しまんとの里に雪ふりつむ

四万十市中村本町1丁目の一條神社。8日午前7時35分撮影・https://www.kochinews.co.jp/article/426942
四万十川右岸から赤鉄橋(四万十川橋)を望む。撮影場所は四万十市渡川1丁目。8日午前6時55分撮影・https://www.kochinews.co.jp/article/426942

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 作家の井伏鱒二さんの短文に「三好達治」がある。ぼくは、繰り返しこの短文を鑑賞してきた。列島の南北にさかんに雪が降り続けている情景を、いろいろな感情を交えて眺めているうちに、この文章が記憶の底から甦ってきました。

「三好君は見事な詩人であつた。かういふ詩人の冠に私はなるべく手を触れたくない。ここでは責をふさぐために故人の詩を一つ二つ寫してみたい。初期の詩集のなかに「雪」といふ有名な二行詩がある。

  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 いつか三好君は(私が陸軍徴用でマレーに行くとき)この藥を一粒か二粒、水筒に入れると水の消毒になると言つて、クレオソート丸の大瓶を餞別にくれた。その時の話だが、三好君の「雪」の詩の「太郎」は四歳ぐらゐだと思つていいかと私が聞くと「うん、それでもいいよ」と言つた。「すると次郎は、二歳ぐらゐか」と聞くと、「君はそんな餘計なことを聞いて、次郎はあのとき寝小便してゐるかと聞きたいんだらう」と言つた。それにしても、「太郎」は四歳ぐらゐ、「次郎」は二歳ぐらゐがいい。私は今でもさう思つてゐる。夜の青い鳥も眠つてゐるやうな感じがする。(以下略)」(井伏鱒二『文士の風貌』所収。福武書店、1991年)

 「夜の青い鳥も眠つてゐるやうな感じがする」という把握に、ぼくは強烈な印象を持った。たった二行の詩、だから簡単だとは決して言えませんね。太郎と次郎は兄弟なんだろう。あるいは母親が寝かしつけているのかもしれない。そこにしんしんと「雪」が降り積もっている。雪は音もなく降る、まるで予定されているような、静かさとどこから降りてくるのかと地上に積まる。その重厚さたるや、凍てつくような底冷えを肌身に感じさせるたびに思い知らされるのです。よく考えると、「太郎の屋根」「次郎の屋根」と、何か別々(の家・棟で)に寝ているような気がしますが、どうだろうか、同じ部屋の、一つ布団で寝ている兄弟に、三好さんは、あえて「太郎の屋根」と「次郎の屋根」と詠んだのか。

 二人の幼子がぐっすり寝ている部屋の天井近くで(だと思う)、「夜の青い鳥も眠ってゐる」と感じ取った、井伏さんの直観に、ぼくは腰を抜かさんばかりに驚いたのでした。二人の幼子が深く眠っている、その寝姿をじっと見ているうちに、夜の青い鳥も眠ってしまったようだ。「ここに、わたし(青い鳥」がいるんだよ」と言い聞かせながら。

 そして、いまなお日本海側の各地に猛烈な寒波が襲来して大雪を降らせている。そこでは「太郎」や「次郎」のように眠るわけにもいかず、「お休みよ」と、寝かしつけてくれる母もいない。夜を徹して除雪作業に忙しく働く人、食料などを配り歩く人、その他、ここにも日常を閉ざすことを許さない、多くの人間たちの営為があるのです。どこかにいる気配がない、青い鳥はどこにいるのか。明日は都心でも降るそうだ。

 ことさらのように、四万十の写真を高知新聞から借りたのは、そこが親父の故郷だったというだけのことでした。中村という地には一度しか行ったことがありませんが、何か懐かしい気分が雪のように降って来たのです。「雪ふりつむ」のはいいけれど、雪下ろしや除雪をしなければならないほどの雪は、どうか勘弁してほしい。

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 さらに井伏さんの、先の文章の続きです。

 「私は餞別にもらつたクレオソート丸では重寶した。シンガポールに入城して水道が出るようになつてからはともかくも、輸送船のなかでも行軍中でも必ず水筒に一粒か二粒か入れて置くやうにしてゐたので、安心して水が飲めた。飲むたびに「太郎を眠らせ」といふ詩を思ひ出してゐた。

 もう一つ「桐の花」といふ詩。

夢よりもふとはかなげに
桐の花枝をはなれて
ゆるやかに舞いつつ落ちぬ
二つ三つ四つ
幸あるは風に吹かれて
おん肩にさやりて落ちぬ
色も香もたふとき花の
ねたましやその桐の花
昼ふかき土の上より
おん手の上にひろわれぬ

 戦後、新宿ハーモニカ横丁の「道草」で、、何かの話のついでに、「桐の花」は終はりに行くにつれて受身になつて来るから花が生きて来るんだと私が言つた。すると、三好君が「こら、書いた本人に説明するとは何ごとだ」と怒りだした。赤い顔をして本當に怒つた。

 どうも私を子供あつかひにしてゐたやうだ。」(産經新聞、昭和四十四年四月八日)

 「桐の花」は『艸千里』所収で、中田喜直さんによる曲があります。「歌をください」に入っている。

 「子供あつかひにしてゐたやうだ」という井伏さんの、三好達治票がなんとも面白いと、ぼくはそこから井伏さんの人間性を見る思いがしたのでした。「童心」というのかしら。

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 食を撤せよ、民に信なくば立たず

 昭和五年十一月十四日、時の総理大臣浜口雄幸は東京駅内において、右翼団体佐郷谷留雄に狙撃された。直ちに入院し、(代理を置いたまま)首相職は続投した。しかし入院は長引き翌年三月までかかった。四月十三日に辞職。翌日、後任には若槻礼次郎が再登場した。閣僚全員留任の、いわば居抜き内閣であった。この時の蔵相井上準之助が議会において、予算問題に就いて、「食言」をした廉で、野党から追及を受けた。この時期は「金解禁」問題が焦眉の急となっていた。同時期には陸軍中央部は、橋本欣五郎らの「桜会」が軍事クーデターを画策し、「宇垣一成内閣」を企画した。いわゆる「三月事件」である。(昭和史の前半を色濃く染めた「政治と戦争」の季節の幕開けのような事件でした)

 この問題に遭遇し、湛山は「新報」誌上に論説を掲載、「近来の世相ただ事ならず」と政治責任を追及しました。

 井上蔵相(右写真)は「議会を愚弄」した、とは今や一般の定評だ。議会に於ける言明は議会を閉じれば直ちに弊履の如く之を棄て、顧みないならば、議会はあっても無きに等しい。議会に於ては、政府当局に都合の悪いことは、知っていても云わぬ、已を得ない場合には出鱈目をいう。議会が閉じれば、言明を裏切り、別人の如き行動を取る。此の如きは即ち議会愚弄、延いては憲法愚弄、更に国民愚弄と云うて差支ない。政府与党は愚弄者側にあるので、尚お及ぶところがあろう。だが、直接に愚弄せられた在野党の代議士に至ては、到底堪えられぬ侮辱を感ずるに極まっている。そこで、政友会領袖等は、今回の蔵相会見を力押しに作って、膝詰的議会愚弄の責任を問うたのだ。その方法の直接行動的なる点、善悪の批判は残るが、併し、議会を愚弄した政府の責任はもちろん遥かに重大だ。(「近来の世相ただ事ならず」「東洋経済新報」昭和六年四月十八日号「社説」)

 満州事変の開始時期と重なる重大局面でした。経緯の詳細は省きますが、議会での挙措、議会外での言動に政治家らしからぬ過ちがあれば、責任を問われるのは当然である。そのような認識が批判される側にも当たり前のようにあった時代です。政治責任、政治家の責任、これは絵に描いた餅でもなければ、空虚な絵空事でもなかった時代です。この時期、政治状況はけっして褒められたものではなかったと、ぼくは見ているのですが、政治家の「出処進退」には潔さが求められていたのです。浜口が凶弾に遭った時にも、湛山は、一刻も早く職辞すべきであると書いた。この「食言政局」に対して湛山は、さらに言う。

 「首相は職を曠(むなし)うし、政府の言に信なく、議会は愚弄せられ、国民を代表する代議士は暴力集団化する。以上を一言に括れば、殆んど乱世的事相とも評して差支あるまい。斯の如き事態を、実現せしめるに至ったのは、蓋し一朝一夕の故ではなく、久しき前から醞醸せられた結果であろうが、併し、兎も角も、斯の如き事態が、浜口内閣の下に於て、顕著に発現せることは争うべからざる事実である。而も記者の見る所に依れば、其の大部分は、以上に指摘せる如く、不幸にして浜口内閣の態度の反映であり、自ら蒔いたものである。これ記者が、この際、治乱興廃の岐るる政治的道義の回復の為に尚お敢て浜口内閣の罪跡を指摘し、厳正なる批判を望んでおく能わぬ所以である。

 若し已むことを得なければ食を撤せよ、民に信なくば立たず、と古聖は云われた。信義は死よりも重し、これを今日に翻訳すれば、言行一致し得ぬ場合には其職を去るべし、これがいわゆる食をすてるに当ると思う。苟くも斯の如くせざれば、何うして綱紀の支持が出来よう。何処に道義の堅守があろう。(同上)

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 今日、この島の政治状況をどう見ればいいのか。笑うべきか泣くべきか。およそ九十年前も同様で、残された記録で見る限り、惨憺たる政治状況であったことは事実でしょう。内閣は粗製乱造というでたらめぶり。「元老」などという歴史外の人物(妖怪)が政治に大きな影響力を持っていました。政治家の汚職も後を絶たなかった。そして、そのような筋の通らない政党政治にとてつもない破壊力を持って参画していたのが軍部とその取り巻き連でした。まさに「暗い時代」を一層暗くする暗転機のような狂言回しを果たしていたのです。「満州事変」はすでに準備されていた時代でした。爾来、この九十年、島の政治状況は、ただの一歩も先に進んだとは思えないのはどうしたことか。腐敗と堕落、虚勢と虚偽の鬩(せめ)ぎあいで、人民は塗炭の苦しみを舐めさせられているのです。

 たった一人の「嘘つき」が政治を牛耳っていたと、ぼくには思えないのです。一つの「嘘」が成り立ち、それが「嘘」でなくなるためには、たくさんの「嘘」を必要とするはずです。つまり、右も左も「嘘つき」のたまり場となっていたのが「政界」であり「国会」であり、「霞が関」だった、そういわなければならないようです。その周りには公私を隔てることなく有象無象が「サクラ」となり、「囮」となっているうちに、長い間の「虚政」が持続してきたのではなかったか。この退廃・頽落は、それこそ回復不能な事態であったと、残念ながらぼくには思われてならないのです。

 定家の「明月記」を眺め、長明の「方丈記」や兼好の「徒然草」を拾い読みし、日蓮や親鸞など、その時代を肯定し得なかった人たちの手蹟を傍に置いて、気が向くままに眺めていると、人間の集団には止めようのない堕落があり、人を貶める陥穽があらゆるところに待ち受けているさまが手に取るように見えてきます。わが身の生まれ出た時代の、言い難い巡りあわせだったのでしょうか。これこそ、人の世の定めなのです。「静かなる暁、このことわりを思ひつづけて、みづから、心に問ひていはく、世をのがれて、山林にまじはるは、心を修めて、道を行はむとなり。しかるを、汝、姿は聖人(ひじり)にて、心は濁りに染めり。住みかはすなはち、浄名居士のあおとをけがせりといへども、たもつところは、わずかに周梨槃特(しゅりはんどく)が行にだにおよばず。もし、これ貧賤の報のみづからなやますか。はたまた、妄心のいたりて狂せるか。その時、心、さらにこたふる事なし。ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、両三遍もうしてやみぬ。干時(ときに)、建暦二年、弥生のつごもりころ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす」(「方丈記」)(*建暦二年は千二百十二年、蓮胤は長明の「法名」)

 嘘つきがまた無能であるという、たとえようもない不幸にぼくたちは遭遇しています。この難局を無事に超えることはまず不可能であると、残念だけれど、ぼくには言うほかないのです。国が亡びるばかりか、無辜の民が政治の不甲斐なさのゆえに、なくすべきでないいのちを失っているのです。だからと、ぼくは「憂国の士」「救国の士」を待望するのではない。それぞれが持ち場で果たすべき仕事を為せば、おのずから道は開けてくるのだと、ぼくは祈るように書いている。新しい年が明けたけれど、まさに事態も人情も「旧態依然」です。

 政治の世界にも言論の世界にも、たった一人の「湛山」、たった一人の「悠々」がいないのでしょうか。そういうことがあるとは、ぼくには思えないのです。時宜にかなう政治家・言論人が、この島のどこにも、ただ一人もいないとは、なんという不義不正の時代に、ぼくたちは生き永らえていることか。(左は「方丈記」の一部)

 それを思うにつけ、ぼくは学校教育の手の施しようのない「作為」を言わなければならないと痛感するのです。他人に優れていたい、誰よりも評価されたいという、幼気(いたいけ)な「自尊心」を虜にしてしまい、まるでそれを嬲(なぶり)りものにするかのように許しがたい姦計を弄しつくしているのが、否定しようのない現実だからです。少なくとも、この時代、誰しもが学校教育という「選別機」の洗礼を受けざるを得ないからです。みかんやリンゴなど、等級を自動的に判別させる、あの機械、それこそが学校なのです。学校という選別機でなめされているうちに、ついに「物言わぬ」「物言えぬ」存在と化されてしまう。言いたいこと、言わなければならぬこと、すべては関心の外、自分一個の利害にのみ最大の関心を寄せる、それだけでは足りないでしょうに。

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