飯田蛇笏句集「雪峡」から、春の句をいくつか。

立春の雨やむ群ら嶺雲を座に
凍てゆるぶ山畑の土うごくかも
雨あしのさだかに萌ゆるよもぎかな
もろもろの霊に有情のはなぐもり
春めきて眼に直なるは麦の畝
寒かへる風吹く天とおぼえたり
寝食のほかはもろとも春しぐれ
落ちかかる月をめぐりて帰る雁
風冴えて宙にまぎるる白梅花

紅梅になほななめなる日の光り
「書名を「雪峡」とした。四時白雲が去来するわが生活環境は、文字通りの山峡なのであるが、この山峡が白皚々たる雪にうずもれたときは、いまのわたくしのこころに一段とぴったりするものがあるところから、然う名づけたのである」と著者は言う。
なおこの時期、すなわち昭和二十ニ年八月には、長男總一郎の戦死公報がありました。
戦死報秋の日くれてきたりけり
さらに、昭和二十三年二月には三男麗三の戦病死の報が来る。
二月十三日、三男麗三亦外蒙アモグロンに於戦病死せる公報到る
春雪に子の死あひつぐ朝の燭
昭和十六年六月には、次男の数馬が医師を目指すも、病にて二十八歳の生を閉じている。三人とも二十歳代の死であり、この逆縁を蛇笏はいかにして受け入れ、越えようとしたか、それをぼくは句作の中に見る思いがするのです。

「俳壇の一部に愉しい俳句を主張する向きがあることを訊いてゐる。或る俳人は私の近頃の傾向を見て、愉しいどころかひどく愉しからざる方向をとってゐるといふ風なことを言つてゐた。私としてはそれほど強く意識してさういふ作品傾向に出てゐるわけではないけれども、併し他からさういふ風に言はれてみるとなるほど私の作品傾向は尠くとも愉しくはないのが本当であらうと思ふ。なぜかならば私自身の日常がけつして愉しくないからである。寧ろ憂愁といふ文字が適格であらうやうに思はれる日日の生活だからである。韻文たると散文たるとをとはず文学に心を打ち込むものの総てが誰でも晩年ともなればさうなるのではないか、とさへ私はおもつてゐるのである。さうした憂愁を心にかき抱いてゐて、心を通して生れる作品がなんで愉しげな貌をしている筈もないし、内容的に愉しさが一杯であるべき筈はないのである」(現代俳句文学全集『飯田蛇笏集』〈あとがき〉角川書店刊)

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句集『雪峡』は蛇笏の第七句集でした。六十二歳から六十五歳までの作品をあつめた。批評する能力に欠けているぼくとしては、ひたすら「味読」するのみです。これを眺めていると、なんだか「敗戦後」の混沌とした「阿鼻叫喚」がいまにつづいているような錯覚に陥ってしまうのです。いつでもこうだったのかもしれませんね。三人の息子を二十歳代で亡くしてしまったという父親心境を、ぼくたちはどのように受け止めたらいいのでしょうか。要らぬ忖度はしない方がいいというばかりです。ひたすら、いくつかの句を前にして、その趣や心映えを読み取ろうとするだけではないでしょうか。若いころから、望は蛇笏の句を詠んできましたが、その度に心は張り詰めるのです。(参照は飯田龍太監修『飯田蛇笏集成 第三巻 角川書店刊)

●飯田蛇笏=俳人。本名武治(たけはる)。別号山廬(さんろ)。山梨県東八代郡境川村(現、笛吹市)生まれ。1905年(明治38)早稲田大学英文科に入学。早稲田吟社に参加し、『ホトトギス』や『国民新聞』俳壇に投句した。在学中に若山牧水との交友を保ち、後年『創作』に作品を寄せた。1909年一切の学業を捨て家郷に帰り、田園生活に入る。1912年(大正1)高浜虚子が俳壇に復帰するや『ホトトギス』雑詠欄に出句し、「芋の露連山影を正しうす」等の句により巻頭を得る。1917年『キラヽ』を改名した俳句雑誌『雲母(うんも)』を主宰し、没年まで選句した。『山廬集』(1932年、雲母社)、『白嶽(はくがく)』(1943年、起山房)等の句集を通じて格調高く雄勁(ゆうけい)重厚な句風を展開した。随筆集や評論・評訳の著書も多い。第二次世界大戦で長男と三男を失い、次男も病死という逆縁の悲しみを背負いつつ俳文学の精神を貫き、その遺志は四男の龍太(りゅうた)によって継承された。[瓜生鐵二]『角川源義・福田甲子雄著『新訂人と作品 飯田蛇笏』(1980・桜楓社)』▽『『雲母』昭和38年3・4月合併号(蛇笏追悼号)』(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

誰彼もあらず一天の秋(七十七歳、最晩年の句。『椿花集』所収)
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