記憶が作り変えられるということ

 世の中にはさまざまな性格の人がおり、いろいろな逸話を持っている大人がいます。そんな人を直接知らない場合がほとんどですが、それでも、その人となりについていくらかは知りうる機会があります。そのもっとも典型例は、読書でしょう。本人の手になる文章ではなく、友達や知り合いの書いた文章で、ご当人のちょっとした逸話を読んでも、その記憶が長く残るという場合があります。ぼくは、若いころ、特に大学に入ってからの十数年間、三十過ぎまではそれなりにというか、自分ではよく本を読んだと思っています。もちろん、ごく普通の読書家だと称する人でも、ぼくが肝をつぶすほどの読書量を誇ったりしているのを見ると、気が遠くなるのですが。それ以前はまったく、本を読まなかった人間ですから、年に数十冊読んだだけでも、「俺は読書家だ」と自惚れていたような時代でした。若さは馬鹿さでもあった。

 何を書こうとしているのか。書き出しがなっていないから、どの方向に進んだらいいのか、不明になってしまいそうです。少々、時代の政治舞台に近づきすぎたせいで、食傷気味であるのは事実です。あくまでも観客として、元来が非政治的人間(実際政治から遠ざかっていたいという意味です)でしたから、世の中の政治がどうだこうだというのは、いっこうに気にしなかった。しかし、その政治が出鱈目だったり乱暴だったりした場合、ぼくにまで「火の粉」が飛んできます。暢気に無関心を決め込むわけにはいかなくなる時もごくまれにはある、まさに今が「ごくまれ」に当たるのでしょう。顔つきから、挙措動作、物の言い方まで気に入らぬ、ぼくが選んだわけではないが、アホ面した役者があまりにもひどすぎるので、いい加減に腹が立っていたのでした。まともに生きているのかよ、と、ヤクザな啖呵でも投げつけてもやりたくなるのです。それで気が収まらないから、腹が立つんですね。だから、この駄文でも、頓服薬か清涼剤のたしにはなるかと、ささやかなよしなしごとの感想を書こうとしたのです。

 少し前に、どこかで井伏鱒二(1898-1993)さんの短文(「三好達治」)を引いたので、もう一度井伏さんのものを読もうかと、何冊かを手許に取り出しては、見るでもなく読むでもなくページを繰っていた。そのとき、ふっと浮かんだのは、海音寺潮五郎(1901-1977)さんのことだった。その顔貌が浮かんできたのです。海音寺さんの作品もほとんど読んだという記憶があります。文字通り「断簡零墨」までというやつです。ぼくのたくさんある悪癖の一つに、誰かの本を買う・読むとなると、きっと「全集」を探します。今はそうではなくなりましたが、「全集」などは、作家が物故してからというのが相場だった時代の話です。ぼくが買った「全集」ものの作者は、すでに亡くなっていた人ばかりでした。いったいどれくらいの「全集」を買ったものか。その幾分かは、いまも埃に塗れて書庫に眠っている。(このブログとかいう「駄文集積」の材料にでもと、重い腰を上げては棚を覗いてみるのです。背表紙を見ると、買った時の景色が瞼に浮かんできます。古本であれ、新本であれ、どれも大なり小なり、ぼくの時間の一部となっているのです)

 井伏さんも海音寺さんも、まだ健在だったから、まとまったものとしては「著作集」か「作品集」の類でしたが、それを買って一気に読んだ。井伏さんは「短編」の名手であり、海音寺さんは「歴史小説」の大家として高名であった。この二人のつきあいのほどに関しては、ぼくは無知ですが、井伏さんの残された短文に、海音寺潮五郎さんの「人となり」が活写されているのを読んだ、その瞬間の驚きを今になっても忘れられないのです。(海音寺さんについては司馬遼太郎さんの文章がいくつも残されているし、二人の歴史対談とでも称する本も公刊されています。お二人についても、どこかで触れたい)

 今となれば、はるか昔の束の間の出来事のように見なされてきましが、はたしてどうか。新兵というものの、まるで野武士のような風貌を周囲に晒していた、一文士の四十歳ころの話です。

 昭和十六年の秋から一年間ほど、井伏さんと海音寺さんは陸軍の徴用同期だった。「そのころの軍隊用語で云へば戦友」ということです。その年の十一月中旬に、二人は大阪城の広場に集められ、陸軍中佐に引率されて入隊した。約百二十名ほどだった。それぞれが「目立たぬ服装で軍刀を持參せよ」と言われていた。井伏さんは釣り好きだったので、「釣師の服装をして細見の軍刀を入れた竿袋」を持って行った。「歷史小説家で日本史に詳しい海音寺潮五郎は、朱鞘の太刀を眞田紐で不斷着の背中へぶら下げてゐた」と書いている。まるで宮本武蔵だか佐々木小次郎だかのようだったとも。「海音寺自身は超然として長い刀を背負つてゐた」

 「徴員たちは兵舎に入ると宣誓式をさせられて、宣誓書に判を捺させられた。これでもう地方人ではなくて軍籍に身を置いたといふことになる」ので、それ以後は指揮官の命令のもとに入る。この指揮官がいけなかった。宣誓が終わると、壇上に出て居丈高に話した。

 「お前たちの生命は、今からこの俺が預かつた。ぐずぐず云ふものは、ぶつた斬るぞ…」

 すると徴員たちの誰かが一人、/「ぶつた斬つて見ろ」/ と大きな声で云つた。

 一同騒然となつた。(中略)「ぶつた斬つてみろ」と云つたのは海音寺潮五郎であつた。當時、軍人に向かつて、しかも自分の直屬指揮官に向かつて、そんな發言するのは容易な覺悟ではない。背中の日本刀がそれを發言させたわけでもあるまいが、常識では考へられぬ事である。/ 海音寺さんは戰地についてからもずつとそんな態度を崩さなかつた。朱鞘の太刀も相變らず背中にぶら下げてゐた。自分が納得が行かないと梃子でも動かない人に見えた」(「入隊當日のこと」『文士の風貌』所収)

 この逸話には奇妙な記憶がぼくにはある。海音寺さんが指揮官に向かって「ぶつた斬つて見ろ」と言い返したのが、実は大阪城前の兵舎などではなく、マレーへ輸送されていく船上の出来事だったと、ぼくは確かに記憶していた。「ぐずぐず云ふものは、ぶつた斬るぞ」、そして「海に投げ捨てるぞ」といったようにも記憶している。それを確かめるのが、今は面倒なので詳細は書かないが、実は船上のことは、井伏さんとは別の人が書いた文章で、海音寺さんは二度も「指揮官」に反抗したのだったかもしれない。これを書いていて、だんだんにそう思われてきた。戦地に赴いてもまったく上官の意に反する姿勢を彼は貫いたといわれる。約一年の徴用を終えて帰国。病を得て郷里(鹿児島)に戻り、療養に努める。「戦争の無意味」を参謀本部に直訴しかかるが、見かねた友人らの制止を受けて辞めたこともあるという。ともかく直言の人だった。なにしろ、彼は西郷党の「遺児」だったのである。

 海音寺さん自身がこのあたりの事情を書き残されているはずだと思うが、ぼくの記憶には何も残っていない。それほど、井伏さんの文章が強烈な海音寺像をぼくに植えつけたというほかない。いまはかなり怪しくなりましたが、昔から記憶力は心もとなかった。この場面についても、なに、お前の記憶力がいい加減なのさということでしょう。もしかして誰か別人が、別の時期の事として書いた、その文章をぼくはどこかで読んだのだという感覚も否定できないという、宙ぶらりんの気分なのです。どちらにしても、海音寺さんの「胆力」の強烈さがぼくに強く印象付けられた結果だったかもしれない。

 あいまいな記憶を見事に脚色する(作り変える)能力も、人間には備わっているのですから。「昔はよかった」というのは、この当たりの状況を示す言い草なのかもしれない。「戦争の悲惨」さへ、美しい思い出としてしまいこんでいる人がいるし、無残、「犬死」ともおぼしき戦死ですら、それを見事に作り変えて「英霊」として祭ろうというのです。そのような所為を否定はしませんが、それだけで終わっては大きな意味のはき違えになるといわなければならない。

 記憶の作り変えは、何も個人にだけ生じるのではなさそうです。国にあっても、歴史の修正、作り変え、改竄はいつでも行われようとしているのです。たった一人だけ、あるいは、一国に限定されて、歴史は存在しません。一国平和主義が非難されるように、一国史観もやはり、独りよがりの視野狭窄症にほかなりません。歴をに参加したものが共有(許容)できる「歴史」というものがありうるのかどうか。

 七十年前の、島が戦時体制に突入しようとしている一時期の、ほんの小さな一齣ですが、これを知ることで、若さだけしかもっていなかった無知な人間だったぼくは、抗(あらが)う、梃子でも動かない志というものの一端を教えられたように感じたのです。その想いは、いまもなお、そのままの驚きを伴って、ぼくを慄然とさせるのです。「慄然」などと、ここで使う言葉ではないことを承知していながら、やはり「抵抗する胆力」に恐れ戦(おのの)いたのでした。ぼくには、そんな力はない、と。

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