菫程な小さき人に生まれたし

【新生面】今日2月21日は「夏目漱石の日」だそうだ。あす22日は「猫の日」で、何だかうまくできている。ともかく110年前の1911(明治44)年のその日、漱石は当時の文部省に、文学博士号を辞退する手紙を書いた▼「小生は今日迄[まで]ただの夏目なにがしとして世を渡つて参りましたし、是[これ]から先も矢張りただの夏目なにがしで…」。世俗の名利にとらわれない漱石先生の、言葉を換えればへそ曲がりの性格をよく表す話▼熊本時代の漱石の名句に〈菫[すみれ]程な小さき人に生まれたし〉がある。博士号の辞退にも通じると指摘したのは、先に亡くなった半藤一利さんだ。人の真価は「肩書や地位や財産や学歴なんかにあるのではない。漱石はこの句でそういいたかったのである」(『漱石・明治 日本の青春』)▼コロナ禍で市井の誰もが懸命に世の中を支える今、頭を離れない菅義偉首相の言葉がある。「最終的には生活保護」。高名なテレビキャスターは「ある意味正論」とうなずいた。そうだろうか▼社会保障政策で生活保護が担う「救貧」と、年金や社会保険の「防貧」を区別できない無理解は置く。気になるのは、突然の収入減などに戸惑い困窮する人々を見下ろす目線である。自らや身内は絶対に渡らない川の向こうを眺めるような▼近代日本の傑出した巨人である漱石は、同時に一人の生活者として生きた。「小さき人」に注ぐまなざしは日差しにも似て温かい。県内で初の感染者が確認されてちょうど1年たつ。去年より過ごしやすい春になーれ。(熊日新聞・02月21日 09:19)

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 「菫程な小さき人に生まれたし」もっとも好きな漱石の句です。この句をどう読むかは、読み手の自由です。それを認めたうえで、ぼくはぼく流の感じ取り方をしてきました。その一端は後程に。他には、「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」です。これは若くして病死した大塚楠緒子への手向けの句です。いい句だな、死者への哀切の想いがなんともさわやかに、しかも悲しみを湛えて菊の花に託されているのでしょう。あるいはこの死者は、漱石にとっては特別の人だった。そういうことを含めて、ぼくはずっと感心ばかりしてきたのです。この句を詠んだ数年後に漱石は死去します。楠緒さんとの一瞬の出会いと別れについて、漱石は以下の文中に、実に淡々と書いています。

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「私がまだ千駄木にいた頃の話だから、年数にすると、もうだいぶ古い事になる。
 或日私は切通きりどおしの方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲った。その曲り角にはその頃あった牛屋ぎゅうやそばに、寄席よせの看板がいつでもかかっていた。
 雨の降る日だったので、私は無論かさをさしていた。それが鉄御納戸てつおなんど八間はちけんの深張で、上からってくるしずくが、自然木じねんぼくを伝わって、私の手をらし始めた。人通りの少ないこの小路こうじは、すべての泥を雨で洗い流したように、足駄あしだの歯にかかきたないものはほとんどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見ればびしかった。始終しじゅう通りつけているせいでもあろうが、私の周囲には何一つ私の眼をくものは見えなかった。そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐蝕ふしょくするような不愉快なかたまりが常にあった。私は陰欝いんうつな顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。


日蔭町ひかげちょう寄席よせの前まで来た私は、突然一台の幌俥ほろぐるまに出合った。私と俥の間には何のへだたりもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。
 私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚みとれていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧ていねい会釈えしゃくを私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうその挨拶あいさつとともに、相手が、大塚楠緒おおつかくすおさんであった事に、始めて気がついた。
 次に会ったのはそれから幾日目いくかめだったろうか、楠緒くすおさんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私のありのままを話す気になった。
「実はどこの美くしいかたかと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」
 その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔をあからめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
 それからずっとって、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へたずねて来てくれた事がある。しかるにあいにく私はさい喧嘩けんかをしていた。私はいやな顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
 その日はそれですんだが、ほどなく私は西片町へあやまりに出かけた。
「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私はまた苦々にがにがしい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込ひっこんでいたのです」
 これに対する楠緒さんの挨拶あいさつも、今では遠い過去になって、もう呼び出す事のできないほど、記憶の底に沈んでしまった。


 楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支さしつかえないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。私は病院で「ある程の菊投げ入れよかんの中」という手向たむけの句を楠緒さんのためにんだ。それを俳句の好きなある男がうれしがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。」(「硝子戸(ガラスド)の中(ウチ)・二十五」)(「朝日新聞」1915(大正4)年1月13日~2月23日)

● 大塚楠緒子=小説家,歌人,詩人。東京生れ。本名,久寿雄。1890年,少女時代から竹柏園に入門,佐佐木弘綱,佐佐木信綱に師事。小説《離鴛鴦》《空薫(そらだき)》,また日露戦争に対する女性の心情をうたい,与謝野晶子《君死に給ふことなかれ》とともに反響をよんだ新体詩《お百度詣で》など。樋口一葉のあとを継ぐ女流作家と期待されたが,早世したため,十分にはその才能を開花させることができなかった。文体に,夫の友人夏目漱石の影響が著しく,その恋人だとの一説があった。その漱石の手向けの句〈有る程の菊抛げ入れよ棺の中〉は有名。(百科事典マイペディアの解説)

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 ぼくは子規も好きだし、漱石も大好きでした。若いころはなによりも、誰よりも漱石のものを読んだ。そこから何か特別のものを得たのではありませんが、いつも胃潰瘍を病んでいるような仏頂面の「●●先生」が現実の漱石とかぶさって、ぼくには隣のおじさんのように、親しくも痛々しくも思えたりしました。その点で、同年の子規はもっと「青年」だったような、若々しい感じを、ぼくは持った。子規が三十五、漱石は五十で亡くなったのだから、とても若死にだったという想いが残りました。明治以降の「青年」のもっとも爽やかな友情がそこには溢れていたのでした。友人とか友情ということを考える際、いつでもこの二人を思い出したりするのです。

 菫程の小さき人に生まれたし この句はいろいろな読み方ができる句です。ぼくにはこれという正解めいた解釈ができませんが、仮に「小さき人に生まれたし」と漱石自身が念じたのだったら、どうでしょうか。おそらくこの句は彼の三十歳ころの作だとされています。博士号辞退の十年ほど前、彼は国から「イギリス留学」を命じられています。けっして望まなかったのは彼が書き残しているとおりですし、滞英中には重度のうつ病状状態に悩まされ、苦しい思いをしたのでした。ここでも、漱石は留学中の青年たち(池田菊苗。味の素の発見者、早矢仕有的。丸善という書店の創業者)に救われたのです。世間で生きていくというのは、漱石のような人付き合いのうまくない人にとっては苦痛・苦悩以外の何物でもなかったでしょう。だから、自分は生きている、そっとしておいてほしいという気分がここに表れているととらえることもできます。

 また、この時妻の鏡子さんは身重だったので、生まれ来る子どもに託した、漱石の人生観(置かれたところで咲きなさいということだったか)でもあったと指摘されもします。まあ、句を詠む人と、それを読む人では、同じ句でも違って受け取られるのは当然だといえるし、作者自身だって、時間がたてば、どういう心境で詠んだか、曖昧になるのはうなずけます。解釈も時とともに変化するのです。

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 もうかなり前になりますが、一時期、ぼくは熊日新聞を熱心に読んでいたことがありました。水俣病問題、ハンセン病裁判などの記事に、熊日はまことに熱心な姿勢をとっていたからでした。今でもそれはなくなっていないとは思いますが、何せ、新聞に対するぼくの関心はきわめて薄弱になりましたので、確かなことは言えません。どうして熊日か。それにははっきりとした理由があります。(ここではでは触れません)若いころ、ぼくは横井小楠について、小さな原稿を書いたことがありました。徳富兄弟や熊本バンドについて調べたこともありました。どういうわけだか、熊本については親しみを抱いていたのです。漱石の熊本時代もなにがしかの影響がありそうです。ぼくが音楽や世間を学んだ先輩は旧制熊本高校卒業の耳鼻科の医師でした、旧制時代の思い出をたくさん聞かせてもらった。

 というわけで、熊本を手がかりにこの島の近代化を語ることが出来るのではないかと、空想を巡らせていた時代がぼくにはあったのです。そこから漱石(1867-1916)に思いを馳せ、大塚楠緒子さんにも久しぶりに触れてみたくなったのでした。当時、漱石は楠緒さん(1875~1910)に思いを抱いていたという噂がしきりでした。真偽は定かではありませんが、漱石の親友と楠緒さんは結婚します。この「感情」は、漱石の小説のエピソードになったとしても可笑しくはありません。

 たった百年前に、「新生」「開化」を始めたこの島社会が、その後にたどった道筋はどんなものであったか、実に唾棄すべき事態の連続であったのですが、漱石が存命であったら、「菫」などはおろか、生まれてこなければよかったといったかどうか。人生に意味があるかないか、それをここで断言することは、ぼくにはできませんが、でも薄々はだれもが気づいているのです。人生に意味なんかあるものか、と。そう言い切ってしまうのはあまりにも自他に可哀そうに過ぎるから、そうは言わないだけなんですね。「菫程の…」人生なら、すこしは生きてみようかと、ぼくも思わないではありません。でも「末は博士か大臣か」という方向は先ず目指さない、そんな方向に目を向けることさえ汚らわしいと、ぼくは見ていたし、幸いにか、そんな生き方は内臓感覚で忌み嫌っていました。しかし、なにがなんでもそんな生き方をと、願いに願う人々もいるのが世間です。

 人間(にかぎらず、すべからく生命ある存在)は「小さきもの」なんです。どんなに大きく見せようとしても「小さきもの」が実像なんです。それを錯覚して、名利を得れば、自分は大きくなるし、世間も大したものだと評価してくれると信じているのかしら。名こそ惜しめというときと、名を成すという場合の「名」は同じか違うか。そもそも名とは何だ。「菫」は自分から「菫」と名乗るのではありません。この場合は、菫ではない人間(植物好き)がつけたに違いありません。でも「人間」だけは、自分で「人間」と呼ぶんですね。これは実に奇妙です。人間界に「人間以上の人間」がいて、これが人生の意味や価値を決めるのだとするなら、そんな「人間界」からおさらばしたいですね。どうやら、人間の世界には「上・中・下」、あるいは「松・竹・梅」などの序列があるのだそうです。最上位に位置する人間は「偉い」と自分では思っているだろうし、ひょっとしたら、それ以上に他人がそう考えてくれていると、錯覚しているのではないですか。

 それにしても、嘘しか口にしない(できない)生き方とはいつ、どこから蔓延し始めたのでしょうか。きっとたくさんあるのでしょうが、その一つは学校時代であったことは確かでしょう。成績競争を抜きにしたら、学校はなり立たないなら、そんなのは学校ではありません。やがて、それが嘘だと自他に見抜かれていながら、平気で(あるいは恐る恐る)嘘をついてしまう。自分を守りたい、自分の地位や名誉や利益を守るためなら、嘘であれ何であれ、構うものかという必死の生き方をせざるを得ない「人生」とは、いったい何なんでしょう。ここにも、「生きる意味」の有無の問題が顔を出しています。自分で意味がある(ない)と判断してしまう。副おういう判断は往々にして世間の判断でもあるのですが。

 見たり聞いたりしただけで悲しいのは、自分に対してさえも嘘をつかざるを得ないという、隠しようのない偽りに自分を賭けていることです。 

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。