

●富岡鉄斎[生]天保7(1836).12.19. 京都 [没]1924.12.31. 京都 江戸時代末期~大正の代表的南画家。京都三条の法衣商,十一屋伝兵衛の次男。通称は猷輔。名は道節,のち百錬。字は君 筠。幼少から国学,漢籍,陽明学,画事を習い,安政2 (1855) 年頃歌人太田垣蓮月尼の薫陶を受けた。万延1 (60) 年鉄斎の号を用い,翌年長崎へ行って海外の情勢を探る。文久2 (62) 年帰京して聖護院村に私塾を開き,志士の藤本鉄石,平野国臣らと交わって,『孫呉約説』ほかを出版。明治維新後は,神社の復興を念願して石上 (いそのかみ) 神社少宮司,大鳥神社大宮司として献身的に尽力し,鉄史,鉄崖と号した。 1881年以降は京都に定住して学者,画家としての生活を続け,おりにふれ日本各地を旅行,『旧蝦夷風俗図』 (96,東京国立博物館) などを描く。その鮮麗な色彩と個性的で奔放な筆線は,晩年になるほど円熟した。なお絵をもって説法することを考えて画賛に凝り,古今東西の書物から引用して,独特の書体で書いた。帝室技芸員,帝国美術院会員などを歴任。主要作品『山荘風雨図』 (1912頃) ,『阿倍仲麿明州望月図』 (14,重文) ,『蘇子会友図』 (21) ,『蓬莱仙境図』 (24,清荒神清澄寺) ,画集『貽咲 (いしょう)墨戯』 (23) ,『水墨清趣図』 (24) 。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
若い時から数十年、ぼくは机の天板に新聞に出ていた鉄斎の文人画(写真)を二十枚ほど張り付けて、飽きもせずに眺めていた時期がありました。不思議な画であり、それが「文人画」だと知ったのは、その後の事でした。もうひとつ鉄斎にかかわって忘れられないのは、京都の自宅のすぐそばにある「車折(くるまざき)神社」の宮司を、明治年間に彼がしていたことがあるということでした。まるで自分の庭か何かのようにしょっちゅう神社の境内に遊んだ記憶とともに、鉄斎の筆になる神社額をよく覚えています。この神社は芸能の神が祀られているということでたくさんの芸能人が寄進をしており、その名前がお札になって張り巡らされているので有名でもありました。



● 車折神社(読み)(くるまざきじんじゃ)京都市右京区嵯峨(さが)朝日町に鎮座。平安後期の儒者、清原頼業(きよはらのよりなり)を祀(まつ)る。後嵯峨(ごさが)天皇が大堰川(おおいがわ)行幸のとき、当神社の社前で車が急に動かなくなったことから「車前(くるまさき)(折(さき))大明神」の神号を得たと伝えられる。旧府社。同社の三船祭(みふねまつり)は、毎年5月第3日曜日に、嵐山(あらしやま)渡月橋(とげつきょう)上流で斎行され、平安時代の舟遊びを再現する。明治時代には画家富岡鉄斎(とみおかてっさい)が祠官(しかん)となり、所願成就の信仰を広めた。その作品類は車軒文庫として収蔵されている。[二宮正彦](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

大学に入って何年もたってから、これは直接聞いたのか、姉たちから聞かされたのか忘れましたが、おふくろはぼくの大学入学試験に際して車折神社で「お百度参り」をしたということでした。それを聞いて、一驚したことを今になっても忘れられない。ぼくはいい加減な気持ちで受験したと思っていたし、合格してもしなくても構うもんかというぞんざいな心がけだったから、おふくろの「お参り」噺は、不真面目なぼくの心根を少しは打ったと思っている。今となれば、おふくろの想い出とともに神社が懐かしい。(兄貴の息子、ぼくにとっては甥っ子、彼がこの神社の傍に住んでいます。彼は京都の小さな美術大学の画の教師をしているそうです。その大学(「新型京都芸大」とか)については、どこかで触れています)
「鉄斎は幼少期から国学や漢学を学び、歌人・大田垣蓮月のもとで学僕として過ごした。幕末期には、勤王志士たちと交流し、国事に奔走。明治維新の後は宮司としての職を経て、晩年は画業に専念する。学者としての姿勢を貫きながら多彩な作品を手がけ、文人画(学問を修めた知識人が余技的に描く絵)の重鎮となった」(「美術手帳」https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/19381)

● 文人画=職業画家でない文人 (知識人) の制作する絵画。文人画を規定し,職業画家に優越することを主張したのは中国,明末の董其昌 (とうきしょう) で,彼は絵画技巧よりその内容の豊かさと高踏を重んじ,気韻に富む作品は「万巻の書を読み,千里の道を行く」文人でなければできないことを強調。同時に唐の王維に始り北宋の董源,米 芾 (べいふつ) ,元末四大家,明の沈周 (しんしゅう) ,文徴明と連なる文人画の系譜を設定した。董其昌のいう文人画の系譜と南宗画の系譜はほぼ一致するため,論理的には矛盾する南宗画 (山水画様式による分類) と文人画 (画家の社会的身分による区別) を同一視し,これに対する北宗画すなわち職業画家の絵および浙派 (せっぱ) を痛撃し,北宗画,浙派衰退の原因をつくった。日本では主として明末蘇州派の文人画遺品が舶載され,同時に画譜も輸入されて池大雅,与謝蕪村らの南画家を生み,江戸時代中期以降の南画隆盛の要因となった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)


蕪村や大雅の作品をそれなりに見てきました。職業画家と比べて、文人画はああだこうだというつもりはありませんが、なんだか作品にゆとりというか、遊びというか、そんなものがあふれているようにもぼくには感じられてきます。だからどうだと、何かを断定はしませんが、見る方もそれとはなしに、ゆったりと好きなように見ればいいのだと思われてくるところが、ぼくの性に合っているのかもしれません。鉄斎は真贋争いが絶えないようで、それほどに彼の作品を所有したいという愛好家が沢山いるという証明にはなるでしょう。今となれば、たった一冊の画集があれば、ぼくにはなにも言うことはないのであります。(左は艤槎図(ぎさず)大正13年、鉄斎89歳。 筏の右は東洋学者・内藤湖南。左は息子。湖南洋行の折の餞として描く)(内藤湖南についても、どこかで書いてみたいですね)
文人画家というのではないにしても、ぼくは愛好家(ジレッタント・dilettante)で生涯を過ごしたいと念願してきました。もちろん働くことを厭っているのではないし、また遊んで暮らせるゆとりもまったくありませんでしたから、なにか無理をしない程度に生活の糧を稼いで、糊口をしのぐ。本領は「愛好家」、そんな生き方が出来たらいいなあと、若いころから求めていたような気がします。(「芸術や学問を趣味として愛好する人。好事家 (こうずか)」(デジタル大辞泉)もっと乱暴な言い方をすれば、絵でも音楽でも好きな時に好きなだけ見たり聞いたりする。そんな趣味を金儲けの手段なんかにできるかという流儀でした。「下手の横好き」は結構な生き方であり、「玄人跣(くろうとはだし)」になることはあっても(そんなことはぼくには望みのできないことでしたが)、なんであれ、「玄人」にはまずならないで生きていくという人生観を持っていたといえばどうでしょうか。おおむね、そんな中途半端な生活を重ねてきたようにも思うのです。

ぼくの欠点は、あらゆることを「我流」で通そうとしてしまったという、その一点にあります。なぜか。玄人の技芸が、けた違いに俊秀に見えたからです。逆立ちしても歯が立たないという経験を一、二度した結果の成り行きでした。それは「絵」においてまず現れました。親父は若いころから絵を描いていたのですが、あるとき、ぼくが学校に提出する絵を描いていた時に、たった一筆で「このように描くのや」と一筆動かしたとたんに、ぼくの画は見違えるように精彩を帯びたと、ぼくは思った。たぶん、小学校の高学年の頃でした。このことは今でも忘れられない。貴重な経験であったし、その後の「我流」への道を開いたという意味では、はたして、よかったか悪かったか、きっとぼくには不幸な出来事だったのでしょう。もっと言えば、そのような技法を「倣う・習う」という魂胆がぼくには著しく欠けていたのでした。

だから、文人画とか南画を好んで鑑賞してきたというのではありませんが、職業画家には見られない、恬淡としたさわやかさがどこかに感じられたのは確かです。そんな区別をつけること自体に意味があるのではないのですが、ぼくが好んだのは「さわやかさ」「恬淡寡欲」にかたむくものだったが、それがおしなべて「文人画」「南画」だったというだけのようです。それはまた、雪舟などの禅僧染みた生き方を押し通した人たちの生き方にも通じているように思えてきます。こんなのは、まあ、素人の雑談ですが。(右は大雅「寒梅図」)
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