩ばかりは食わないさ、というようですが、犬に失礼な。

 予想もしていませんでしたが、本当に久しぶりに森敦さんが出てきました。実に懐かしい人です。亡くなられてどれくらい経つのか、去る者日々に疎しという時日の経過を、いやでも実感しているのです。

 本日の午前中、ある学校の生徒たちとズーム授業というのかしら、それをしました。これで何回目ですか。何事によらず、自分で考えるというのはいいですね。自分流の答えを出してみる、他人の考えを傾聴する、それを踏まえて、また考える、この繰り返しが、実は「考える」の真意ではないかと、ぼくは経験してきました。その途中で「ちえこ」さんという猫が授業に参加したいとカメラに映りに行きました。

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●去る者は日々に疎し(読み)さるものはひびにうとし=親しい者でも、離ればなれになって顔を合わせなくなると、月日がたつにつれて疎遠になっていく。また、死者は年月を経るにしたがって忘れられていく。(そういっただけでは足りない、もっと深いところで「日々に疎し」をとらえたいですね。山埜郷司)

[使用例] あくまで意地を張っているうちに、去る者は日に疎し、於菊のところに全く足を遠ざけておりました[井伏鱒二*駅前旅館|1956~57][解説] 「文選―古詩十九首・一四」「去る者は日に以て疎し、生くる者は日に以て親し」によることば。英語のことわざ、Out of sight, out of mind.の定訳にもなっていますが、英語の場合は人間にかぎらず、物についても用いられます。(ことわざを知る辞典の解説)

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 梅は咲いたか桜はまだかいな

 (雪が舞う中で咲き誇る元善光寺の白梅「善心光梅」=17日、飯田市)

 梅咲く元善光寺 飯田で競う紅白の彩り  飯田市座光寺の元善光寺で白梅の木「善心光梅(ぜんしんこうばい)」が見頃を迎え、近くの紅梅と競うように咲いている。17日、花は強い風に乗って吹き付ける雪を受け止めていた。/ 善心光梅は高さ5メートルほど。樹齢は推定150年とされ、一般から愛称を募り名付けらて参拝者に親しまれている。花の直径は3センチほどと大きめで、外側の花びらはピンク色なのが特徴だ。今季は例年より早く、1月初旬に咲き始めた。/ 住職の本多秀道(しゅうどう)さん(46)は「境内はロウバイも咲いて彩りを増してきた。桜へとつながっていきますね」と話していた。(信毎web・2021/02/18 09:15)

 (⇦青空に黄色の花が映える元善光寺のロウバイ=3日午前11時12分、飯田市座光寺)(同上・2021/02/04 09:14 ) 

● 元善光寺=御 縁起 起推古天皇十年に信州麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)の住人本多善光(ほんだよしみつ)公が、国司の供をして都に上がった時に、難波の堀にて阿弥陀如来様にめぐりあい生まれ故郷へお連れし、お祀りしたのが元善光寺の起源です。
その後、阿弥陀如来様の御告げにより芋井の里(現在の長野市)に阿弥陀如来様を御遷しすることになった時、再び御告げがあって「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰り来て衆生を化益せん」との御誓願を残されました。そもそも善光寺の名は善光公の名を以って付けられたものです。
御詠歌「月半ば毎にきまさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とある様に、古来長野の善光寺と、こちら飯田の元善光寺と両方お詣りしなければ片詣りと云われております。(https://motozenkoji.jp/)

  梅は咲いたか、桜はまだかいな。こんな洒落た端唄を若いころには口ずさんででいました。いわゆる「俗曲」というのかしら、何人かの名人上手が活躍していた時代も、今ではすっかり跡形もなく消えてしまいました。ぼくは経験したことはありませんが、おそらくお座敷でしっとりと三味線を弾きながらの贅沢なお遊びだったと思われます。今なら同伴出勤かなんかに形を変えてしまい、まことに味気ない、即物的な無風流そのものですね。どちらにしても、ぼくには未知の世界でした。

梅は咲いたか 桜はまだかいな
柳ャなよなよ風次第
山吹や浮気で 色ばっかり
しょんがいな
浅蜊(あさり)とれたか 蛤(はまぐり)ャまだかいな
鮑(あわび)くよくよ片想い
さざえは悋気(りんき)で角(つの)ばっかり
しょんがいな
柳橋から小船を急がせ
舟はゆらゆら波しだい
舟から上がって土手八丁
吉原へご案内 (江戸端唄・「梅は咲いたか」)

 歌詞の中身はさすがに、謎ですね。梅・桜・柳・山吹と、春の名物が並んでいます。浅利・蛤・鮑・さざえなどと、うまいものが横一線です。柳橋から吉原まで、屋根船で繰り込もうという算段だか魂胆だか。新内などが、街角から聞こえてきそうです。清元、端唄、小唄などなど、花街の伴奏曲でもあり、今でいうところのクラブやバーなどの専売だったのかもしれません。昭和も三十年ころまではまだかすかに余韻が残っていたように思われます。いずれにしても、ぼくには無縁の世界でした。

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飯田には何度か行きました。まあ野暮用だったので、お寺にも神社にも出かけないで済ませました。長野は山登りで盛んに通いましたが、それ以外ではたのまれて不味い話をするためでした。講演などというものは、めったなことではしない方がいいに決まています。そのついでに梅や桜を愛でるというのは果報そのものではないでしょうか。ぼくは、梅でも桜でも、咲いていればどこでもいいんです。観光地はきっと御免被ることにしてきました。花を見るより、雑踏にもまれるようで、まことに興醒めしたからです。人混み、人だかりはとにかく嫌いでした。だから、だれもいないような山の中の桜、あるいは誰も来ない神社の梅に出会うことを仕合わせと感じるようにできていたのです。(左上は元善光寺)

 拙宅にも、一本の梅の老木があり、息も絶え絶えですが、今年も少しばかり咲いています。白梅ですが、樹齢何年になるのだか、とにかく消えかかっている。老残の身というやつですね。まるでわが生のようで、見るのも痛々しい。

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 忘るなよ 藪の中なる むめの花  松尾芭蕉

 散るたびに 老ゆく梅の 木末かな  与謝蕪村

 梅さけど 鶯なけど ひとり哉 小林一茶

 梅散て 苔なき庭の 夕寒し  正岡子規

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 「日本人」という枠を超えた人がいる社会

〈日本人〉とは何だろうか?

「日本民族、日本語、日本国家、この三つに属しているのが日本人だ。そういう感じは私にもある。そのことが、おおまかに言って現状に事実としてあたっているという考えももっている。だが、そうではないということも、私は自分の底のほうでやはり知っている」

「うまれた時、いや、その前から、私は言語にさらされていた。私はそれを日本語とは知らなかった。その時私は、日本の国民であることも知らなかった。私が日本民族という種族であることももちろん知らなかった。日本国家、日本民族、日本語の網の目は、そのころまだ私にはかかっていなかった。私ははじめからそこにとらえられていたわけではなかった。その記憶を、私はあとになってほりおこして自分のものにするようになった」

「生涯の最初の時期の、日本人のわくの前の記憶をいくらか今も自分の内部にとどめていることは、私にとって、自分の思想をつむぐ時の導きの糸となった」

「日本国家の形がきまり、国定の日本語の型(国語学者・亀井孝の言う「天皇の国語」)がきまり、日本民族とはこういうものだという(学問的根拠にとぼしい)公式説明でつくられた日本人の外にはみだした人びとに、私は心をひかれた」(鶴見俊輔「日本人になる前」、鶴見俊輔座談『日本人とは何だろうか』晶文社)

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 このブログまがいの雑文録の「表紙」に当たる所に、いくつもの鶴見さんの文章を引いておきました。彼はむずかしいことを、優しい言葉遣いで書き残されましたが、だからといって、その内容な決してやさしくはありません。

 「日本民族」「日本語」「日本国家」という三点セット、三段重ねのお重は、そっくりそのまま「日本人」というものの内容を証明するかのように考えられてきましたが、今ではそれは大いに疑わしいものになりました。もちろん、いつの時代でもそれは疑わしい、怪しいものだったのですが、明治以来の学校教育が、わざわざ総力を挙げて「三段重ね」のお重の中に「日本人」を取り込んでしまおうとしたんでしょうね。一億一心、一糸乱れず、こんな恐ろしい「標語」が飛び交っていた時代を経験してきたのが、この島社会でした。ところが、当たり前ですが、そんな標語に取り込まれてたまるかという人々が次々に生じてきたのです。だからこそ、それを消去するために国家は権力を行使して、異議申し立てを封鎖してしまおうとしたのでした。「長い物には巻かれろ」「寄らば大樹の影」「親方日の丸」などと言って、異論や異質を加工(メッキ)することに躍起になってきたのが学校教育の歴史でした。

 いまでもなおぼくは、一人ひとりの個人を〈日本国語・日本民族・日本国家〉という三段のお重に収納するための教育、それが私たちの社会の実相だという思いに駆られています。みんないっしょ。だれもみんな「ふつう」、「人並み」がいいと、目立たない生き方をそれでも社会集団は求めてきます。「個性の尊重」と「多様性の重視」。いったい、ちがいを際だたせるのか、ちがいを殺すのか。それとも両方なのかという問題ですね。

 《子どもたちが何か欲しいとき、「みんなもってるよ」という。だけど、その「みんな」というのは、まずたいていはクラスで二、三人くらいだといいます。「みんな」「人は誰でも」といった言葉でいうと、いかにもそのように、またそのようでなければならないみたいにおもえるというふうな物言う術にたいして、へんだという留保をのこしておかないと、「私」と、「人は誰でも」「みんな」とが、だんだん見分けもつかなくなっちゃいます。そうでなくても、言霊のさきわう国柄だから、言葉にたいしてよくよく「私」をむきあわせてゆくことができないと、言葉がすぐ旗になっちゃうのです。(中略)

 …十人十色という言葉をおもいだしたい。わたしたちはそういういい言葉をもってるはずなんです。じぶんにとってのいま、ここというのは、「いまはこういう時代なんだ」というような、みくだす物言いによっては、けっしてみえてこないだろう。わたしはそうかんがえています。そうではなくて、じぶんにとって他に代わってもらえないものは何かという、一人ひとりの側にあるその何かのなかに、一人のわたしにとってのいま、ここというのはあるんだ、と》(長田 弘)

わたしとみんな。わたしはみんなと同じ。みんなのなかにいるわたし。そうして、わたしの居場所や出番がなくなるのでしょう。わたしが消えるとして、さて、もとのわたしはどこに行ったのか。こんなへんてこな、かくれんぼみたいな人生ゲームが学校教育では重宝されてきたのでしょうね。ぼくは学校時代をはるかの昔に経験しましたから、今はどんな状況になっているのかという点については、確かなことは言えません。しかし、あいかわらず「みんないっしょ」というような、本来あり得ないような、一人一人の在り方が大事にされているというのとは反対の方向に向かっているのであり、そのような「あり方」を優先させることに特化しているような気もするのです。

 わたしとあなた、ここから「社会(集団)」は始まるのですが、それぞれがももっている違いをこえて(消して)、「われわれ(わたしたち)」という架空の像の中に二人を閉じ込めようとする。「わたしたち」という関係は「わたしとあなた」からなり立つのに、その二人によって、あらたな「わたしたち」という一つの人間あり方をつくるというように、人間の関係が錯覚させられているように思われるのです。国民を代表して、学校を代表して、などと言いますが、その表現を用いて、何を言おうとするのか。すべてが一人に集約されるということはありそうにないのですが、そういうふうになったという錯覚を強いてきたし、今でもそこから自由ではないように、ぼくは見ているのです。「わたし」と「あなた」は、別人格だというのは、いっしょになる筈がないということです。別の言い方をすれば、同じではないし、違いがあるということでしか、自分を確かめられないのです。

 今も残る「日本人」という枠組み、それを軽く超えようとする人たちもいる社会、そのひとたちが「日本人」の枠を広げてくれるような生き方をしていく中で、いまもその「枠」に縛られた人々も解放されるという事態が生まれる、それをぼくは期待していますね。固定は限界を迎えるし、そこから流動がうまれる、そんな交流や交換がたえず行われる社会の方向を目指したいね。国境を超えてやって来た、言語の枠をはみ出して住みつき、未知の歴史を生きた人として、この島にやって来た人たちが、この島に住みついていろいろな交際が行われる時代が確実に始まっています。学校や教室がその交換・交際・交渉の一つの舞台になることを、ぼくはずっと願っているんだね。

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 人の命ありと見るほども、下より消ゆること、…

【有明抄】記憶すること 廃炉作業が進む福島第1原発の北隣に「東日本大震災・原子力災害伝承館」がある。ここで活動する語り部の一人、青木淑子さんが見せてくれたのは一枚の写真だった。車の列が道路の果てまで続いている。10年前の3月12日朝、原発事故で避難指示が出された富岡町から住民たちが逃げ出す光景という◆「この時、みんなが同じことを思ってた。『すぐに帰れる』って」。だから大事なものは全部、家に置いてきた。防災訓練を繰り返し、いくつも非常持ち出し袋を作ったのに何ひとつ持ってこなかった…。そんな住民たちが故郷に戻れるようになったのは、写真が撮られて6年後のことだった◆人のいとなみとは無関係に災厄は襲ってくる。「でも本当に大切なものは、持って逃げることはできない」と青木さん。家、土地、田んぼ、家畜、学校、職場、仲間。復興とは失ったものを必死に取り戻そうとする歳月だったろう◆福島、宮城両県を再び大地震が襲った。10年たっても収まらない余震は、被災地を置き去りに進む記憶の風化に警鐘を鳴らしているようでもある◆〈これはいつかあったこと/これはいつかあること/だからよく記憶すること/だから繰り返し記憶すること/このさき/わたしたちが生きのびるために〉。阪神大震災で被災した詩人安水稔和さんの一編を、苦く思い返す。(桑)(佐賀新聞・2021/02/16)

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「この地震について気象庁は当初、発生時間を十三日午後十一時八分としていたが同七分、地震の規模を示すマグニチュード(M)を暫定値の7・1から7・3、震源の深さは約六〇キロから約五五キロにそれぞれ修正した。/ 北海道から中国地方の広い範囲で揺れを観測し、県内の相馬市、国見町、新地町と宮城県蔵王町が震度6強だった。その後も余震が続いている。」(福島民報・2021/02/16 09:03)

 本日(十六日)の午後、相馬市在の先輩に安否の電話を掛けました。地震発生から三日後でしたが、発生直後はどうかなと思案していたのでですが、案の定、無事であったと聞いて安心しました。職場の同僚として、礼儀知らずのぼくみたいなものに、何かとお世話をいただいた人でした。もともとが、相馬出身で、大学進学以来東京で暮らし、十年ほども前になるのでしょうか、故郷に戻られた。3,11当時はまだ東京に居られ、時々は相馬に帰っては事後の生活の準備をされていたのでした。かなりの田畑を所有されており、稲作に勤しんでおられた。三年ほど前には大きな病気をされ、入院されたという知らせを聴き、更に無事に退院して療養に努めているという便りをいただいた、その直後の地震でした。何よりも元気な声が耳に届いたのは幸いなことでした。

 弱音を吐くのではありませんが、ぼくも年を取ったし、まだ元気なうちに、これまでの無礼のお詫びとお世話になったお礼に出かけようと考えていたら、コロナ禍に巻き込まれた。さて、この先どれくらいでコロナを恐れる必要がなくなるか、はたして車で相馬まで出かけられるかどうか。昨年の三月でしたか、常磐線が全線開通して、東京から乗り換えなしで行かれるようになりましたが、相馬の近くでは放射線量が異常に高く、線量計が警告音を発するという。一日十往復の車両が放射線被爆を受けながら、東京ー福島間を往復しています。「福島復興五輪」といういかがわしいテーマが騙られ、今その開催をめぐって大騒動です。津波と震災事故直後のままの荒れ地の真ん中に作られた「伝承館」もまた、世間を欺く所業でした。いまだ復興もしていない原発事故や地震津波による甚大な被害。戻りたくても戻れない被災者。さらには、十年経過しても行方が分からない方々が二千余名もおられるというのです。

 それを知っていて、五輪開催というバカ騒ぎに狂奔していていいのだろうか。間違いなしに、それは救い難い頽廃であり、著しく人倫に悖る許されない蛮行だと、ぼくは言いたいのです。葬礼と祭礼が隣り合って、その悲しみを楽しみを張り合っているような、なんともいいようのない見物ではありますし、さらにいえば、人命の軽さは、散り行く桜の葉の如しと言わぬばかりの荒唐無稽だとぼくの心中に激しい怒りがわいてくるのです。

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「人間の営みあへるわざを見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀・珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置(あんぢ)してんや。人の命ありと見るほども、下より消ゆること、雪のごとくなるうちに、営み待つ事甚(はなた)だ多し。」(「徒然草」第百六十六段。島内既出)

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 「でも本当に大切なものは、持って逃げることはできない」ぼくたちには「本当に大切なもの」があるのだろうか。それ持っていくというが、どこに行くのでしょうか。生きていくというのは、実は何かを得るのではなく、日一日と、大事なものを忘れてゆくことであり、失っていくことなんではないでしょうか。人間の営みがすべてに儚いものだというのではありませんし、そのように言ったところで、ぼくたちはとぼとぼと歩いてゆくように生を重ねています。兼好は「人の命ありと見るほども、下より消ゆること、雪のごとくなる」と言い当てています。消えてゆく雪と同じように、生は消えるのが運命なのだと言っているのです。その現実を忘れるなと言っているようです。

 人生に意味はないというのは言い過ぎであるとしても、意味があるかないかと問わなければならず、それをしなければ、いつでも無意味の罠に堕ちるほかないほど、不確かなのです。

 某(なにがし)とかや言ひし世捨人の、「この世の絆(ほだし)持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、真に、さも覚えぬべけれ。(同上・二十段)

 本日は「春何番か」分かりませんが、強風が劣島に吹き荒れています。地域によっては大雪が降っているようです。「絆(ほだし)」とは「自由をさまたげるもの」の謂です。自分を縛るものは何一つないのだが、「空の名残」ばかりは捨てておけないのだ、とある「世捨て人」は言ったそうだ。どいうことでしょうか。ぼくは兼好という人は、「世捨て人」などではなかったと思ってきましたし、世間という埒外に出てみて、かえって世情に迷ったというか、世の中が恋しくなって仕方がなかった。「空の名残」に心惹かれた人が「世捨て人」などといいますが、それは自身のことだった。そのように読んでも差し支えなさそうです。

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