河豚は食いたし命は惜しし

【河北春秋】若い時は質より量が優先だ。日本料理の辻義一さんが「味をそれほど楽しまんのですわ」と語ったのを、作家の山田和さんが著書に書きとめている。「ほんまに味を楽しむとなると、やっぱり50を過ぎてからですわな」▼味覚が鋭敏な若い頃よりも料理を楽しめるらしい。年齢的にはこの人たちは申し分がない。心行くまで料理を楽しみながら、政局の話でさぞ盛り上がったろう。自民党の石破茂元幹事長らが総勢9人で、ふぐ料理店で飲み会を開いたという▼石破さんは63歳、同席した元自民党副総裁の山崎拓さんは84歳。新型コロナウイルス感染症にもっと注意深く、いや、戦々恐々としていてしかるべき年齢だ。実に勇気がある。しかも、国民生活のさまざまな面で自粛が必要な中で▼「ふぐ食う無分別、ふぐ食わぬ無分別」という慣用句がある。毒を恐れてふぐを食べないのも、むやみに食べるのも、どちらも思慮のない行為という意味。石破さんは「断るのは礼を失すると思った」と釈明しているが、無分別そのもの▼冒頭の辻さんは「味覚神経は20代前半がピークで、それからだんだん落ちていく」と語っている。首相のステーキ会食、そして、ふぐ会食。政治家が年齢を重ねると、だんだんと落ちていくのは自覚と常識なのかもしれない。(河北新報・2021・1・15)

 石破、お前もか、と言いたいのではありません。政治家になろうというほどの人間はかなりの厚かましさと極めて高い自己評価(自負心)と分厚い面の皮を兼備されています。庶民にはあれこれ言って「禁止」しても、俺たちにはそれは無関係。その証拠に、汚職をしても捕まらないし、悪政三昧、したい放題をしても落選もしないんですから、選挙民を含めて政治に関心が旺盛な人間たちの魂胆や根性はぼくには理解不能です。「断るのは礼を失すると思った」と、先輩には礼を尽くす。だが、国民には無礼を貫く。石破氏はさかんに「自らの不明を恥じる」と弁解に努めているが。この弁解というのが曲者、本当に心底間違っていたと自覚するなら、弁解・弁明(いいわけ)などは一切しない、清々しいほどの潔さがあるもの。悪あがきの格好の例として「前総理」がいる。全身これ、言い訳弁解言い逃れ、つまりウソの塊です。石破君も前総理並みということか。嘘の皮というのは、政治家の面の皮のことです。

 「フグ(河豚)」と聞くと、第一に思い出すのは、八代目坂東三津五郎さんの事故(昭和五十年一月)でした。詳細は下記の引用に譲りますが、いまだに強烈な印象を持っています。当時ぼくは、すでに東京にいましたが、八世が京都の南座で公演していた折、祇園だったかの料亭で好物のフグを食して急死したという事件がありました。救急車で搬送された病院がおふくろの家の近くだったせいもあって、事件の顛末を新聞でよく読んでいた。同時に、「食通」というものの漂わせる、どうにも止まらない冒険心というか、やせ我慢みたいなものに恐怖を覚えたのかもしれなかった。死ぬかもしれないが、それを食いたいというのは「食い意地」なんじゃないですか。「痺れるところ」がいいとか、いってさ。(政治家は、先ず河豚などには中(あた)らないと思うね。河豚よりも強い毒を持っているからさ。かえって、河豚がやられちゃうよ)

 「河豚は食いたし、命は惜しし」という俗言があります。「美味な河豚は食いたいが、毒にあたるのが恐ろしい。転じて、快楽を得たいのは山々だが、後のたたりを思うと手が出ない意。※洒落本・仕懸文庫(1791)跋「不如(しかず)美味を知り毒をしって恐慎(をそれつつしまん)には河豚(フグ)はくひたし命(イノチ)は惜(ヲシ)しとは、豈此境を悟したる、君子の言といはんや」(精選版日本国語大辞典の解説)これを地で行くのが「通」というのかもしれません。「通」になるのも、命がけですね。

 「役者はどの店に行けば、どんな美味いものがあるかということも知っていなくちゃいけない」と生前、いつも後輩に語っていた。 が、その食通ぶりが仇となり、京都の割烹でトラフグの肝を四人分も食べて、フグ中毒で急死した。享年68歳。 このフグ中毒死事件で、業務上過失致死罪に問われた京都市の割烹「政」の調理師は、一審で禁固八月、執行猶予二年。 ’79大阪高裁の控訴審では禁固四月、執行猶予二年の判決を受けた。 瓦谷末雄裁判長は減刑の理由について、毒性が強いトラフグの肝を禁止されているにも関わらず客に出した責任は重いが、一審判決は被害者の名声ゆえに厳しすぎるとし、肝は美味で被害者も好んで食べたことや、公演後の疲労による身体的不調も考えられることも考慮すべき点もあると述べている。(http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/bandou_m.html)

 ぼくも食中毒になった経験があります。小学校の頃、夏だったかに、河豚とは比べ物にならない、安価な「鯖寿司」を食べて、体中に蕁麻疹が出て往生したことでした。それ以外にも何回かありますが、「✖✖は食いたし」というものではなく、至って平凡な「中毒」でした。河豚も何度か食したことがありますが、「通」じゃない仕合わせで、これより安くて旨いものがいくらもある、という程度の食通以下の嗜みで終わっています。

 「政治家が年齢を重ねると、だんだんと落ちていくのは自覚と常識なのかもしれない」とコラム氏は書く。困りましたね。悪い冗談はよしてください。ホントは先刻ご存じなんでしょうに。「自覚と常識」というのは「世間並み」のというレベルの話ですか。それなら、端からそんなものは備わっていない、というより、そんな余計なものがあれば「政治家」としては大成できないのです。それでは「年齢とともに」落ちていく(なくなる)のは、なにか。「恥も外聞も」と言いたいけど、もちろんそんな上等なものももち合わせていない。走る速さ、筋力(金力?)、ようするに「体力」でしょ、これは彼・彼女もやっぱ、人間であるという証です。それをカバーするために必要なのが「弁明力」「ごまかし術」なのですね。これを洋服で包み隠すんですよ。

 これまでの経験で、ぼくは「政治家」と称されるどんな人間にも近づいたことはない。ごくまれでしたが、永田町住まいの政治家から声をかけてきたことがあります。(一人は総理大臣までやった、悪評の男、もう一人は官房長官とか言っていました)もちろん、ぼくは無視した。付き合っても何の得るところもないと判断したからであり、それで間違ってはいなかったと考えています。その政治家の名前を挙げれば、多くの方は「えっ、あの政治家が」というかもわかりません。でも、彼・彼女等とは類を異にするんです、住んでいる場所が違う。いい悪い(上下・優劣)という話ではありません。当方にも付き合いの自由はあるわけです。

 時には、濃厚接触したこともある、なに、小さな呑み屋で同席しただけのこと。今はどこか、都内の「区長」をしているようです。市長とやらの二、三人とも知遇を得ましたが、一瞬の交差(アクロス)で終わっています。「職業政治家」は、大小上等下等を問わず、まず信用できない質の人間だという自覚がぼくにはまだ働いています。昔、余儀なく勤めていた職場にも「立派な政治家」が沢山いた。ここはどこ、と一瞬は疑うばかりでした。本来、人間というものは政治的な生き物なんですね。

 「おめえ、河豚なんぞ勝手にさばいて、中(あた)ったらどうする」「なあに、こっちの方が中ててやるよ」といって、自分で河豚を料理し、それを肴に呑んで、死んだのが、ならず者の「らくだ」。志ん生の「らくだ」を聴かれることをお勧めします。政治家と「らくだ(駱駝)」が二重写しになります。(羽織破落戸・ハオリゴロという言い方があります。羽織を着ていない単なる「ごろ」は「ゴロツキ」で、無頼漢を指す。乱暴狼藉を働き、いささかの義務も果たそうとしない、だから「ならず者」などともいわれる。そんな政治家がこの島を乗っ取ってしまったんじゃないかという、先(光)の見えない暗澹たる気になっています。「いつでも夢を」と謳ったのは誰だったか)

++++++++++++++++++++++

投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)