名利に使はれて、静かなる暇無く、…

【水と空】恐怖接待? 「ネーミングの妙」は時として、不祥事にも当てはまる。深夜、公費を使ってタクシーで帰宅する国家公務員らが、運転手から酒やおつまみ、商品券を受け取るという問題がかつてあった▲「タクシー居酒屋」という造語をご記憶の方も多いだろう。運転手は携帯番号を職員に渡す。高額のチケットを切ってくれる客を“お得意さま”にしようと、接待に手を尽くす。13年前に問題化した▲さかのぼって23年前には、大蔵省(現財務省)の職員が民間からしゃぶしゃぶ店で接待されていたのが明るみに出た。そのネーミングはおくとして、これを機に、利害関係者との付き合いは国家公務員の「倫理規程」で厳しく縛られていく▲全くもって古めかしく、言語道断の「接待漬け」と言うほかない。菅義偉首相の長男が勤める放送事業会社による接待問題で、総務省は「利害関係」があると見なして職員11人を懲戒処分などにする▲倫理規程そっちのけの接待に、ひょいと乗っかる公務員の気が知れないが、心に恐怖と忖度(そんたく)があったのは想像がつく。「菅さんの息子に呼ばれて断ったら、わが身はどうなる…」と▲首相は長男が関係していたのを認め、陳謝した。「恐怖接待」か「威光接待」か、いずれにせよ「国難」と呼ばれるこの局面で、国民はしかめっ面をさらにしかめている。(徹)(長崎新聞・2021/2/23)

【小社会】包み隠さず 日本には大切な物を紙や布で包む文化がある。行きつけの店は焼き菓子を買うと、必ず店員さんが聞いてくれる。「お包みはどうなさいますか」。安い品でも上等な物を買う気分になる。▼別の店では逆の体験をした。手土産を買おうとしたら、「ご自宅用ですか」。包んでほしいとは言いづらくて困った。せめて「贈り物ですか」と尋ねてほしい。その点、「お包みはどうなさいますか」には気遣いがある。▼包むのは中身の保護だけでなく、見えにくくする、つまり隠す目的もある。贈り物も中身が見えない方が受け取りやすい場合が多い。包むという行為自体が気遣いなのかもしれない。作家の幸田文さんはエッセーで「『包む』には庇(かば)う心がある」と述べている。▼これはいい意味での庇いだろうが、世の中には包み、庇われては困るものがある。菅首相の長男らによる総務省幹部接待問題。長男は放送事業会社に勤務しており、同省も利害関係者と認めている。接待を受けた職員は10人を超えるという。▼どんなやりとりがあったのか、勤める会社に特別な計らいはなかったのか。権力者に近い人物が優遇されたり、周囲が忖度(そんたく)したりして行政がゆがめられた疑いは安倍前政権でも問題になった。うやむやにはできない。▼きょうは「ふろしきの日」でもある。日付の数字が「つつみ」と読めるかららしい。関係者は包み隠さず、国民の納得のいく説明を。(高知新聞・2021.02.23)

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 「出処進退」という語がありました。もちろん、今でも言葉はありますが、それが滅多に使われなくなったのはなぜか。文字どおりに所・処を得ることがなくなったからです。使う場がなくなったのです。出所も進退も、ある特定の人の特定の地位への登用と、そこからの引き際を言い当てたものでしょう。「出処進退」は、一義的には「出て官途にあることと、しりぞいて民間にあること。役職にとどまることと役職を辞すること。身の振り方」(デジタル大辞泉)を指して言われました。「官途に就く」は役人・官僚になることを指します。この島にも官職があり官僚がいるのは当然です。しかし、その官僚の大半がと言っていいくらいに、話にならないほどの「立身出世(魁の功名争い)」至上主義に染まりきっているのです。官途について、なんとか金持ちになりたい、できればちょっとでも権力を好き放題に使いたいという輩はいつの時代にもいたのですから、今でも蔓延っているのに何の不思議もないというべきか。「腐るのが権力」さ。

 「位人臣を窮める」という語が盛んに使われてきたのですが、今の官僚に即して言えば、事務次官になることです。官僚序列のトップ。またかなり以前には、「末は博士か大臣か」かという映画が作られたことがありました。博士も大臣も、人臣の高位にあることを明示していて、そこに人生というか生きがいを懸けるというのでしょう。物悲しくなるような話じゃないかと、ぼくには思えます。要するに、階段の早登り競争です。他人よりも高い段に、より早く上るのが勝ちというなら、まるで雛祭りの「雛壇」の序列比べです。より高くというのが、誰もの願いだとは思いません。いささか競争心が強いのは育ちや、それによる性格に基づくのでしょうが、なんとも嫌になるのは、学校教育がその競争心をいやがうえに煽って来たのです。まだ煽っている学校や教師がいるんじゃないかな。

 これを政治家の問題(側)としてみるとどうなるか。やはり出処進退は容易ではないことがわかります。というより、莫迦や屑が挙って政治家になりたがるし、類は友を呼ぶという譬えで(同病相憐れむではない)、どうしようもない連中が永田町という島の住人になっているのであり、そこに棲みつくには「莫迦の資格」や「嘘つきの証文」が必要とされているのです。何よりも自分の利益を追求する点において人後に落ちないこと、「情けは人の為ならず」を地で行くだけの心がけの持ち主であること。税金は「自分の懐」に入るものという盗人魂の持ち主であることなどなど、こういった厚顔無恥の人物でなければ政治家にはなれないし、ならない。その政治家に塗(まみ)れるのが官僚です。だから、同じ穴の狢(むじな)なのだといいたいところですが、「狢」には申し訳ないのでそうは言わない。「同じ穴の人間(似た者同士)」で、「持ちつ持たれつ」が政・官の靭帯となっているのです。これに業者(が絡めば「悪のトライアングル(政官業)」は完成します。三竦み状態が「政治の常態」なんですね。

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 名利に使はれて、静かなる暇無く、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。

 財多ければ、身を守るに貧(まど)し。害を賈ひ、累(わずら)ひを招く媒(なかだち)なり。身の後には、金をして北斗を 拄(ささ)ふとも、人の為にぞ煩(わづら)はるべき。愚かなる人の、目を喜ばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心有らん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金は山に捨て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。

 埋もれぬ名を、永き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、勝れたる人とやは言ふべき。愚かに拙なき人も、家に生まれ、時に逢へば、高き位に昇り、奢を極むるも有り。いみじかりし賢人・聖人、自ら賎しき位に居り、時に遇はずして止みぬる、また多し。偏に、高き官・位を望むも、次に愚かなり。

 智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きを喜ぶなり、誉むる人、譏(そし)る人、共に世に留まらず。伝へ聞かん人、またまた、速やかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉れは、また譏りの本なり。身の後の名、残りて、さらに益無し。これを願ふも、次に愚かなり。

 ただし、強ひて智を求め、賢を願ふ人の為に言はば、智恵出でては偽り有り。才能は、煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、真(まこと)の智にあらず。いかなるをか、智と言ふべき。可・不可は、一条なり。いかなるをか、善と言ふ。真の人は、智も無く、徳も無く、功も無く、名も無し。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。もとより、賢愚・得失の境に居らざればなり。

 迷ひの心を以(もち)て名利の要を求むるに、かくの如し。万事は皆、非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。(「徒然草」第三十八段)

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 「名利に使はれて、静かなる暇無く、一生を苦しむるこそ、愚かなれ」と、本当に実感して、その愚を避けようとして生きている人は賢者足りうるでしょうね。兼好さんがこのように言うのは、自らがこの「明利」に悩まされたことの何よりの証拠です。達観しているのではないのであって、自分もまた、なんともつまらない、拙劣な人品であることよ、と懺悔しているといってもいいと思う。だから、ぼくは「徒然草」を読みつづけてきたんです。兼好さんは政治家になるには、ちょっと人が好過ぎた。

 「埋もれぬ名を、永き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、勝れたる人とやは言ふべき。愚かに拙なき人も、家に生まれ、時に逢へば、高き位に昇り、奢を極むるも有り。いみじかりし賢人・聖人、自ら賎しき位に居り、時に遇はずして止みぬる、また多し。偏に、高き官・位を望むも、次に愚かなり」と、まるで兼好さんは生存していて、永田町の愚か政治を活写している風情です。さらにいえば、この愚かしい風潮は決して永田町という一角にのみ見られる風物・風景・風俗・風習なのではなく、劣島のいたるところに繁茂している、まるで、取りきれないままに、執拗に生息する「黴菌」浸食の一部始終なんですよ。どんな薬品でも、除菌はまず不可能とみています。

 なろうことなら、黴菌に感染しないように、ひたすら注意する(逃げ回る)、これだけがぼくの生きる術でした。「名利」を求めるというのは、自分から交通事故に遭遇するようなもの、「当たり屋」もどきで、危険極まりありません。まさに自死行為ですね。自分で事故に遭わないようにするのはもちろん、まちがっても巻き込まれないように、それこそがぼくの注意すべき一点でした。

 風呂敷の日、なんとも垢ぬけしない命名ですね。風呂敷の役割はさまざまですが、何よりも「隠す」という機能に尽きます。その伝でいえば、永田町や霞が関に代表されるお歴々の風呂敷マジックは、まさに「カクシゲイ」というべきですな。総理大臣が率先して、「愚かなり」とくるのですから、官僚もまた「次に愚かなり」となります。「迷ひの心を以(もち)て名利の要を求むるに、かくの如し(易行道です)。万事は皆、非なり。言ふに足らず、願ふに足らず」という覚悟というか、人生の行末を決めるかもしれない姿勢や態度をこそ、学校に所属しながら(それに染まらず、抵抗しつつ)、身に着けられるかどうか。一人の生徒がそのような姿勢で、教室を闊歩できることは果たして可能か。教師はよく、生徒の敢行する、その至難の業(難行道)を助けられるかどうか。自分もまた「愚かなり」という自覚から出発することが、そこから抜け出すためには必須の条件となるのです。

 そもそも、「灯台(「東大」に代表される大学をはじめとする諸学校)下暗し」なんだ。自分の足元を照らすこと。手探りで、自分の脚で、無理をしないで、自分の歩幅をそろえて、ていねいに歩くこと、そんな生活ができるといいね、ぼくはいつでもそう願っているのです。遠くを見るな、足元を照らせ。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。