やがて死ぬけしきは見えず蝉の声

 【筆洗】伝説的な誤植の一つだろう。禅の研究で有名だった鈴木大拙は、「褌(ふんどし)の研究家」と書かれたことがあるという。長谷川鉱平著『本と校正』に教わった。笑えて、文章を書くことに携わる身にはやがてちょっと背筋が寒くなる話だ。印象ががらりと変わる一文字違いは恐ろしい▼米国議会でその昔、課税しない「果樹」を意味する「fruit−plants」の「−」を「,」と事務官が書いたそうだ。「果物、野菜」をさす意味になって、非課税の対象が広がり、次の議会までに大きな損失が出たと織田正吉著『ことば遊びコレクション』にあった。一文字ならぬ一つの符号であっても損害は出る▼「LAGER(ラガー)」なのに、「LAGAR」と誤ったスペルが一部にあるサッポロビールの缶ビールが、つづりはそのままで近く発売されるという

▼一文字ながら、醸造にかかわる言葉だ。たいへんな違いのようで、間違いが見つかった際に発売がいったん中止になっていた▼「もったいない」と販売を望む声や捨てられるのを心配する声がネットで寄せられたのを受けて一転、発売することになったそうだ▼食べ物の廃棄が心配されている時代である。世の中の意識が、変化していることを誤表記のままの文字が象徴しているのだと思えば、ミスの印象もがらりと変わろうか。ちょっと温かくも感じる一文字違いかもしれない。(東京新聞・2021年1月29日)

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 鈴木大拙さんに関しては、もう一つ有名な逸話がある。大拙さんが亡くなった時、N✖Kニュースの記事を読んだアナウンサーが「禅の研究で有名な…」と読むところを「蝉の研究で」と読んだと、話題になりました。記憶がまちファイでなければ、このアナウンサーは職場を変えられたそうです。他人の書いた原稿を読むというのは、いつでも、だれにとっても簡単ではないのでしょうね。褌と言い蝉という、事程左様に「禅」は難しいということでしょう。彼は金沢の出身で同級に西田幾多郎さんがいました。二人の交友にはいろいろと教えられたところもあり、また両者の思想や哲学には、若い時から随分と時間をかけて学ぼうとしてきました。学んだところは、しかし、きわめて少なかったと考えている。

 原稿の校正の誤りにはたくさんの逸話が残されています。今は、殆んどがワープロ原稿をもとにしますから、校正の間違いはなくなりはしませんが、ドキッとさせられたり、ドキッとしたりというのはかなり減ったのではないでしょうか。ぼく自身にもいくつかありますが、それは書きません。「トルコについて」と書いたのに出来上がった新聞だったかに、「トルコにてつい」とあって、仰天したと当の作者が書いていました。今では名称が変えられましたが「トルコ」とは、なぜだか、「風俗業の風呂」を指していた時代が相当に長く続いていたのです。トルコ大使館からだったか、抗議を受けて業界が名称を変えたということだったようです。「校正畏るべし」と、しばしばいわれたことでした。

 原稿の書き損じなど、ぼくはいつでも相当にあります。これはこの雑文の中でも容易に発見できます。言い訳はしませんが、ようするに、ぼくは常に書下ろしで、点検しないままで発表してしまうからです。ネット上の記述だったら、気が付いたら、その時点で直せばいいやと、簡単に考えているところがあります。印刷(発表のための活字)にするときには、ぼくは自分でも嫌になるほど直しを入れました。いくら直しても値打ちが上がるわけでもないし、内容がよくなるものでもなかろうに、編集者に嫌がられながら、だらだらと訂正原稿を書いていたことを覚えています。校正というか現行の推敲というのは、どこまで行ってもきりが付きません。だから、どこかで決断する必要があるのです。

 文章を書くには技術があるのでしょうが、ぼくはそんな技術習得を一度も経験しませんでした。原稿書きのイロハをまったく知りもしないで、本や論文を書こうかという出鱈目をしてきたのです。原稿の話にはあれこれと話題になりそうなのがいくらでもありますが、肝心要は内容ですから、書き間違いや読み間違いについての与太話ははこの辺で。

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●鈴木大拙(1870-1966)=明治-昭和時代の仏教学者。明治3年10月18日生まれ。帝国大学にまなび,鎌倉円覚寺の今北洪川(こうせん),釈宗演(しゃく-そうえん)に師事。明治30年アメリカにわたり,「大乗起信論」の英訳,「大乗仏教概論」の英文出版をおこなう。42年帰国後学習院教授,大谷大教授。英文雑誌「イースタン-ブディスト」を創刊,アメリカの大学でおしえ,仏教や禅思想をひろく世界に紹介した。昭和24年文化勲章。昭和41年7月12日死去。95歳。加賀(石川県)出身。本名は貞太郎。著作に「禅と日本文化」など。【格言など】絶対の威力に生きて責任をもたぬものあり,名を国家と云う(昭和17年西田幾多郎への手紙)(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

●西田幾多郎(1870-1945)=明治-昭和時代前期の哲学者。明治3年5月19日生まれ。山口高,四高などの教授をへて,大正2年京都帝大教授となる。明治44年主客未分の純粋経験をキーワードにした「善の研究」を刊行。場所の論理,行為的直観,絶対矛盾的自己同一などの概念によって西田哲学といわれる独自の体系をきずく。昭和3年退官後も思索をふかめ,死を間近にして「場所的論理と宗教的世界観」を完成させた。15年文化勲章。昭和20年6月7日死去。76歳。加賀(石川県)出身。帝国大学卒。号は寸心。著作はほかに「働くものから見るものへ」「自覚に於(お)ける直観と反省」「哲学の根本問題」など。【格言など】ただ一つの思想を知るということは,思想というものを知らないというに同じい(「続思索と体験・「続思索と体験」以後」)(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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 大拙と幾多郎、この二人について書かれた書物や論文は無数にあるでしょう。ぼくも人並みにお二人の全集を持っています。持っているだけで、完読したという記憶(意識)がありません。何度も挑戦しながら「登攀」には失敗ばかりだったという意味です。今でも時々西田さんのものを読もうとするのですが、やはりだめですね。若いころの粘りがなくなりましたから、山裾に足を踏み入れただけで退散してしまいます。まず書かれていることがまったく理解を超えています。日本語だし、漢字も読めるんですが、分かりそうなんですが、さっぱり話に脈絡が付かないので、途中で投げ出してします。日本語であるのはわかるが、何を言おうとしているのかちんぷんかんぷんなんですね。こんな日本語を書いて「西田哲学」というのが成り立っている、なんとも壮観だというほかありません。似たような経験は翻訳物にあります。使用言語は日本語だけれど、内容がさっぱり理解できない。読めるとわかるは、まったく違う作業なんですね。西田さんは学問の面でも生活の面でも大変に苦労された人だったように、ぼくには見えました。晩年の辛さはいかばかりだったか。

 大拙さんにはわりと親しんだといえるかもしれませんが、彼の核心部分をつかんだとはとても言えません。しかし、そうであっても、彼は偉大な人物であったということはわかりそうです。いずれ機会を見つけて、大拙さんに触れてみたいですね。カセットテープで彼の講演を聴いたことがあります。講演は夏のさなかで、外で泣く蝉の声がうるさいくらいでした。話している大拙さんは、淡々と、ご自身のペースでゆったりと話されていました。間も十分に取られていました。少し長い沈黙がつづいたりしましたが、ぼくは眠りに誘われました。やがて大拙さんも寝入ってしまわないか、ぼくは心配になったほどでした。ああ、これが「禅」なんだ、というのではなかったでしょうが。

 (無常迅速と前書きして)  やがて死ぬけしきは見えず蝉の声(芭蕉)

 生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人

 (まことに「無常迅速」と芭蕉が言うが如くですね。連れ合いの姉上が先日亡くなりました。八十五歳でした。すでに五十年来の「糖尿病」者で、後半生はほとんど医者とは縁も切れず、年中行事のように「入退院」を繰り返していました。いつもの(ルーティン)「人工透析」中に脳梗塞(脳卒中)だったかに襲われたとか。いつでも死は突然来ます。「卒中」の「卒」にはいろいろな意味がつけられていますが、ここでは「にわかに」「突然」、あるいは「終わる(卒業)」などと解されます。「中」は当たる、「命中」「的中」です。突然、にわかに亡くなる、卒然として。どんな時でも、死に対してぼくはこの語を使いたい気がしています。珍しく、数年ぶりの東京で「お別れ」をしてきます。大往生とはなかなか言えませんね。やはり「無常迅速」「時不待人」です。いよいよ、心に、しんみりと響きます)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。