デスク日誌(1/14):白い闇

厳冬期、山形県内の国道で「ホワイトアウト」に遭遇したことがある。
積もった雪が地吹雪で舞い上がり、前方は真っ白になった。まるで「白い闇」。目を閉じて車を運転しているのと同じだ。危険なので停車していると、右側の反対車線に止まっていた車に、後続のトラックが「ドン」と追突した。
窓を開けて「大丈夫ですか」と呼び掛けると、追突された運転手は車の外に出て「こっちは大丈夫。あんたも止まっているとぶつけられるぞ」と叫ぶ。雪が積もった側道に逃げ込めるスペースはない。前に進むしかないのだ。
再びハンドルを握り、のろのろと前進。脂汗が出てきた。幸いにもカーブがなく、道路脇への逸脱は避けることができた。どれくらいたったのか。やがて周囲に建物が見え、白い闇から脱出したことを悟った。
当時を思い出すと、視界不良の中で進まざるを得ない状況は、コロナ下の、先行きの見えない今と似ている気がする。止まるわけにも、ダッシュするわけにもいかない。少しずつ、慎重に前進するしかないのだろう。やがて白い闇が晴れてくるのを信じて。(生活文化部次長 加藤健一)(河北新報・2021年01月14日 09:41)

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雪の道路を車で走る経験を、ぼくはずいぶんと繰り返しました。毎年のように群馬や宮城の山々にスキーに出かけたからです。もう四十年も前のことになりましたした。運転は車もスキーも上手じゃなかったし、どれもこれも自己流を押し通していましたから、われながら、変な性格という実感を持っていました。ぼくは他人から指図されたり、教えられたりすることが何よりも嫌だった。なんでも自己流を通してきた気がする。おふくろがよく言ってました、「あんたは言うことを聞かないというか、何でも一人でしていた子やった。手がかからなかったけど、面倒だった」というようなことを。今から半世紀前、自動車教習所に通って路上運転をしてとき、横のおっさんが「次の信号を右折」と言った。交差点に入って対向車が行き過ぎるのを待っていると、「なぜ、先に右折しないのか」と文句を言った。安全確認で待機してからと判断していたので、ぼくは怒られる理由が気に入らなかった。
なんで怒られるのか、頭にきたから、交差点の真ん中で車から降りて、家に帰った、という出来事があった。教習所の連中からは悪評が立ったが、以来半世紀、運転して無事故・有違反でした。それくらいに指図を受けるのはダメだった。雪道の運転も誰に倣ったのではなく、自学自習、経験主義です。いくつも怖い経験(谷底に落ちかあったりという)があります、暗かったから平気だったが、もし日中だったらと考えて、ぞっとしたこともあった。こんな与太話ならいくらでもあります。

新潟の浦佐のスキー場の経営者だった人が、新潟から群馬の万座までマイクロバスでやって来たことがありました。ノーマルタイヤでチェーンもつけずに。雪道は大丈夫なんですかと、彼が新潟に帰るときに聞いたら、急坂を下るときは路側帯の雪のかたまりにぶつけてスピードを落としながら行く、と平気な顔で言っていました。凄い人がいるものと、ぼくは彼を、一も二もなく尊敬することになりました。コラム氏のいう「のろのろと前進。脂汗が出てきた」というのは何度もあった。どんな「その道」でも、素人が逆立ちしてもかなわない人がいるんですね。この経験はいい薬になりました。都会で一センチ雪が降っても、事故が続発、放置車があちこちにたまります。冬の都心の風物詩ですか。大雨でも大雪でも、悪天候の際は、無理をしないこと、これが安全確保の一番の方法です。ブレーキはかけるものですが、かけてはいけない場合もあるんですね。特に、雪道走行ではまず危険ですから。
序(ついで)です。河北新報について一言。創立者は一力健治郎。明治政府から「白河以北一山百文」と軽ろんじられたのを逆手にとって、「河北新報」と命名したという。原敬は、その号を一山となした。その他、東北の人々の怨念のようなものがこの新聞をはじめとする東北人の気概に沁み込んでいるようです。今の総理(まもなく、桜花爛漫のまえには「元総理」となります)は秋田ですが、この人は、身も心も神奈川産のようです。ぼくの年下の友人が河北新報の記者でした。長年勤めたのですが、東日本大震災と福島原発事故後に、宮崎県に移住し、たぶん、今は当地の新聞社に勤務されています。
震災当時、ぼくは河北新報社の根性を見せつけられた思いがしました。詳しくは言いませんが、輪転機を求めて、新潟日報社まで出かけて、翌朝の朝刊を作ったほどでした。その後ほどなく、東日本大地震の経緯を克明に追った一冊の書物が公刊されました。ぼくはいろいろな点で、「東北」「一山百文」が大好きです。この地では戦時中に「生活綴り方教育」運動が勃興し、大いにその実践力を示したのでした。いずれは一冊の本にでもと大量の原稿を書きましたが、とうとう完成しないままで、今に至っています。なぜ東北に入れ込むのか、と聞かれなくても、ぼくはこの島社会の屋台骨であったという核心を抱きつづけてきたのです。あるいは敬意をこめて「縁の下の力持ち」であったとも。その一つの象徴が、一新聞社が示した非常時における「裂帛の気合」に強烈に感じたことでした。一力さんについても書いてみたいのですが、別の機会に譲ります。ブンヤさんがまだまだ健全な精神で、強きをくじこうと身を挺していた時代があったんですね。

「視界不良の中で進まざるを得ない状況は、コロナ下の、先行きの見えない今と似ている気がする。止まるわけにも、ダッシュするわけにもいかない。少しずつ、慎重に前進するしかないのだろう。やがて白い闇が晴れてくるのを信じて」というコラム氏の発言に、ぼくは首肯するばかりです。雪道運転の鉄則はブレーキをかけないことと、ぼくは聞かされた。先行きの見えない、視界不良の際には、アクセルももちろん危険だし、ブレーキは踏まないに限ります。要するに、手探りですね。この手探りを、今どきは流行らない手業のように、ぼくたちはあえて試みようとしなくなりました。何かに頼る、誰かに頼る。もっとも肝心な自分の力をすっかり忘れてしまった人間の危うさを、ぼくたちは毎日のニュースで知らされているのです。
仙台の住人が雪道に難儀するというのは、いろいろな時代相を映しているようです。雪は少なくなった、車社会が当たり前に浸透している時代です。だから、雪道で「白い闇」に脅威を感じるのはいかにもナイーブだと思わないでもありません。それでも、無事でよかったと、いまさらに安堵してみたりします。

この島は「白い闇」や「黒い闇」にはまり込んでいる今、ぼくたちにはそれを脱出する手立てがあるのでしょうか。「一山百文」という軽侮に対して、立ち上がる気性を失っては、東北もまた、全体が「白や黒の闇」に足掻いているともいえるのでしょう。どこまで続くぬかるみぞ、と足元を見据えながら手探りで歩くのがもっとも大切なんじゃないですか。「いざさらば雪見にころぶ所まで」と、白銀世界に遊んだのは芭蕉さんでした。
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