医療崩壊を絶対に防ぎ、必ず事態を改善させる

 【筆洗】さだまさしさんが歌う「関白宣言」が、大ヒットしていたころ、レコード店には「亭主関白の歌をくれ」などと、曲名を勘違いしている客が来たという。「関白音頭」を求める人もいた▼「いくらなんでも音頭って」と昔、さださんがコンサート会場で語って、笑いを誘っていた。たしかに「音頭」では、別のコミカルな曲に思えておかしい。うろ覚えで使う言葉や言い間違いは、時に笑いの源でもあろう▼こちらの宣言をめぐる言い間違いはどうも笑えない。菅首相が一昨日、新型コロナウイルス感染症対策本部会合で緊急事態宣言の対象地域を言う際、「福岡」と言うべきところを「静岡」と言った▼だれにも言い間違いはある。よく間違う一人として、漢字一文字の揚げ足をとるつもりはないが、どこが新たな対象なのかは、この日の大切なポイントであった。「いくらなんでもそこを」であろう。間違いに気付いたようでもなかった。驚いた方もいるのではないだろうか。首相は本当にお疲れなのではないかと思わずにいられない▼コロナ対策については、紙を読みながらの首相の言葉が、響いてこないという声を聞く。多人数の会食へ参加してしまった問題でも発信する言葉の説得力が損なわれたようである。言葉でまたしてもの感があろう▼現在のコロナ禍の中で音頭を取るべき人の言葉の重さを考えて、やはり笑えない。(東京新聞・2021/01/15)

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 「緊急事態宣言」などではなく、「緊急事態音頭」と言い換えるべきじゃないですか。「宣言」という言葉は歴史の経緯から見れば、徒や疎かには使えない類の言葉だった。「のり‐ごと【告言・宣言・詔】おおせ。みことのり。応神紀「有司(つかさ)に令(のりごと)して」(広辞苑)主語は明らかに「畏きところ」でした。欧米に見られる「人権宣言」の類は、殆んどが「神」が宣下したのです。(宣下=(スル)天皇が宣旨(せんじ)を下すこと。また、宣旨が下ること。(コトバンク)

 「宣言」という言葉を耳にするたびに、ぼくは「宣旨」を想定するのです。たとえば「東京五輪開会宣言」(1964年10月)をしたのは、だれでした? けっして時の総理やバカ大臣ではなかった。今でも「宣言」という言葉をぼくはそのようなものとして受け取るし、むやみに「宣言」してほしくないのです。「宣戦布告」などもその類でした。「宣」とは「勅旨をのべ伝えること。また、それを書き記した文書。宣旨(せんじ)」(デジタル大辞泉)です。単なる紙切れを言うのでもなく、虚名総理が適当に述べるようなものを指してはいなかった。

 今は時代が変わったから、「宣」だの「宣言」だのも、今風に理解すればいいじゃないかという向きもあるでしょうが、どっこい、「宣言」という言葉を使う人間は、その昔の「宣言の主」になった気でいるから困るし、迷惑するんです。「宣言」を守らないやつは「罰する」という。(厚労省「感染症法改正」専門部会の原案)感染が疑わしいから「検査しろ」と言われても、言うこと聞かなければ罰金百万円だとか、感染しているからと、入院「勧告」を拒否すれば逮捕だとか、屑どもが法改正を急いでいます。そういう問題じゃないのに。「らい予防法」の顛末をまったく学んでいないですね。(「違反者」というレッテル張りの範囲を勝手に決めて、文句を言う人間は現行犯逮捕だと?お巡りさんが防護服を着てか?)今もなお「宣言」の「精神」は古びていない、古代か中世気取りという輩が政治家であるという荒唐無稽がまかり通っているのです。

*宣言・告言・詔・令(読み)のりごと=〘名〙 天皇のおおせ。みことのり。のりごち。※書紀(720)垂仁二七年八月(熱田本訓)「祠官(かんつかさ)に令(ノリコト)して兵器を卜はしむるに神の幣(まい)と為て吉し」(精選版日本国語大辞典の解説)

 だから、「緊急事態音頭」と改称したらどうですか。BGM付きで記者会見に及べば、今よりはもう少し真面目に、楽しく聞こうという気になるか。「福岡」を「静岡」と言い間違えたとか。いかにもご愛敬ですが、ぼくはもっと意地悪く受け取りたい。原稿を書いた官僚が、わざと「静岡」と書いておいた(静岡知事は生意気だから)。それを平気な顔をして読んだだけ、そのまま読んだ総理が悪いのではなく(単なる馬鹿素直だっただけ)、責めは原稿を書いた官僚にあるというのが真相(だったら面白いのにね)。こんな不真面目・不誠実に「宣言」などされてたまりますか。会見終了後に、「静岡→福岡に訂正」の文書が配布されたというから、元の原稿が(わざと)間違っていたと、ぼくは判断したいね。「下僕(げぼく)官僚」の叛乱、つまりは「下克上」の只中かもしれない、官邸では。

 序に、無駄話です。暇つぶしに、「宣」を集めると、「宣下(センゲ)宣言(センゲン)宣告(センコク)宣旨(センジ)宣誓(センセイ)宣戦(センセン)宣託(センタク)宣伝(センデン)宣撫(センブ)宣布(センプ)宣命(センミョウ)宣揚(センヨウ)」(漢字ペディア)と枚挙に遑なしです。努々(ゆめゆめ)、こんな「畏れ多い」言葉を使いたくないし、使ってほしくない、もっと言えば、耳にしたくない。殿上人が空中に彷徨っている、そんなあられもない錯覚を抱きます。

 首相会見「次の日程ある」から41分で打ち切り 本紙6回連続で指名されず

(質問を求める記者の手が上がる中、打ち切られた菅首相の記者会見。右は新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長)(註 この総理は一人では会見(宣言)ができないらしい。ひたすら原稿読みに徹して、読み切るのを願うばかりというテイタラクです。人民の生命尊重などは、まったく眼中にない。あるのはこのあとの「会食」のみ。右の御仁は行政官です、医療の専門家じゃありません。医系厚生官僚です)

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 新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからない中、菅義偉首相は13日、首相官邸で記者会見し、緊急事態宣言の対象地域を拡大した理由などを説明した。質問を希望する記者の手がまだあがっていたが、「次の日程がある」ことを理由に会見は41分で打ち切られた。/ 首相の会見は就任後6回目。本紙記者も挙手したが、指名されなかった。会見は首相が冒頭に発言し、幹事社が代表質問した後、各社の質疑応答になった。(東京新聞・2021年1月13日 21時02分)

 菅首相の一日 1月13日(水)【午前】7時41分、官邸。官邸の敷地内を散歩。11時、鈴木宗男日本維新の会参院議員。【午後】0時、森田健作千葉県知事と会食。1時52分、小泉進次郎環境相。6時17分、新型コロナウイルス感染症の政府対策本部。7時1分、記者会見。42分、藤井健志官房副長官補、吉田学新型コロナウイルス感染症対策推進室長、厚生労働省の樽見英樹事務次官、福島靖正医務技監。8時35分、東京・赤坂の衆院議員宿舎。(東京新聞・2021年1月13日 22時21分)

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 重要(だと思ってもいない)会見を切り上げて、総理は次の日程をこなした。それは「(下僕)官僚との会食」だった。国民に対する誠意が微塵もない日々を続けているのですね、総理は。ぼくは、東京新聞記者氏にひとこと言いたい。「6回も当てられなかった」というのは、確かに「6回挙手した」という証拠ですが、それを読まされる読者は「偉いね」「真面目ね」「もう少しの辛抱だ」というのかどうか。挙手しても指名されなかったのは、「御社は、東京五輪のスポンサーになっていないから」、総理の開いた「パンケーキ会食」に行かなかったからであって、はっきりした理由はあるんですよ。だから「そんなことで差別するのか」と開き直って、机上に飛び上がってでも指名を強く求めたらどうだったんですか。そうしなかったから、指名拒否はまだ続く。仮に「指名された」なら、スポンサーに加わり、会食に参加したのだとバレてしまいますが、「真実の報道」のためですから、些事にはこだわりませんね、心ある読者は。

 まあ、一日でも一時間でも早く、この内閣にも退場(総辞職、議員辞職も同時だ)を願うばかりです。その後は、「よりましな面々」を国会や民間から集め、時限を切っての「救国内閣」「災厄克服内閣」(目前の課題を丁寧に片付ける内閣こそが求められるのではないですか)をつくる事だと思う。新聞社もそれに加わることを切に願いますね。無能で悪質な内閣の感染力は見捨ててはおけないのです。前内閣から感染した連中は、さらに増殖・変異中ですぞ。

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「医療崩壊を絶対に防ぎ、必要な方に必要な医療を提供いたします」(1月4日の総理年頭会見)「1か月後には必ず事態を改善させる。そのために総理大臣としてありとあらゆる対策を講じて参ります」(1月7日の総理記者会見)

「必要な時に適切な医療を提供できない、適切な医療を受けることができない、これが“医療崩壊”だ。医療自体を受けることができない“医療壊滅”の状態にならなければ医療崩壊ではないというのは誤解で、現実はすでに医療崩壊である」(中川俊男・日本医師会会長は1月6日の定例会見)

 官僚の手になる偽物の(霊験あらたかならざる)「宣言」の乱発は何を暗示し、あるいは明示しているのでしょうか。この悪例には事欠かないのです。政権末期のみならず、社会荒廃のきわみの印でもあったのです。「私は総理大臣であります」という自覚が、たぶん彼にはないと、ぼくはみなしています。(「権力さえあれば、満足」という不逞・無能の人)(「蕎麦屋の釜」大臣=ゆう(湯)だけの人)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)