コラ 遊びに行ぐが?おらんだば大丈夫だべ?

【北斗星】「世界隅々広まってしまったうだでー(厄介な)ウイルスだ」。新型コロナウイルス収束の願いを秋田音頭のリズムに乗せた替え歌「五六七(ころな)撃退音頭」の一節だ。三味線奏者の梅若鵬修さん(41)=秋田市=が作詞した。動画サイトで公開している▼県内の民謡歌手5人が交互に歌う。鵬修さんらが呼び掛けて実現した。進藤義声(ぎせい)さん(86)=同=のパートは、こうだ。芸の道には日々の稽古が欠かせないと歌った後、「パソコンかづいでオンラインレッスンだ 俺だばつでがれねで(ついていけないよ)」▼新型コロナ流行を受け、パソコンなどの画面を通じて各種の習い事を指導するオンラインレッスンが普及した。県内ではゴルフ、ダンスなどのほか、民謡教室でも取り入れられている▼進藤さんは「秋田追分」生みの親の鳥井森鈴(しんれい)(1899~1979年)ら多くの先輩から民謡を教わった。鳥井は特に厳しく、納得するまでそばに立って何度も歌い直しを求めた。他の先輩からも、楽屋におけるマナーなどを現場でたたき込まれた▼そんな経験を積んだ進藤さんからすればオンラインには隔世の感があるのだろう。音頭の歌詞は自分の気持ちそのものという。「文章を書くのに使っていたからパソコン自体に拒否反応はないんだが」と笑う▼一方、鵬修さんはオンラインを有効活用しながらも「細かいところはやはり伝わりにくい」と難点を指摘する。民謡を生で教え、聴かせ、楽しんでもらう。2人共通の願いだ。(秋田魁新報電子版・2021年2月21日)

(秋田音頭の代表的な歌詞)
ヤートセー コラ 秋田音頭です
ハイ キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー
コラ いずれこれより ご免こうむり
音頭の無駄をいう(アーソレソレ)
お耳障りも(お気に障りも)あろうけれども
さっさと出しかける
ハイ キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー(以下略)
コラ 秋田名物 八森ハタハタ
男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)
能代春慶 桧山納豆
大館曲げわっぱ
コラ 秋田の国では 雨が降っても
唐傘などいらぬ(アーソレソレ)
手頃な蕗の葉 さらりとからげて
サッサと出て行がえ
コラ 秋田の女ご 何どしてきれ(綺麗)だと
聞くだけ野暮だんす(アーソレソレ)
小野小町の 生まれ在所を
お前はん知らねのげ
コラ 秋田川端 日幕れに通ったば
ピカピカ飛んで来た(アーソレソレ)
蛍と思って ギッシリ掴んだっきゃ
隣りのハゲ頭

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 秋田(に限りませんが、おしなべて東北方面)は民謡の宝庫だといえます。その理由や背景は何でしょうか。庶民(農山漁民)が辛辣かつ活発に権力批判を怠らなかったという意味合いもあるのでしょうが、それ以上に、平々凡々たる日常の明け暮れに、あきらかな区切りをつけるための勢い(クレッシェンド)だったといえます。よく言われる「ハレとケ」の境界を明確にするための伴奏であり、導入儀式でもあったでしょう。

● ハレとケ=冠婚葬祭など公の行事が行われる特別の改まった日をハレ(晴)と呼ぶのに対し,日常,平生もしくは私を意味する言葉。ふだん着を褻衣(けのころも),居間を褻居(けい)という。ハレとケのダイナミズムが日本の民俗文化を大きく規定している。(百科事典マイペディアの解説)

 秋田音頭は、今ではすっかり形も中身も変わってしまいましたが、その名残はどこかに残されているはずです。秋田は江戸時代になってからは佐竹氏の支配するところとなり、その治世は廃藩置県にまで及ぶ。(ここでは詳細は略します)東北といわれる地域は、じつはこの島社会の「さきがけ」だったのではないかという証拠もあり、縄文時代には「中心地」をなしていたのです。民謡の本来は、労働歌(ワークソング)であり、生活の伴奏曲であり、権力に対する批判精神の発露でもあったでしょう。それはまた、庶民の生きた姿をリアルに示した自画像でもあったと、ぼくは考えています。各地・各在所に民謡が残されているのは、何よりもそこに生きていた人々の呼吸でもあったのです。

● 久保田藩ともいう。江戸時代,出羽国秋田地方 (秋田県) を領有した藩。室町時代以来この地を領有していた秋田氏が,関ヶ原の戦いで西軍に加担したため,慶長5 (1600) 年常陸 (茨城県) 宍戸へ移され,同7年に常陸水戸 54万 6000石を領していた佐竹義宣が同じく西軍に呼応したかどで 20万 5800石に減封されてこの地に移った。以後外様大名佐竹氏が 13代にわたって在封,廃藩置県に及んだ。江戸城大広間詰。義宣は,久保田城を築き,城下に久保田町を開き,梅津政景を用いて院内銀山を経営するなど藩政確立に努めた。元禄 14 (1701) 年,弟義長に新田2万石を,甥義都 (よしくに) に同1万石を分与して,それぞれ岩崎藩,久保田新田藩を起したが,後者は享保 17 (32) 年宗藩に返還された。 10代義和 (よしまさ) は藩政改革を試み,13代義堯 (よしたか) は奥羽越列藩同盟に加盟した佐幕諸藩に対し孤軍奮闘した。明治5 (1872) 年の禄高は内高 60万石,実高 80万石。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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● 民謡=「民衆の生活のなかで生れ育った歌。民衆によって作られ,民衆のなかで伝承され,その本来の性質が民衆的な歌をいう。また特定の作曲者,あるいは創始者の創作意志が問題とされず,伝承されるにつれて,社会的環境や時代の背景によって音楽上も歌詞のうえでも変化していく。したがって流行歌とは違って時間的持続性をもつと同時に,民衆の生活の内容や形式と結びつき,郷土的,職業的な性質をもつ。日本では,俚謡,俗謡,田舎唄などと呼ばれていたが,明治以降,英語の folk song,ドイツ語の Volksliedの訳語として「民謡」という名称が定着した。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

 民謡について何かを話すとなると、たちまち一冊の書物になるほど、扱われる事項は多彩です。それだけ、庶民の生活万般にわたる息づかいがそこには存在しているからでしょう。息が長く、而も時代と共に変化を遂げながら、伝統の部分ははっきりと刻印として残される。だから、ある地域の民謡をよく見れば、生活文化の歴史がたどれるといわれるのです。

 テレビや新聞が各家庭に侵入し、学校教育が全国に普及するに及んで、民謡が形骸化されて行きました。いわば「骨抜き」にされてしまったのです。民謡は前時代の遺物とまでみなされたかのようですが、どっこい、ここに本来の民衆の地を這う生活の呼吸が、すこしは洗練されて、ハッキリと息づいていることが示されたようですね。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。