内閣総理大臣に就任し、政権を担って四か月、直面する困難に立ち向かい、この国を前に進めるために、全力で駆け抜けてまいりました。/ そうした中で、私が、一貫して追い求めてきたものは、国民の皆さんの「安心」そして「希望」です。(中抜き)

「私は、四十七歳で初めて衆議院議員に当選したとき、かねてより御指導いただいていた当時の梶山静六内閣官房長官から、二つのことを言われ、以来、それを私の信条としてきました。
一つは、今後は右肩上がりの高度経済成長時代と違って、少子高齢化と人口減少が進み、経済はデフレとなる。/ お前はそういう大変な時代に政治家になった。/ その中で国民に負担をお願いする政策も必要になる。/ その必要性を国民に説明し、理解してもらわなければならない。
もう一つは、日本は、戦後の荒廃から国民の努力と政策でここまで経済発展を遂げてきた。/ しかし、資源の乏しい日本にとって、これからがまさに正念場となる。/ 国民の食い扶持をつくっていくのがお前の仕事だ。/ これらの言葉を胸に、「国民のために働く内閣」として、全力を尽くしてまいります。
御清聴ありがとうございました」
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去る十八日に開会した国会における総理の「施政方針」演説の最初と最後の部分です。中味はない。以前、新聞購読を続けていた時にも嫌な気になっていたのは、この「施政方針」演説なるものを貴重な紙面を使って記載するという愚行でした。財政・外交を含めて、なんという無駄をするものかとほとほと呆れたことを思い出します。「購読料」を返してほしかった。今回はネットから拾った記録を見ましたが、何をか言わんや、何も言えない。官僚が書いているのですが、作文能力は皆無に等しい。それにこの総理は「朗読」ということを舐めているというか、考えたこともないのでしょう。「棒読」ですよ、つまり「棒読み」です。その昔(今でもあるが)」は「勅語の「奉読」などと言われましたが、近年は「棒読み」で、漢字が読めない、眼が悪いソーリもいるから、「太字のカナ振り」という至れり尽くせりです。それでも間違える始末、末法というのか。「心に届かない」とか、「訴えるものがない」などと、いろいろな批判やお願いみたいなものが出されていますが、この手合いにそんなものを望むこと自体が間違いです。もともと「心ない」政治家であり官僚たちの仕業ですから、あろうはずもないのが当たり前。八百屋で鮪を買う類。(⇦ ソーリ手持ちの「原稿」・大字フリガナ付き)
それを補って余りある「誠意」はどうかと聞くことが間違いです。「誠意」があれば政治家・官僚なんかになるわけもないのです。これはぼくの愚見ですから、誤解がないように。政治家は「嘘つき」だとぼくはみなしていますし、大筋では間違っていないでしょう。前の総理が弁解や弁明に事欠き、「前には嘘をついたが、今回のは本当です」とまた嘘を垂れた。この秋田愚人は、その嘘つきと何年も「刎頸の交わり」「赤い糸」で結ばれていたのです(表向きではあっても)。いくら何でもどこかで「本音(言い分)」がはいっているでしょうと、いぶかる向きもあるでしょうから、最初と最後の部分だけで、中間部分は「中抜き」したわけです。「嘘つきと我が名呼ばれん春霞」(無骨)

「国民」という語が頻発します。その理由は、アリバイ証明というか、「国民不在」を暗示(かつ明示)するばかりです。「嘘つき」が弁解や弁明するのは、指摘が図星だからです。嘘ではありませんと嘘をつく。「私が、一貫して追い求めてきたものは、国民の皆さんの「安心」そして「希望」です」というが、その「国民」とは誰のことか。テークホルダーと言われる人だけを指しているんじゃないですか。「国民の皆さん」のなかに、ぼくは断じて入りたくない、入れてほしくない。これをいけシャーシャーと言える「厚顔無恥」、恬として恥じない「剛毅」を装った虚飾、それが政治家になる・である「必須条件」です。
「…国民に負担をお願いする政策も必要になる。/ その必要性を国民に説明し、理解してもらわなければならない」と修辞・虚言を重ねていますが、その気がないことを如実に示しています。「口だけ」「言うだけ」「語るだけ」という言語軽薄主義の見本です。ゴーストライターもなかなかの技量の持ち主ですね。大学を出てまで、こんなくだらない作文を書くんですから、それで月給をとっているのです。ぼくは長年、「生活綴り方」という教育実践を調べてきました。特に秋田では「北方教育」「北方性教育」「教育北日本」などを標榜し、たかだかた狼煙を掲げて辛苦して苦難の道を子どもと一緒に歩いた教師たちがいました。現総理の出身と言われる地にも出かけて取材や調査をしたことがあります。「生活綴り方」はなによりも現実から出発し、荒野(東北の地)に「正路を開く」と宣言したものです。こんなところでそれを出すのは気が引けるし、大人げないし、場違いであることを承知していますが、あまりにも「演説」が「おそ松くん」だったので、やむを得ず紹介するのです。「これを見よ!」

「どこまでも、生活にしがみついて、自分をうちたてていこうとする意志は、現実なる諸条件のうそでない認識から明朗に発足すべきものだ。/ 皮肉と風刺の中におちこむ超越的態度を警戒しよう。 /おっかぶせて子どもを引きづる観念的な盲信を反省しよう。/ ここにのみ、ぼくたちの子どもたちとともに、彼らの生活を愛する情熱が生まれてこようというものだ。この情熱的実践行を、ぼくたちは時代の教育者として態度する》(成田忠久「実践の方向性」『北方教育』第十四号。昭和九年八月)」
成田さんは秋田市内で豆腐屋を開業し、その売り上げで「北方教育」という雑誌を出版し、仲間の教師たちの仕事を土台から支え続けた。これらの「生活綴り方」教師たちは、その後「治安維持法」で一網打尽にされ、獄中で殺されたり、拷問の果てに病死したり、「危険思想」というでっち上げで「獄中生活」を余儀なくされたりした。いま、感染症法などの法改正が言われていますが、入院や検査を拒否すれば懲役刑や罰金刑を科すと、この総理は「特攻顔」(辺見庸)で主張する。「国民の皆さん」という表現で、「人民」を愚弄軽侮しているのです。いうことを聞かないやつ、政府に反対する輩は「処罰」する、こんなグロテスクな総理大臣がこの瞬間にも棲息しているのです。

政治家として求めてきたのは「国民の皆さんの「安心」そして「希望」です」と厚顔にも言い募る。この、けた違いの「(無)神経」がなければ、この島の政治家にはなれない、なっても大成しない。それを「ガースー」は教えている。おそらく自分が「読んでいること」をまったく理解していないし、これを「読ませた」官僚も出まかせで言葉の羅列を文字に直しただけです。「(自らの犯罪性を明らかにする)ホテルの明細書や領収書はない」と言い逃れようとしているのは前の総理でしたが、この点では、こちらはもっと質が悪い。手に負えないくらいに悪質です。傍若無人というか、傲岸不遜というか。「国民の皆さん」と言いながら、人民を平気で見殺しにするのです。外出は自粛、余裕のあるものは「go toトラベル」と言い放つんですから。go toで感染者が増えた「エビデンス」はないと、しらッと嘘を吐く。マスクをしてほしいね。「暴力」は、猫なで声でいわれても「暴力」です。
最後に、優しいおじさん(あるいはおばさんか)の登場です。相変わらず、気は優しくて暢気屋さん。

【筆洗】駆け出しのころ、デスクに原稿を渡すと、このデスク、受け取るなり「悪い顔つきをしている」と言う。「はあ、そうですか」と答えるしかない▼デスクが言うのは身どもの悪相ではなく、原稿の「顔つき」のことらしい。この稼業を長く続けていれば、読まずとも原稿用紙からにじんでくる雰囲気やにおいのようなもので芳しくない内容だと判断できると断言する。事実、悪相の原稿はよく直された▼つまらぬことを思い出させたのは菅首相の施政方針演説である。おそろしいもので長く政治を見ていると報道用の演説原稿案を手にしただけであまり期待できぬ内容と勘が働く。ホラだとおっしゃるか▼手に取った時、やけに厚く感じる。こういう場合はだいたい退屈さに身をよじることになる。「結婚式のスピーチとなんとかは短い方がいい」と昔はよく言ったが、政治演説も同じ。訴えるべきポイントが弱いから、政策を並べ立て、その説明にだらだらと字数を重ねることになる。大方、役人の仕事であろう▼演説を聴けば案の定である。おまけにこの方、熱意や心情を言葉に乗せるのが苦手なようで、こちらは眠気と闘うことになる▼と思いきや最後に目のさめるジョークがあった。政治の師梶山静六さんから国民への説明と理解が大切だと教えられ、信条としていると説明不足のこの人が真顔で言う。えっ、冗談じゃないの?(東京新聞・2021年1月19日 07時39分)
約一万字(4百字用紙で25枚相当)をひたすら読み上げる。ライターはどこかの文章を切り張りしただけ。これを電波を使い全国に垂れ流すという暴挙。内容は空虚。国会は人間不在の廃墟。こんなものを黙って聞くに堪えないのが正常な神経の持ち主。ところが、あろうことか、前もって印刷されて関係者に配布される。試験問題や解答用紙が事前に受験生や親たちに配られているも同然。気の早い女性議員さんが、これをネットに出したと非難されている。これは「官報」というのか、「広報」というのか。どこかの街角にでも貼っておけば済むものを。大枚の税金の無駄遣いの実態がここにもある。国家もいらないし、内閣も要らないし、政府もいらない。いらない尽くしです。自分たちの納めた税金を自分たちで工夫して使う、そんな身近で、手の届く範囲の政治や社会を作りたいね。
一人の人間の好ましい生き方、あるいは考え方として、ぼくは以下に引用したようなものが、いつでもかすかに根付いていて、現実の政治や社会において「強引な政治力」が働こうとするとき、きっとぼくを立ち止まらせ、すッと隊列から脱け出るように促し、わが胡乱な「意識」を覚醒させ、研磨してきました。

「…それは人間の社会習慣の中に、なかばうもれている状態で、人間の歴史とともに生きてきた思想だからだ。習慣の中に無自覚の形である部分が大きく、自他にむかってはっきり言える部分は小さい。
アナキズムは、権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想だとして、まずおおまかに定義することからはじめよう。(略) …アナキズムが人間の習慣の中になかばうもれている思想として特色をもつものだとすれば、思想としてのアナキズムが静かな仮死状態でもなく激発して別のものに転化するのでもなく、生きつづけてゆくためには、それを支える隠れた部分が大切だということだ。そのかくれた部分は、個人のパースナリティーであり、集団の人間関係であり、無意識の習慣をふくめての社会の伝統である。そこから考えてゆくのでないと、人間の未来にとって重大な意味をもつようなものとしてのアナキズムをほりおこすことは、できないだろう」(鶴見俊輔「方法としてのアナキズム」
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