
【談話室】▼▽「千年後まで残るものを描いてほしい」。それが当時の住職からの注文だった。鶴岡市朝日地域の注連寺で1989(平成元)年秋に完成した天井画「天空之(の)扉」である。洋画家の木下(きのした)晋(すすむ)さんが杉板に墨で描き上げた。▼▽根源的な祈りの姿を表す合掌図をモチーフにした。鉛筆による手練の技法で描いた線を、面相筆を使って墨で面に構築していく。墨は板に染み込むので失敗は許されない。いっときも気を緩められない制作工程を、富山出身の鉛筆画の鬼才は自伝「いのちを刻む」で顧みる。▼▽おととし末に出版した自伝は波乱万丈の人生や画業を通して出会った人々との逸話をまとめた。刊行を記念した個展が東京・銀座の画廊で開催中で、パーキンソン病を患う妻を描いた作品を中心に近作も交え、22段階の濃さの鉛筆を駆使した細密な鉛筆画約20点を展示する。▼▽「天空之扉」は鉄門海上人の即身仏が鎮座する厨子(ずし)が安置された部屋に据え付けられた。天井は天界と俗界の接点となり、合掌図の皺(しわ)を刻んだ手指は人生の重み、風雪に耐えた歳月を物語る。見る方向を変えれば、古刹(こさつ)から仰ぐ月山の山容が浮かび上がり、悠久の時を語る。(山形新聞・2021/02/20付)
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つい先日、木下晋さんについて触れたところでした。滅多にないことですが、間をおかないでまた書くことにしました。山形県内のお寺の天井画に木村さんの鉛筆画が「天空之扉」と題されて描かれたという。三十年以上も前のことでした。この木村さんの鉛筆画を、京都の友人(最後のところに、また出てきます)に紹介したところ、彼はあまりにも深刻過ぎてみることが辛いと言ってきました。どういうことだろうか、とぼくは深く考え込んでしまった。確かどこかで木村さんは丸木位里、俊さんについて語られていたように思いますが、そのご夫妻が描かれた「原爆の図」「沖縄戦の図」のことを思い出しました。
その絵を、ぼくは沖縄の佐喜眞美術館で、何年も前に見たのでした。佐喜眞館長のお話では、この美術館のために「沖縄戦の図」は描かれたものだということでした。

佐喜眞さんのことについても書かなければならないのですが、本日は別の要件もありますので、別の機会に譲ります。普天間基地内の「所有地」を米軍に掛け合って返還を求め、その地に美術館を建設したのでした。設計は真喜志好一さん。お二人にぼくは、沖縄でも東京においても、大いにお世話になったとがはありました。最近は連絡もしておりませんが、お元気でいらっしゃるだろうか。

●佐喜眞美術館=沖縄県宜野湾市にある美術館。平成6年(1994)創立。個人コレクションによる私設美術館。丸木位里(いり)・丸木俊(とし)の「沖縄戦の図」のほか、ケーテ・コルヴィッツらの作品を展示する。
URL:http://sakima.jp/ 住所:〒901-2204 沖縄県宜野湾市上原358 電話:098-893-5737
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いかにも古い新聞の記事ですが、興味をそそられたので引用しておきます。
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注連寺境内に「鉛筆碑」 鶴岡市大網の注連寺(佐藤弘明住職)の境内にこのほど、「鉛筆碑」が建立された。注連寺の大天井画の鉛筆模画の縮小版を手掛けたマック美術研究所(東京都)代表の田中昭さん(73)が、鉛筆画のペンシルワークの普及を願うとともに、使い終わった鉛筆に感謝し納めてもらおうと建立した。

今月5日に注連寺境内で行われた建立式には、田中さんの他、ペンシルワークの第一人者で美術家の木下晋さんも参列した。木下さんは注連寺の大天井画「天空之扉」(1989年、墨絵)を手掛けており、2人の作品は拝観時に見ることができる。
鉛筆の碑は、鉛筆メーカーの創業の地の新宿区内藤町にあるほか、学校などで設けているところもある。注連寺の鉛筆碑には、えんぴつ記念日(5月2日)にちなんだ「5・2」と「ペンシルワーク」の文字が刻まれており、碑前には使い終わった鉛筆を納める所を設けている。また碑の左脇の石板には「世界各国民族を超え子供から年配者迄みんなが使っている鉛筆に感謝すると共に筆記具を超えて未だ見ぬ多様で奥の深い表現を開拓する 鉛筆は今 長い眠りから覚め日本からペンシルワークとして再出発しています」と、田中さんが建立に寄せた思いが刻まれている。

田中さんは「木下さんによって鉛筆画の大作が描かれるようになり、ペンシルワークというジャンルが確立していることを多くの人に知ってもらいたい。絵を描く人や美術部の学生など、思いがあり捨てられない鉛筆を納めてもらえれば」と語った。木下さんは「私にとって鉛筆は表現の源、商売道具であり大切なもの。ゆかりがある注連寺に碑ができたことをうれしく思う」と話した。(荘内日報社・2018.11.21)
(左上 注連寺境内にある「鉛筆碑」(⇦写真)田中さん(左)と木下さん=11月6日、致道博物館で)
●注連寺=山形県鶴岡(つるおか)市大網にある寺。新義真言(しんごん)宗湯殿山(ゆどのさん)派の大本山。山号は湯殿山。本尊は大日如来(だいにちにょらい)。開創は弘法(こうぼう)大師空海といわれ、湯殿山本地仏の大日如来は空海が825年(天長2)につくったものと伝えられる。湯殿山旧別当職の僧坊で、往時は注連密寺、根本注連掛(がけ)坊などと称した。本導寺、大日坊、大日寺などを含む一山の総号を日月(にちがつ)寺と号し、湯殿山が女人結界のため、女人遙拝所(ようはいじょ)として栄えた。

湯殿山は月山(がっさん)、羽黒山(はぐろさん)とともに出羽(でわ)三山の一つで、江戸時代に月山・羽黒山は天台宗に統一された。当山は、第二次世界大戦後に新義真言宗湯殿山派として独立した。堂内にはさまざまな逸話のある鉄門海上人(てつもんかいしょうにん)の即身仏が安置されている。森敦(あつし)の芥川賞受賞作『月山』の舞台になったことでも知られ、境内に森敦文庫文学資料館が建てられている。(日本大百科全書の解説)
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いろいろな連想が湧いてくるのですが、本日は少し時間の余裕がなくなりそうなために、連想の赴くに任せて、その後を追わないことにします。このところ、連日のように京都の友人が夜に電話をかけてきます。電話が必要なのは、彼にとっては深刻な事柄をかかえているからのようですが、赤の他人にはバカバカしいこと限りなしで、夫婦げんかの成り行きをしゃべられているだけの話。かみさんと喧嘩して、三週間前に、彼女は「家出」をしたという。それを「出家」と言わないところが、深刻ぶった茶飲み話じゃないかと、呆れながら、彼の言い分を聞く役目を強いられているのです。自分のことは自分で始末しなよ、と言いたいのは山々ですが、それがうまくいかないから、ぼくみたいなところに電話をかけるという事情が分かるので、話は聞くのを拒まないというだけなんですが。天気の模様がヤバそうだからと病んでも仕方がなし、その内に晴れるに決まっている、人間の気分だって似たようなもんだというのが、ぼくの姿勢です。
「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」ゲテモノ食いの犬だって、夫婦喧嘩ばかりは食わないさ、というようですが、犬に失礼な。
予想もしていませんでしたが、本当に久しぶりに森敦さんが出てきました。実に懐かしい人です。亡くなられてどれくらい経つのか、去る者日々に疎しという時日の経過を、いやでも実感しているのです。
本日の午前中、ある学校の生徒たちとズーム授業というのかしら、それをしました。これで何回目ですか。何事によらず、自分で考えるというのはいいですね。自分流の答えを出してみる、他人の考えを傾聴する、それを踏まえて、また考える、この繰り返しが、実は「考える」の真意ではないかと、ぼくは経験してきました。その途中で「ちえこ」さんという猫が授業に参加したいとカメラに映りに行きました。

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●去る者は日々に疎し(読み)さるものはひびにうとし=親しい者でも、離ればなれになって顔を合わせなくなると、月日がたつにつれて疎遠になっていく。また、死者は年月を経るにしたがって忘れられていく。(そういっただけでは足りない、もっと深いところで「日々に疎し」をとらえたいですね。山埜郷司)
[使用例] あくまで意地を張っているうちに、去る者は日に疎し、於菊のところに全く足を遠ざけておりました[井伏鱒二*駅前旅館|1956~57][解説] 「文選―古詩十九首・一四」「去る者は日に以て疎し、生くる者は日に以て親し」によることば。英語のことわざ、Out of sight, out of mind.の定訳にもなっていますが、英語の場合は人間にかぎらず、物についても用いられます。(ことわざを知る辞典の解説)
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