〔本日の詩、いくつか〕
傘のない子は はるさめついて 蕗のはかむってはしってこい
木綿糸(もめど)で ぬうたゴムぐつ けうもはいてきた くつずれ くつまめ すあしがいたいなあ
子守して行(え)ぐと がっこ厭(や)んだ やんだ 小便たれられ はらまで ぬらされ みんなからからかわれ
あすは とほく こもりにやられるといふ おまえ おほきいゴムぐつ あめなかをゆく からかさかたむけ さようなら さようなら さようなら
すあしで つめたくないかときくと にっこりして あたらしい足袋はかず ふところにしまってるの これとみせられた
けふも ひるめしに味噌つめてきた マサヲの眼(まなこ)となりの塩引(しおびき)じろじろ にらめながら はしうごかしている (『遠藤友介歌集』)
はるかに遠く、「山びこ」はこだました?
遠藤友介(1907-1955)という教育者がおられました。今ではほとんど忘れ去られてしまった人です。山形県は山元村国民学校の訓導(旧制小学校の正規の教員の称。学校教育法により現在は教諭)(広辞苑)で、敗戦直前には村の「移民推進員」を勤めていました。食糧難と貧困に勝てず、村はこぞって海外移民を模索していたのです。その移民募集係を、教員が担わされていた時代でした。
遠藤さんは敗戦直後まで同国民学校時代最後の校長を務めていました。その後、山形県教職員組合の委員長を務められて、1949(昭和25)年に亡くなられました。49歳でした。遠藤さんは歌人としても、上に紹介したようなリアルな色彩の強い歌を作られ、経済学者だった大熊信行さんが主宰していた「まるめら」に作品を寄せていたのです。それは戦前のことで、戦争が始まるといっさい歌は作らなくなったそうです。ぼくは、遠藤さんについて調べていました。なかなか資料も見つからず、いい加減に諦めていたのですが、紹介した「歌」に詠まれている子どもたちへの限りない愛おしさ、優しいまなざしに心を奪われ、いまもなお憧憬に近い感情をいだいているのです。
ぼくの手元に一冊の詩集があります。『遠藤友介歌集』(遠藤友介歌集刊行会編、昭和三十二年刊)編集委員には多くの高名な方の名があります。大熊信行、結城哀草果、真壁仁、須藤克三、その他。県内はいうまでもなく、県外でも仕事を通して知られた方々でした。この人々にぼくはたくさんのことを教えられてきました。
「遠藤友介はすぐれた教師であった。最後は、新設山形市立第六中学校の初代校長として、創業の困難なしごとに心身をかたむけ、三年間で、みごとに新しい校風をきずきあげたのであったが、二年前の三月なかば、卒業式で生徒にはげましのことばをのべながら仆れてしまった。そして学校の宿直室にはこばれたまま入院もできない重態で、ついに恢復をみることもなく死んだのである。寝食を忘れるほど学校創設に奔走した疲れが大きな原因のひとつと考えられ、その最後を思うと、まことにいたましい殉職であった」「かれの歌のなかでは、清らかな恋愛と、貧しい山村の子供のくらしとが、二つの大きなテーマとなっている。遠藤友介はある時期に、教育と文学とを、みごとに統一されたエネルギーとして生活の中に持つことが出来たのであった」(同書、「まえがき」真壁仁)
こんな時代に、戦前戦後期の一教師の仕事に思いを寄せようとするのは、流行らないどころか、常軌を逸していると思われるかもしれません。でも常軌を逸しているといわれるようなことをしなければ、この出鱈目な学校教育時代を討つことはできないのではないか。ぼくにはそんな思いが滾っているのです。どこにあっても、戦火の中でも日常生活は止められない。「おはよう」「おやすみ」という当たりまえの生活があるからこそ、人間はそこに、自分の根を張ることができるのです。根を張るための「地盤」、それが教育の土壌です。遠藤さんに代表される生活派の教師は、そこに自らの仕事の核心部を見出していたし、そこに向かって意識を集中させていたというのです。(この項、続く)
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