モーリス君、もっと鳴いていいんです

XAVIER LEOTY via Getty Imagesニワトリのモーリス君と、飼い主のコリンヌ・フソーさん

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【滴一滴】昨年世を去った雄鶏(おんどり)・モーリス君も喜んでいることだろう。フランスで音やにおいなど田舎特有の「知覚的な文化遺産」を守る法律が成立したと海外メディアが報じていた▼モーリスは風光明媚(めいび)な大西洋の島にすむ普通の鶏だった。ところが都会の騒がしさを逃れようと飼い主宅の隣に別荘を購入した夫婦から「早朝の鳴き声で眠れない」と提訴され、一躍有名に▼雄鶏には鳴く権利がある―。裁判所は訴えを退け、飼い主は「農村には農村の暮らしに根付いたあらゆる音がある」と伝統を守る法整備を求めた。1年半前のことである。都市と地方の分断の象徴などと言われ、世界的な耳目を集めた▼その後も第2、第3のモーリスは生まれている。欧州では放牧牛の首に付けるカウベルや教会の鐘の音。日本では除夜の鐘、風鈴や花火の打ち上げ音、子どもの声などを嫌う人が増えている▼先日も知人が嘆いていた。「たこ揚げをしていた近所の子たちが、通り掛かりの人に『キャーキャー騒ぐな』と叱られた」。ちゃんとマスクもしていたというのに何とも世知辛い▼政府は今、少子高齢化やコロナ禍の影響で地域の祭りなどの存続が危機的状況にあるとして、無形文化財・無形民俗文化財を守る登録制度の新設を検討している。ついでに保護対象に加えてはどうか。子どもの遊びや季節行事も。(山陽新聞デジタル・2021年02月01日)

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 きっと人間は、自分こそが地球の主人公だと思い込んでいるし、都鄙を問わず、地域の住民は自分が中心にいるのだと思い違いをしている。いつとは知れずの遠い昔に土地を開いて生活するようになった人々を「先住民」というなら、いかなる土地や地域にも「先住民」はいる。そこに遅れてやってきた人間たちは、前もって土地に住んでいる住民よりは少しばかり「便利」な道具を持っていたがために、自分たちの生活スタイルを基準に、進んでいる・遅れているなどと言い出した。ふざけた話ですが、いずこも同じ事情を抱えているのです。

 アメリカはコロンブスが「発見した」と歴史は教えるが、莫迦を言っちゃいけないよと言わなければならない。「先住民」という存在をまるで人間以下のように扱い、コロンブス一統は、いつかしら不法占拠したくせに主人顔をするようになったのです。さらにメイフラワー号の乗客の縁者たちは、先住民を押しのけて、自分が土地の支配者だと勘違いを始めにしてしまった。いまにつづく、民族差別であり、人権侵害です。遅れてきたので少しは遠慮すればいいものを、いかにも主人でございますという面構えで、「開拓」という名目で、好き放題の出鱈目をやって来たのがアメリカに限らない、各地の「歴史」「支配・侵略の歴史」(遅れてやってきた人間が作為したもの)なんですよ。

  この島でも同様の事態は生じています。「日本書紀」などと言いますが、作り話の山です。国造りという「神話」(お伽噺)をぼくたちは教えられてきたのかどうか。いずれ、歴史にはいくつもの視点がありますから、誰かの都合で歴史を書くというのは、土台無理な話です。モーリス君の話題から逸れていきますが、要するに、地球はだれのものでもないというだけの話。環境というのは人間にだけ許された生存範囲ではありません。卑近な例ですが、ぼくはこんな山の中に引っ越してい来たのですが、猪も狸も、その他さまざまな生き物が先住民としているのを承知していました。烏は泣くし猫や犬も少なくないのですが、それもこれも、仲間というか、近所の住民として承知していきました。

  確かに、時に烏の鳴き声はうるさいし、牧場の牛の臭いは強烈に臭う時もあります。しかし、人間どもの車の騒音に比べれば、可愛いもの。それに車からいつでもごみを放棄するという罰当たりを「先住民」は決してしない。もうかなり前の話になりますが、鎌倉に土地を求めてやってきた新住民に対して。それよりすこしばかり前に越してきた「先住民」が訴訟を起こしたとか何とかいう話がありました。こんな狭い危険な土地を開発して住宅を建てるのは許せないと、裁判に訴えたっという。呆れたね。おのれだって、崖ップチに家を立てている癖して、とバカバカしくなりました。

 どこでも「都会」にしたいという、度しがたい「便利」派が横行しています。ぼくは敢えて「不便」な土地を探してやってきました。こまかいことをいえばいろいろと文句もありそうですが、生活するのに不平や不満はどこにでも転がっています。だから、環境そのものを受け入れることから始めます。どこかで触れましたが「住めば都」という発想自体が間違いなんだと、ぼくは考えている。どんな不便な土地であっても、電気もガスもなく交通の便もいたって悪いところでも、住んでみればいいところだとして、「住めば都」というのらしい。冗談じゃないよ。電気もガスもテレビも電話も、生活の便利さを支えてくれるインフラがまったくないのに、どうして「都」と言えるのか。それは田舎でしょ、だったら、都ではなく田舎という語を使わなければ。それを「都」あえてと異ののは、都は田舎より住心地がいい、いかにも便利だしという気分が丸見えで、田舎を見下しています。

 「住めば都 の解説=どんな所でも、住み慣れるとそこが居心地よく思われてくるということ。」(デジタル大辞泉)いっていることはまちがいではないとしても、「都」という呼称が出てくるのは不愉快ですね。「住めば田舎」「住めば辺鄙」でなぜいけないんですか。鄙とは「ひな」「ひなびる」、もっとわかりやすく言えば、「田舎」です。(都は「宮処」で、「天皇」がましますところ、といういわれです。その住まいが宮家とされ、それは宮宅・三宅になり、大(宅)家=公と、…)

 「田舎」とはどんなところか。それはどんな住まい方ができるのか。「い‐なか〔ゐ‐〕【田舎】 の解説=1 都会から離れた地方。「田舎から町に出てくる」 田畑が多く、のどかな所。人家が少なく、静かでへんぴな所。「便利になったとはいっても、まだまだ田舎だ」3生まれ故郷。郷里。父母や祖父母のふるさとについてもいう。「うちの田舎は四国の港町です」 (名詞に付き、接頭語的に用いて)素朴・粗暴・やぼなどの意を表す。「田舎料理」「田舎風 (ふう) 」「田舎侍」」(デジタル大辞泉)

 初めに田舎ありき、でした。長い間、どこもかしこも田舎だった。「都会」と「田舎」の違いは何か。キーワードは「便利」。都会は便利で田舎は不便というが、台風や地震が都会を襲えば、立場は一気に逆転。田舎は便利で都会は不便。田舎は「不便」が代名詞でした。第二次世界大戦中にぼくの親たちの世代は嫌になるほど「不便」を経験したはずです。タワーマンションは素晴らしい、絶景だという。集中豪雨でどうなったか。停電でどんなに不便であったか。不便は一瞬だから我慢できるというのですか。五十階まで歩いて昇るのは健康にいいですね。風呂も入れない。トイレも使えない。一瞬と雖も、不便は堪えがたいんですね、都会人には。歩いて階段を上り下りできる、それくらいのものですよ、都会で人間であることを確かめるのは。 

 この雑文には結論はありません。なんで都会がいいの、という人もいれば、田舎でなければどうにもならないよという御仁がいるのが普通です。文明とは「シビライゼーション」の邦訳です。civilizationとはcivil、つまりは「都会になる(civic)」「都市に住む、都市に住む人になる」というような意味です。田舎から都会に住む人を指して文明人と言ったんですね。文明人とは「集合人」です。集まって住む形態が都市の成り立ちです。その反対は野蛮人(バーバリアン)。ぼくは、バーバリアンです。結構ですね。

 携帯(スマホ)を持つ人を文明人というなら、持たない人を野蛮人という。ぼくは野蛮人。モーリス君も、その他大勢のモーリス君の同類も野蛮人です。野蛮人から文明人(都会人)を見れば、どのように見えて来るか。あえて言うことでもありませんが、都会人は野蛮人じゃないか。それも孤独を託つしか能がないような。自分さえよければいいという、わがままな、自己中心的な。自分の脚で歩かない・歩けない人を、どういえばいいのか。

 話題転換。(本物の「野蛮人」について)新規の感染者数が急激に減りだしています。何が起こっているんですか。わかりやすいのはPCR検査数の激減です。検査数を減らせば感染者数が減る。死者は減らないどころか、増加の一途をたどります。恐ろしいことを、国を挙げてやっているのです。暇があったら調べるといい。東京都の検査数の激減です。最大感染者数のときの十分の一以下です。それも実に巧妙に数値を重ねていますから実態把握が簡単ではありません。しかし感染者数を減らしたいために、検査数を減らしているのです。これなら五人とか十人しか感染しなかったと、いくらでもいえる。しかし、感染している人は決して減ってはいない。死者は増加の一途をたどっていますが、これだって怪しい、どこか、別の数値に紛れ込ませているという不信の念がぼくにはあります。どこまで厚顔無恥を押し通すのかね。恥知らず。(左上、O技官氏)

 こんな出鱈目を平気でやれる奴らは「野蛮人」以下ではないですか。クラスターを追わない。濃厚接触者を調べない、感染が分かったら、家庭で治してください。病院は手一杯ですから。そもそも、そんな人たちは「感染者数」に入れないと決めたのだから、と平気で言える奴らは野蛮人以下ではありせんか。ワクチン接種で、しこたま儲ける奴、濡れ手で粟の連中は野蛮人じゃないんですか。「都」には「野蛮人」ばっかし。「五輪」に狂っているのも野蛮じゃないですか。(「野蛮人」という表現を使っていますが、ホントは使いたくありません。別の表現を考えておきます。取って置きのがあるんですが、あまり使いたくないし、ぼくだって「野蛮人」なんですから)(真っ赤な嘘を垂れ流し、それを百も承知で記事にするのも「野蛮」そのもの)(人民の生命は木の葉っぱ一枚よりも軽く扱われている時代です。かかる法外な狼藉を許しておけるのですか)

 医療崩壊という。マジかよ。ベッド数の割合が人口比で世界一だというこの島社会の病院がパンクしたので、新規患者を受け入れないというのか。コロナ患者は「嫌だ」というだけでしょう。医者の風上にも置けないね。ようやく報道されかかってきましたが、ある種の病院にはベッドは五万とあっても受け入れ感染者数は微々たるもの。どういうことですか。ぼくは早い段階から言っていました。オミとかゴミとかいうおじさんが理事長をしている機構傘下病院は、どうして受け入れを拒んでいるんですか。この御仁は厚労省の先輩です。コロナ禍の戦犯は厚労省です。コネク何とかといったお姉さんがいました、それです。厚労省医系技官、その技官です、ゴミさんも。いずれ、それについても、歴史を踏まえて、駄文を綴ります)(右上写真、厚労省技官のトップ)

 白昼堂々と、とんでもない事態が進行中です。それも寄って嵩って政治行政の意図によって。救える命などと気安く言うが、それを救わないという宣言をしたのではないですか。死ななくてもいい生命と、気軽に言いますが、それを「死ぬと死なない」を選択しているのは誰なんですか。己たちは毎日検査しているし、少しでも兆候があれば即入院だ。こんなのばっかりで、人民は捨てられているのです。棄民政治。許しがたいね。(以下に、鶴彬さんの怨み骨髄の三句)

 正直に働く蟻を食ふけもの  生きてゐるな解雇通知の束がくる  巣に籠もる蟻にたくわえ尽きてくる

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。