

【新生面】きょうは左遷の日。何やら物騒な記念日だけど、菅原道真が大宰府に左遷された日と聞けば納得がいく。901年というから千年以上も前の話。サラリーマンに転勤は付き物で、悲哀も世の常ということか▼ここ数年、友人からの年賀状に「定年」と書き添えてあるのが交じるようになった。その度に、お互いそんな年代になったのだと感じ入る次第。勤め人の宿命から解放される記念日に違いないが、一抹の寂しさを共有する瞬間でもある▼「5万回斬られた男」の異名を取る俳優福本清三さんの追悼記事が14日付朝刊に載った。15歳で東映京都撮影所に入り、77歳で亡くなる直前まで斬られ役一筋。名は知らずとも顔に見覚えのある人は多いはず。60歳の定年を前に出した自伝でこう語る。「たった一人でいいから『あいつ斬られ方うまいやないか』と思ってくれたら、それでええ」▼本は『どこかで誰かが見ていてくれる』創美社。だが、聞き書きをしたライターは後書きで、「福本さんは誰も見てくれてはいないことを知った上で、ここまで努力してきたのではないか」と締めくくる。「代表作なし」と添えて▼しかし、実際は違った。定年後も一斬られ役を続け、71歳の時に映画『太秦[うずまさ]ライムライト』で人生初の主演。現実と重なる哀愁を帯びた大部屋俳優を演じた。集大成といえる、えび反りで倒れる場面が印象深い▼カナダの国際映画祭で最優秀男優賞を受賞。主役抜てきも男優賞も、誰かが見ていたことの証しである。定年は通過点だった。(熊本日日新聞・01月25日 )(右上・太宰府天満宮)
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なにかと気ぜわしい睦月の下旬です。いろいろなことが、一年のクギリもケジメもなく、だらだらと続いています。コロナ渦はいうまでもなく、政治家の嘘もさらに進行中です。言い訳や弁解は、先ず嘘であると、ぼくは自分の経験から熟知しています。誰もが知っている「嘘=弁解」を聞き逃すという美風、いや醜風も相変わらずです。コラム氏が指摘されるように、本日は「左遷の日」だとか。いつから始まったのか、どこのだれが決めたのか、いずれもぼくは知りませんが、菅原道真の無念・怨念を祓うのと無関係ではなさそうです。左遷はあるが右遷がないのは公平を欠くといいたいのですが、これも「歴史の嘘」に類するのでしょうか。道真は延喜元年(901)に醍醐天皇の命により、九州太宰府に流された「才能あふれた貴人」されています。二年後に(栄達を邪魔されたという)「怨み」を抱いて、その地で亡くなった。「怨み骨髄に達する」というのは、どんな状態だか、ぼくにははかり知れませんが。「左遷」は、藤原時平の虚言によるとされていますから、今を去る千百年前から権力(出世)争いは延々と続いているんですね。(「出世」よりも「出家」、「出家」よりも「家出」を、ぼくは好む)(左上・湯島天神)
学問の神様が、胸中いっぱいの「怨念」を宿して神になり、その神の代名詞である「怨念の束」を、はるか後世の「学問不知の公達(君達)」が日参して手を合わせ、大枚のお賽銭を投げ込み、縁起物の絵馬やお札と購うという、これもまた、いかにも麗しい「苦しい時の神頼み」という、万世に続く「嘘の歴」史じゃないですかね。この島の神社には「鷽替え神事」という風俗・風習もあります。(これについては、どこかで触れています)

京都にいたころ、しばしば「北野天神さん」で遊びました。家から徒歩圏内でしたから、学校帰りに出かけた。当時は天神さんの由来も故事も一切知らなかったが、境内の白梅だけはよく覚えている。嵐電の終点は北野白梅町でした。また上京してからは、本郷に住んだので、湯島天神が徒歩数分の近さでした。「湯島の白梅」という歌謡曲を幼い口廻して謳っていましたから、ぼくにはなじみの地という感覚がありました。「湯島通れば 思い出し」のは、ぼくも同じでした。あの鏡花がこんな小説を書いたというので、仰天したことを覚えています。(上・北野天満宮)

天満宮には「学問の神様」が祭られているという履歴には無頓着で、ひたすらお蔦・主税(ちから)の心意気を想像していたのでした。「(主税)月は晴れても心は暗闇だ。」…………「(お蔦)切れるの別れるのって、そんな事は芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。」(「ああっ!」というのは大学一年生だったぼくです)(昭和十七年七月、戦争の最中でしたが、東宝映画『続婦系図』(マキノ雅弘監督)の主題歌として作られた。原作は泉鏡花なんですね。戦後の五十五年にも映画化されています。山本富士子・鶴田浩二主演・右下)

(語るに落ちた話です。京都にいたころ、近所に撮影所関係の人が沢山住んでいました。学校帰りのぼくたちは、いつもその人たちに、自転車に載せられて撮影所に連れていかれ(主に大映と東映でした)、いきなりカツラをかぶらされ、着物を着せられて、撮影現場に連れられていきました。いわゆるエキストラという、その他大勢の役を与えられ、かなりの数の映画に駆り出されたことがありました。そんな関係もあって、映画館にはフリーパスで入れましたので、ぼくは大映と東映の映画ばかり見ていた。その他の映画を見る機会を失い、大きくなっても他の映画を見る機会を持たなかったのは、返す返すも残念だという想いを強く持っています。中学・高校の同級生や同窓生にも有名な映画俳優の親がいました。まったく記憶にはありませんが、どこかで福本清三さんにも出会っていたかもしれません。なにしろ、いつでも「大部屋」というところで詰めていたのですから。撮影が終わると(要するに、カットをいくつか撮り終えると)、お駄賃に飴玉かなんかをもらっていました)

作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、唄:藤原亮子・小畑 実 1(女) 湯島通れば 想い出す お蔦(つた)主税(ちから)の 心意気 知るや白梅 玉垣(たまがき)に 残る二人の 影法師 2(男) 忘れられよか 筒井筒(つついづつ) 岸の柳の 縁むすび かたい契りを 義理ゆえに 水に流すも 江戸育ち 3(男女) 青い瓦斯燈(がすとう) 境内を 出れば本郷 切通(きりどお)し あかぬ別れの 中空(なかぞら)に 鐘は墨絵の 上野山

天神さん続きですから、当然のこと、「とおりゃんせ」に触れなければいけません。「ここはどこの細道じゃ」「行きはよいよい 帰りはこわい」と。この童べ歌には、さまざまな意味づけが行われてきました。そして、いまだに明らかにされていない部分がたくさん残されているのです。それをここで、ぼくがとやかくいうのはできない相談で、もう少し調べが行きわたった段階で、私見を述べようかと考えています。それにしても、各地に、この童べ歌「発祥の地」という碑が建てられています。本家争いが起きていそうです。「やがて、この島は「石碑」(お墓)で埋まってしまうでしょう。

左遷の日、それは何でもない話のタネのようであっても、すこし立ち止まって考えようとすると、いろいろな「石」に躓くみたいに、ぼくたちはいまもなお「歴史の石臼」に挽かれるという感覚を持ちます。一人の「貴人」に生じた政争の沙汰が千年を越えて生き永らえているというのも、奇怪であり不可思議でもあります。やがて宇宙に行って住もうかというご時世に、鈴を鳴らして祈願するという「風俗」は、ぼくたちの生存には可決の栄養素をなしているのですね。(蛇足 神社にお参りするという心がけはぼくにはありません。行くなら建物や植木の見物のためです)
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