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【北斗星】(2月10日付)風のない穏やかな冬の日に、きめ細かな雪がしんしんと降り積もることがある。この時期の清らかでりんとした美しい光景をうたった句に〈雪の降るこのしづけさは秋田のもの〉がある▼作者の玉村徹太郎を知る人は多くないだろう。旧鷹巣町に生まれ、上京してから句作を始めた。後に職を求めて北海道に渡ったが、病を得て帰郷。翌1951年に26歳の若さで亡くなった。今年は没後70年に当たる▼山口誓子主宰の俳誌「天狼」で研さんを積んでいたようだ。帰郷後に詠んだ先の句は、誓子から「秀(すぐ)れた郷土愛にもえる真実を吐露した」と評された▼(右は誓子)

玉村という早世の俳人の存在を同郷の五代儀幹雄さん(88)から教えていただいた。若き日に玉村の作品と出会い大きな衝撃を受けたという五代儀さん。郷土を詠むことの大切さを教えられたという▼新進気鋭の俳人として活躍する夢を打ち砕かれた玉村は、志半ばでの帰郷となったのではないかと想像する。挫折感から荒れた日々を送ったことをうかがわせる句もある。同じく雪を詠んだ句でも〈雪国の天の貧しさ雪降りだす〉は古里への屈折した思いを浮き彫りにする▼帰郷後の句作の期間は1年ほどで、残された作品の数も多くない。最晩年の〈栗の実が木のてっぺんに墓穴掘る〉は、迫り来る死の影を木に幻視して壮絶だ。そうした苦境のただ中で詠まれた冒頭の句は、最後にたどり着いた静謐(せいひつ)な境地を古里の雪景色に託したのだろう。忘れられない作品である。(秋田魁新報・2021年2月10日 掲載)
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上に引用された句について、コラム氏は「最後にたどり着いた静謐な境地を故郷の雪景色に託した」と読んでいます。そうかもしれませんが、ぼくは素人なりに、それとはちがった捉え方をしてみたくなります。大雪の降る季節はまったく外で働けない。辛うじて、来るべき春に備える夜なべ仕事で過ごすほかない。雪害というものが測られる時代ではなかったにせよ、玉村在世の時代、あまりにも深刻は貧しい生活を余儀なくさせるのが雪の降り続く季節でした。「雪の降るこのしづけさは秋田のもの」というのは、やりきれない生活苦と降りしきる雪の重みに打ち付けられた民衆の悲しみを衝いていないでしょうか。雪を観光資源、「金儲けの材料に」にという、とんでもない発想は雪国から生まれるものではない。屋根からの雪下ろしや道路の除雪、田畑の雪かき、それらががどれだけの重労働であるか、その真似事をいささかでも経験したものなら、きっと肯定するはずです。
雪は呪うべき現象であると同時に、農作業に欠かせない用水のための重要な水源ともなります。この二つの相反する要素となる「雪」を、単純に愛でることはできないし、それなしの日常を望んでも、また降る雪は貴重な水資源であるという、結論に行きつくほかないのです。(誓子の評「秀(すぐ)れた郷土愛にもえる真実を吐露した」について、ぼくは同意できそうにありませんね)

若い俳人の履歴について、ぼくは何一つ知りません。いくらかは調べてはいるのですが、はかばかしい結果を得られないままです。秋田の友人に依頼しようとも考えたりしますが、まず無理だろうという、諦めが先立つのですし、それでいい、一句二句、残されたものがあれば、それでよしとしようという気にもなるのです。これと対照的な一句を出しておきます。場所は東京青山だという。作者は中村草田男。句集「長子」所収。昭和六年の作。これはただそのままに、口にすればいいのでしょう。自分の少年時代だった東京の明治、降り出している雪を見るにつけ、明治はの御代は、何年も前に終わったんだなあ、という感慨でもあろうか。これはけっして「雪の降るこのしづけさ」ではないと思います。都会に降る雪、その雪は決して秋田には降らないのです。
いろいろな人の上に雪は降る。さまざまな場所にも降る雪があります。
しんしんと雪つむ夜の梁の音 (長谷川素逝)
降る雪の奥も雪降るその奥も (林翔)
新雪の闇より闇へ雁のこゑ (飯田龍太)
雪国の天の貧しさ雪降りだす (玉村徹太郎)
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心からしなのの雪に降られけり (一茶)
この一句は、徹太郎さんの苦境にも通じるかもしれない。都会ではなく、「しなのの雪」にこそ、一茶は心から感じ入ったのであり、それはまるで信濃の臭いまでも降らせているようだ、と。比較は無意味ですが、秋田の青年と信州の老人に、雪を間に通い合う心境というものがあるように、ぼくは感じるのです。
何処で降るか、、誰に降るか。どんな時に降るか。それぞれに、降る雪に変わりは、大いにあるのですね。
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