
[第1回雪月花展出品作]玉堂79歳の時の作品。雪かきに精をだす親子の姿と水車小屋を中心として、新雪が積もり、もやが立ちこめる静かな山村の朝を温情豊かにとらえている。戦時中、奥多摩の御岳に疎開してからは身近な自然の四季の情景を写しとり、中でも「雪」は彼の主要画題の一つであった。小さな画面ながら、「点景人物」「水車」「雪」と玉堂芸術の要素を多分に集約した最晩年の優品である。

川合玉堂(Kawai Gyokudo)(明治6(1873)-昭和32(1957)) 愛知に生まれる。14歳で京都に出て、望月玉泉、幸野楳嶺のもとで円山四条派を学ぶ。その後、第4回内国勧業博覧会で鑑賞した橋本雅邦の《龍虎図》に感動し、以後雅邦に師事して狩野派を学ぶ。日本美術院創設に参加。第1回文展から第12回展まで審査員を務め、以後、官展を舞台に作品を発表する。大正4(1915)年に東京美術学校教授に就任。昭和15(1940)年、文化勲章を受章。(https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=6549)
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かなりの数の絵画をぼくは見たように思います。親父が若いころに絵の勉強をしていた関係で画集が家にたくさんあったし、また京都時代には「玉石混淆」というほかないような鑑賞の仕方をしていました。手当たり次第に街中の画廊や絵画展に出かけた。高名な画家の子息に友人がいたりもしました。河合玉堂や富岡鉄斎なども熱心に眺めたように思い出しています。(これは余談ですが、玉堂の履歴にある「幸野楳嶺」の直系に当たる人が高校の「美術と書道」の教師だったし、彼自身もかなりな日本画家でった。その教師に関して思い出したことがありますが、それは玉堂とは関係がないので止めておきます。

上京して大学に通い出してからは、通学路線の日本橋や茅場町には美術館や画廊が沢山あったので、いつでも出入りしていました。特に山種美術館やブリジストン美術館は何かの折には必ず出かけた。茅場町のものは今はもうなくなったようですが、山種ではたくさんの日本画を見た。一日中、そこにいたこともあります。また、その近くには丸善もあり、和洋を問わずに、画集や美術書に魅かれていました。(左は広尾の山種美術館)
日本画についても、ぼくの鑑賞眼はまるでお話になりません。俳句についてと同様に、ひたすら対面するだけ。じっと時間をかけて見入るのがぼくの鑑賞法でした。暇に飽かせて、日本の大和絵や西洋絵画についても調べるときがありましたが、いつでも横山大観や玉堂、鉄斎などといった、ごく少数の画家に限られて行きました。現在の東京芸大の「美校」草創の頃の記録を何かと漁り、岡倉天心の苦労をしみじみと感じたりしたものでした。これは「音校」についても同様でした。この島における西洋の音楽や美術の取入れは、島の文化を変えてしまうほどの緊張を強いるものだったのです。

「王政復古」と「文明開化」は島のいたるところで衝突を繰り返していました。その結果、西洋でもない和洋でもない、実に奇妙な文明・文化が生みだされたのです。下駄に背広、洋服に刀、その他数え切れない折衷物が生み出され、今に至っているのです。生活の便利を求めるためにはいろいろと利点もあったのでしょうが、音楽や絵画の「独自性発揮」は著しく困難を極めていくのです。詳細は省きますが、太古や三線で、オペラを演じることもできず、大和絵で、チューリップも紫陽花も描くことは容易ではなかったのです。日本語でイタリアオペラを演じるという滑稽、泣けてきますね。(右は大観)

そんなこと(折衷化)を、ぼくはしらずしらずに日本画と呼ばれるようになったもの(作品)のなかに見出していたようです。それは洋画に関しても同じことでした。一例をを挙げれば、横山操さんです。(このことについてはいずれ触れてみたいですね。(左は横山操)
余談です。ビートルズがこの地において流行り出したころ、学校の教師が音楽の時間にビートルズの曲をピアノで弾いて処分されたことがありました。また「君が代」をジャズ化して処分された教師もいました。明治期には「裸体画」の展覧は禁じられ、タオルが掛けられたこともあったのです。

そんなこんなの曲折の末に、今に残る作品に、ぼくは折に触れて眼を奪われてきました。なにも芸術の分野に限りませんが、日本的とか、日本らしさを発見することは、いまでもなかなか困難であるということを言いたかったのです。純粋に混じり物がない状態は、世界のどこを探しても見出すことは困難な時代になりました。だから、余所のものが混じってしまったからいけないというのではなく、日本的というものを、かりに「伝統」という語でしめすなら、それはいつでも混淆か混在か知りませんけれども、何かしらの外部の影響を受けざるを得ないものでしょう。
島の文化、それは折衷文化であり、足して二で割る文化であるといっても外れてはいないのです。フォークでご飯。そして、これはなにも、この島に限られはしないのです。おそらく、元の元は「一つ」から始まったに違いないんですから。
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