大人に囲まれて、歪みの形を持つこども

【正平調】「陽のあたる場所と陰の場所、その両方からこだましてくる言葉たちをお届けできたらと思います」。フリーペーパー「かげ日なた」の創刊の辞だ。A5判、10ページという小冊子ながら、その志は高い◆「雨ふる本屋」シリーズなどで知られる児童文学作家、日向(ひなた)理恵子さん(加東市)が、姫路市内の古書店主らと昨秋発刊した。好きな本や出会った人々、コロナ禍への思いをまっすぐにつづる◆今月出た第2号で日向さんは、愛犬ひなたの死に触れている。幼少期から動物に囲まれて育ち、その死を弔ってきた日向さん。中学時代には、校舎に散らばる黄金虫の死骸を拾い集める仕事に就けないかと真剣に考えたらしい◆愛犬から筆名をもらった日向さんは書く。「あなたたちのように堂々と生き、堂々と死んでいきたい」と。生と死をじっと見つめてきた言葉は、心の奥深くに染み込む◆ネット上で誰でも簡単に物が言える時代だが、日向さんはあくまで紙での発信にこだわる。木の命を宿した紙のぬくもりがページを繰る人に伝わり、記憶に刻まれると信じるからだ◆願わくは私たちのつくる新聞も読者の心に届き、そっと力づけられる存在でありたい。どんな険しい時代にも陰日なたなく、くじけそうな誰かの陰日なたとなって。(神戸新聞・2021・1・19)

 「いま・ここ」で生きる意味は 児童文学作家らが無料季刊誌

 「雨ふる本屋」シリーズなどで知られる児童文学作家の日向(ひなた)理恵子さん(36)=兵庫県加東市=が、同県姫路市内の古書店主らと共にフリーペーパー「かげ日なた」を創刊した。執筆メンバー4人、全10ページの小冊子ながら「いま・ここ」で生きる意味を問い掛ける内容。日向さんは「日の当たる場所と陰の場所、両方からこだましてくる言葉を届けたい」と話す。(平松正子)(2020/12/18 05:30神戸新聞NEXT)(フリーペーパー「かげ日なた」を創刊した日向理恵子さん(後列左)、田山修道さん(同右)ら=おひさまゆうびん舎 ⇒)

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 日向さんの本は一冊か二冊しか持っていません。あまり熱心な読者じゃなかったことをお詫びしなければならない。この「かげ日なた」のコラムを見て、懐かしいというより、申し訳ないという気になり、さっそく探し出して机の上に置いたところです。フリーペーパーを読んでみたいと入手法を探したりしています。その内容等については後日。この「かげと日なた」という言葉はいろいろな場面を想定させてくれるという点でも、ぼくのお気に入りです。多くは「陰日向なく」という「表現」として使われるのかもしれません。愛犬の「日なた」から筆名を付けた作家は「あなたたちのように堂々と生き、堂々と死んでいきたい」といわれる。それは人間においては「至難の業」ですね。それはなんと難しいことか。「花も嵐も踏み越えて」ですか。花には浮れるけど、「嵐」(五人組だっけ)は大嫌い。

 昨年の秋口に、ぼくは近所の動物病院に、家の敷地内で生まれたばかりの「子猫」を連れて行った。もう死の寸前だとぼくにもわかったが、それでも何とか助けたい、生きてほしいと、すがる思いで探し当てた病院だった。そこの医者の態度には無性に腹が立ちました。(もう手遅れだから)「うちでは何もできません(しません)」とぬかしました。ものには言いようがあるだろ、と怒りが生まれた。そのまま連れて帰り、傍に座りながら「看取った」。ぼくは犬や猫の収集家でもなければ、愛好家でもない。

 ただどういうわけだか、これまでに、総計で三十以上の猫の生死を見てきた。すべて野良猫。家の中で一緒に暮らし、それぞれとていねいに別れた。「野良猫」という言葉がありますが、それは違うと思う。人間の勝手気ままが作り出し使っている「傲慢不遜」な言葉です。要するに「捨て猫」(人間から言えば。猫から見れば、「捨てられ猫」)なんですね。まるで家庭ごみや不要な家財を棄てるが如くに、捨ておいた(おかれた)ものの「なれの果て」です。(ぼくは「ペットを飼う」という感覚が皆無です。共に暮らす、あえて言えば、そんな風ですね。なかなか大変です。長く外で生きている猫(犬)はらなおさら、つきあうのが大変。時間がかかります)

 ずいぶんと前、三十年も前の話です。ご存じだろうと思いますが、画家の奈良美智さん。ぼくは彼の作品をよく見ていました。絵を見るたびに、この人には「ひずみ」があるな、と勝手な感想を持ちつづけていた。あるとき、鶴見さんと奈良さんの対談が活字になったのを読んで、奈良さんの作品の印象が一変したんですよ。「そうだったか」「こんなことがあったんだ」と、ぼくは不思議というか奇妙な幻想染みた世界を抜きにして奈良さんの絵を見ることが出来なくなった。「対談」のさわりの部分です。(この対談を読んだすぐ後に、かみさんと美ヶ原に出かけた。高原の山頂の食堂の入り口に、犬がうろうろしていた。どうしてここにいるのかと、見守っていたら、お店の人が「捨てられたんだ」といった。都会から車できて、捨てていったんだと。一瞬、連れて帰ろうかと思いかけたが、止めた。売店の人たちが面倒を見ているんだということだったから。姥捨て山ならぬ犬棄て山、それが美ヶ原高原だった)

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鶴見 私が学生だったころの古い心理学の譬えがあってね。ゴムマリを壁にぶつけると歪むでしょう、歪んでちょっとして静止する、それが考えることだという、その歪んだボールの形と、考えるということは、同形なんだと。

 奈良さんの絵を見ていると、そういう歪んで静止した形が、私自身の中に見えてくる。「子供は大人の世界に囲まれて歪みの形をもっている」というのが、絵を貫いていると思ったね。子供が何かを考えている時、何を考えているのか言葉でいっごらんといったって、いうことはできない。考えが、あるところで歪んだ形になって、一瞬停止しているわけだ。子供は不満があっても、大人の言葉の文法を使って、別の秩序を自分で作るなんてできない。奈良さんが松本大洋に興味をもっていて。『鉄コン筋クリート』(小学館)が好きだというの、わかる気がするな。「鉄筋コンクリート」というのをわざとずらしちゃって「鉄コン」ってくるわけでしょう。そういう世界なんだよね。

 だから、奈良さんの作品には、大人に対して小さいナイフを手にもって上目遣いに見る子供という型がずっとあるんだけれども、あれに「何が不満かいってごらん」といったって仕方ないんだ。下から上目遣いに見てるという、その視線そのものに思想がある。

 奈良 動物とか子供とか、好きなんだけれど、不可解なものです、僕にとって。だからそこが気になる。でもじつは犬にはひとつ、あまり人に話したことのない思い出がある。うちは猫を飼っていたんですけれども、一回だけ犬を飼ったことがある。飼ったんだけれど、その犬が吠えるというんで、うちの親が自動車に乗せて遠くの山まで捨てに行ったんです。僕はまだ子供で、「犬も欲しい」って雑種の野良犬を拾ってきて、結局捨てに行くことになった。山の上まで行って、その犬は捨てられるとも気づかず、跳ね回ったりしていて、犬がちょっといなくなったすきに、車でそのまま帰ってきた。

 で、忘れてたんです、ほんとに。自分の中で、もうそのことはなかったことになっていた。それがいつごろからか、描いていると犬がいっぱい出てくるようになって、「犬、好きなんですか?」って聞かれて「いや」、俺、猫のほうが好きなんだよ」とかいっているうちに、そうやってずっと蓋してたものが急にパアッと途中で開いた。「こういうことはなかったんだ」と思うほどに、僕の中のどこかに、犬を捨てたことがずうっとあったんです。…ふいに思い出して、もう忘れることはないと思う。犬を飼いたいって思ったりするけど、僕は一生飼わないと思う…。(鶴見俊輔・奈良美智「ひとりで歩けるひと」『鶴見俊輔対談集 未来におきたいものは』晶文社刊所収)

〇鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ):哲学者。一九二二年生まれ。主な著書に『鶴見俊輔集』『続鶴見修助集』『鶴見俊輔対談』『期待と回想』『』みんなで考えよう』など。

〇奈良美智(なら・よしとも):画家。一九五九年生まれ。主な作品に『ともだちがほしかったいぬ』『Nara note』『Lullaby supermarket』など。

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 「かげひなた」、ぼくの大好きな言葉の一つです。理由は大したことではありません。若いころに、懸命に読んだプラトン著「国家」という浩瀚な書物の核心部と言える巻に「洞窟の比喩」というのがありました。それが、その後のぼくの、生きていく「背骨」(カルシューム分が希薄で、いつでも骨折しかかっている)となったと、自分では考えている、「影と日向」を直接に論じているのではなく、「比喩」として論じ尽くしており、それというものが、人間が社会で生きて行く、一つの避けられない落とし穴(陥穽)となっているというこ。別の言葉を使えば、「光と影」です。物体があると、そこには必ず光の当たる部分と影の部分ができる(ある)。影は物体に当たった光が写す像です。実物の作る影ですね。一種の写真のようなものとも言えます。実物を写し取った影が「写真」です。この時、ぼくたちは「写真」をみて、実それを真物とみなしていないか、それがソクラテス(プラトン)の提出した問題でした。偽物と真物。

 日向恵美子さんたちのFP「かげと日なた」について書きだしましたが、あらぬ方向に流れてしまいました。この項は、ここまでにして、できれば、続きを本日中(1月20日)に書き足したいと考えています。

● かげ‐ひなた【陰日向】 の解説 日の当たらない所と日の当たる所。 人の見ている所と見ていない所とで言動が変わること。「陰日向なく働く」 表に出たり裏にまわったりすること。「陰日向になって助ける」(デジタル大辞泉)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)