目に見え心に思ふことを、つれづれなる里居の…

● 枕草子(読み)まくらのそうし 平安時代中期の随筆。清少納言著。長保3 (1001) 年頃にはだいたい完成していたとされる。書名は「枕にこそは侍らめ」といって中宮から用紙を下賜されたという跋文に基づくが,枕頭に置いて備忘録とする意とも,歌枕,枕詞の枕の意ともいう。形態の異なる数種の伝本があるが,作者の初稿から出た「三巻本」と作者自身によって加筆補訂された「伝能因所持本」が重視される。類集的章段,日記回想的章段,随想的章段など性格の違う章段約 300から成る。才気縦横の明るい世界は紫式部の暗く沈思する世界と常に比較される。『源氏物語』とともに,王朝文化の頂点を形成し,後世に多大の影響を与えた。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

● 清少納言(読み)せいしょうなごん [生]康保3(966)頃[没]万寿2(1025)頃 平安時代中期の女流歌人。『枕草子』の作者。歌人の家柄に生れ,父は『後撰集』の撰者清原元輔。橘則光,藤原棟世 (むねよ) らと結婚,橘則長,小馬命婦らを産んだと推定される。その生涯の詳しいことは,一条天皇の中宮定子に正暦4 (993) 年頃出仕してから長保2 (1000) 年定子が薨じるまでの宮廷生活を中心に知りうるだけである。定子の寵愛を受けて,その父の関白藤原道隆,その兄の伊周 (これちか) をはじめ,藤原斉信 (ただのぶ) ,藤原行成以下の公家貴族とのはなやかな交際場裡に生きた。それらを具体的に記した散文『枕草子』には,打てば響く活発な才気,宮廷文化の頂点に立つ鋭い美意識がみられる。和泉式部,紫式部とともに平安時代女流文学を代表。晩年は落ちぶれて老い恥をさらしたと『古事談』などに伝えられ,東国に流れていったときに記したという『松島日記』などがあるが,すべて伝説で信じられない。家集に『清少納言集』がある。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

 《跋文 原文》
 この草子、目に見え心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを、あいなう、人のために便なきいひすぐしもしつべき所々もあれば、よう隠し置きたりと思ひしを、心よりほかにこそもりいでにけれ。

 宮の御前に、内の大臣の奉りたまへりけるを、「これに何を書かまし。上の御前には、史記といふふみをなむ書かせたまへる。」などのたまはせしを、「枕にこそははべらめ。」と申ししかば、「さば得てよ。」とて賜はせたりしを、あやしきを、こよや何やと、つきせず多かる紙を書きつくさむとせしに、いとものおぼえぬことぞ多かるや。

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春はあけぼの。
やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

夏は夜。
月の頃はさらなり、闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。
また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。
雨など降るも、をかし。

秋は夕暮れ。
夕日のさして、山の端いと近くなりたるに、烏(からす)の、寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。
まいて、雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。
日入りはてて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。

冬はつとめて。
雪の降りたるは、言ふべきにもあらず。
霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。
昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶(ひおけ)の火も、白き灰がちになりて、わろし。(第一段)

「雪松図屏風」 円山応挙

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 「枕草子」について知るところはほとんどありません。学校時代に目にしたことはありそうですが、その記憶も消えてしまっています。まったくの無手勝流で、我流の読み方をしてきたと言っていい。どの本もそうです。いわゆる古典文学などと称されるものに関しても、まったくの自己流の読書です。外国の文献を読むのも、まったくの我流に徹していた。だから、そこからの成果は皆無だったというほかない。平安や鎌倉時代の文献を読むのも、ぼくにしてみれば、外国語を見るのと同じで、辞書を片手に、かろうじて行(文章)をたどるばかりでした。語学に関して言えば、ぼくは必要性を感じていなかったからか、ほとんどものにしなかったし、ならなかった。試験に及第するだけでよかったのでした。

 これから「枕草子」を読んでいこうかなと、ふと思いついたのですが、さてどうなりますか。邦家の碩学たちが研鑽を重ねられているにもかかわらず、作品・作者については、知られるところは多くありません。その事実は、ぼくには大いに興味がそそられるのです。まるで、法隆寺や東大寺をだれが建てたのか、皆目見当がつかいないわけではないでしょうが、具体的な大工などの職人名は大半は不明です。作品(法隆寺・東大寺)だけが、いよいよ鮮やかに現前しているのです。誰が作ったかわからないのは、ある意味では、後世の人間には都合がいいんですね。歴史というものは、主人公が忘れられてこそ、作られてきたのです。特定の人物が歴史を作るということはないと断言します。歴史の一齣のきっかけをつくることはあっても、誰それが時代を作ったなどということは言葉の綾(というか、ごまかし)です。固有名で語られるものは、大半が「小説」であり「物語」にしかすぎません。歴史は非人情なものなんですね。

 現代建築という名の、ケバケバシイ墓標のような高層ビルが天を衝く勢いで、各地の中心部に蔓延しています、まるで腐敗するのに覇を競うが如く、無残な建造物が「林立・乱立」しているのですが、豪華賢覧とした建物というよりは、現代生活という、人工に彩られた・囲われた「文化(の痕跡)」の捨て場のように感じられてきます。歴史の細部をつないできたのは、すべからく無名の人民でした。歴史に名前が残る気づかいのない人々がバトンタッチをして、生活という文化を紡いできたのです。「夢の島」の上にできた「儚い夢の砦」のようです。

 文学や絵画に関しても同じ感想をぼくは持っています。作者ばかりが気になるのは、すこし御免被りたいという気になります。誰の作かわからない仏像やお地蔵さんのように、そこにあるだけで、手を合わせたくなる、そんな作品がぼくには最も好ましいのです。清少納言、いったい何者であり、なぜ「清・少納言」なのか、ぞうして「枕・草子」なのか。それすらわかっていないらしい。何かといわれていますが、詮索が過ぎて、しっくりこないし、そのわからなさを残したままで、「枕草子」はじゅうぶんに愉しい読書なのです。固有名はともかく、作者が描いているのは、まぎれもない人間たちの喜怒哀楽であり、勝者必滅の運命です。いつの時代にも、生きて動く人間がいるということを示しています。

 あまりに時代が古いから、作者や作品について知られないのは当然であるとも言えますが、現代においても作者不詳の作物はいくらでもあるのです。ぼくが今住んでいる「家」も、書類上は築二十年とかいうのですが、屋根瓦をだれが葺いたのか、畳はどこの職人が作ったのか、襖や障子などなどといえば、まったく知ることが出来ません。それでも住み心地がよければ、作者(職人)はまったく気にならないのです。もっと乱暴なことを言えば、島の全土の七割を占めている山林、この木々を植えたのはだれか、川の灌漑工事をしたのはだれか、そんなことを一向に知らないで、ぼくたちはその恩恵を受けているのです。

 いままでバッハの作だといわれていたのが、別の人の物だったというのはいくらでもあります。ブランドにこだわれば、同じ作品でもバッハでなければよくないという、実に奇妙なことになるのでしょ。バッハだと思い込んでいるうちが花。「知らぬが仏」というのは、人生においては有効な場合もありんですよ。グッチやエルメスなどという偽ブランドが流行るのも、理由や背景は似たようなものでしょう。持つ人がそれでいいなら、余計なことは言わないのがいいのです。真贋というけれども、その基準や評価はあってないようなものですね。

 変な成り行きになりそうですから、余談はこの辺にしておきます。(いま、雑本の山を探して、「枕草子」を何冊かとって来ようとしたのですが、見つかりませんでした。いずれ、「原本」を決めて本文を統一しようと考えています)(岩波文庫版の校訂は池田亀鑑さん、高校時代の古典の女教師の父上です。因縁ですね。これを使うか、古典文学大系版を使うか(これにも池田さんがはいっています)、それともちくま学芸文庫版にするか(「徒然草」の校訂者である島内裕子さん)。こんなことで迷うんですからね)

 いつもの流儀で、ひたすら読む、繰り返し読んでみるだけです。「意、自ずから通づ」か。

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左の軸は宣長の書いたものです。三十五年をかけて「古事記伝」を仕上げたときに(寛政十、1798年)、思いを込めて詠んだ歌が記されています。「古事の記をらよめば いにしへのてふりこととひ ききみるごとし」宣長さんにとって、「古事記」を読むとは、古人の手ぶりや言問い、それを目の当たりにすることだった、というのです。宣長さんに比すべくもありません。でもひたすら千年前の清少納言の息づかいが感じられるところまで近づきたいと愚考しており、その愚考の後を、脈絡なく綴ることになるだろうという程度の、さだめなき読書体験の始まりです。どんな遠い時代にも、ぼくたちと少しも変わらない人情や情熱を持った人々が生きていたのです。そんな人に会うためにこそ、ぼくは本を読んできました。着ている服装や住んでいる家は異なるのは当たり前ですが、その人は考え悩み、苦悩し喜び、というように、いつでも喜怒哀楽を隠さないで生きていたのです。一例として、ぼくのようなへんてこな人間、そんな人間が平安の世にもいたかもしれません。

 (その昔、故橋本治さんの「桃尻語訳 枕草子」がありましたが、ぼくには邪道でした、「春ってさあ、あけぼのよ」とかいうのでした。この橋本さんと、ちょっとした因縁がありましたが)

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