
《彼(ソクラテス)は他人のように、また他人と一緒に考える。そしてそのことさえも彼は他人に知らせる。「そういうのは君だ」これこそ産婆術のもっとも驚くべき言葉である。「産婆術」は自分からではなく、他人から観念を引き出して検討し、量り、最後に、それが通用するか否かを決定する。…私たちに欠けているのは、普遍的なものを完全に信ずることである。どんなに小さな思想にも、普遍的なものを否定する思想にさえも、普遍的なものの現存を知る。私たち自身がソクラテスにおけるこの現存にあずかるなら、私たちはプラトンを理解できるだろう。…本当のソクラテスは先ず恐れない人であり、満足する人である。富がなく、力がなく、知識がなくて満足している。しかしこの疑う人には、それ以上のものがある。疑いは既に強い精神のしるしであり、そこには普遍的に考えることが保証されているように、外面的な善や人の意見に無関心であることは、すべての証拠に先立って、大きな決意のしるしである》(アラン)(左は高田博厚作アラン像)
《正しい国家において正しいのは軍人でもなく、職人でもなく、法官でもなく、国家が正しいのであり、それと同じように、人間において正しいのは心臓でもなく、腹でもなく、頭でさえもなく、人間が正しいのである。その意味で、国家と個人は同じ正義を分有すると言える》《人間を見て、人間が正しいのは機会や外的な関係によるのではなく、その人間の中の固有の正義により、その人間のさまざまな力の調和によるという観念をつくろうではないか》《正しい行為、明らかに正しい行為であっても、君がもし、内面的に正しいのでなければ、君はそれを正しく行うことはできない》(アラン)

まるで 古証文のように、アランの文章を二つばかり出してみました。ここから、ぼくたちはいくつものことを考えられると同時に、もっとも大事なことはなんであるかを知ることが出来ます。ソクラテスの母親はお産婆さんだったといいます。子どもを取り上げる人でした。生まれてくる子が無事であるか、あるいはお産が難しいかを見極める技術を持っているのが産婆さんであり、その技術を産馬術と言ったのです。
● 産婆術(読み)さんばじゅつ(英語表記)maieutikē ソクラテスの対話の方法には,消極的側面であるソクラテス的反語エイロネイア eirōneia (→アイロニー ) と,積極的側面としての産婆術が知られる。前者は対話の相手からロゴス (論説) を引出し,無知の自覚,アポリアへと誘い込むソクラテス一流の無知を装う態度であり,後者は相手の提出した論説や概念規定を,質問を重ねることにより吟味しつつ当人の意識していなかった新しい思想を産み出させる問答法である。彼はみずから知恵を産む力はないが,他の人々がそれを産むのを助けてその知恵の真偽を識別することはできるとして,自己の活動を母ファイナレテの仕事であった産婆になぞらえて,これを産婆術と呼んだ (プラトン『テアイテトス』) (ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
「テアイテトス」を一度でもお読みになった方はお判りでしょうが、この本は知識論であり、ドクサの吟味こそが教育の核心だとも言っているのです。「疑いは既に強い精神のしるしであり、そこには普遍的に考えることが保証されている」という部分に、ソクラテスの方法の核心があります。どんな問題も「おかしい」という疑いから生まれます。何の問題・疑問も感じなければ、どんなものも、目の前を素通りしてしまいます。誰もが疑わない、常識。通念と言われていることこそ、最も激しく疑ったのがソクラテスだったといわれています。

歴史上のソクラテスは真偽も定かでないような人であり、まるで霞か雲の中にいるような存在でしたが、さいわいに、プラトンが師の言葉を残してくれました。大小無数の「対話編」がそれです。対話というのは、ソクラテスが親しい誰彼に対してなされた「対話」を指します。対話が進む、対話を交わす、それがどういうことを言うのか、どんなものでもいい、一冊の対話編をお読みになれば、一目瞭然とします。
国家にあっても個人にあっても、それらが正しいのはたった一つの理由によるのであります。国家が正しいのは政治家でも官僚でも軍人でもなく、「国家が正しい」からです。同じように、一人の人間が正しいのは「その人間の中の固有の正義により、その人間のさまざまな力の調和による」ということを信じられるほど、人間は勇気がある存在なのだとアランは言います。若いころ、ぼくはアランにすべてを教えられたと思っていたし、今に至るまで、人間の固有の美しさを、ぼくはアランを通して学んできました。この島社会や世界各地の悪の連鎖を見せつけられるにつけ、固有の正しさを持った個人というものをしきりに求めたくなるのです。
「普遍的に考える」「人間の中の固有の正義」というのは、どのようなことを指しているのでしょう。何処までも問い続ける志を失わないで、この問題を考えていきたいですね。哲学というのは、ぼくにとっては、生き方の流儀です。生き方そのものなんです。「君はどのように生きているのか」今の瞬間に、ぼくはそのように問われているのであり、それに自分流に応えているのです。
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