「空の名残のみぞ惜しき」、然も覚えぬべけれ

 某(なにがし)とかや言ひし世捨て人の、「この世の絆(ほだし)、持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、真(まこと)に、然(さ)も覚えぬべけれ。(島内編「徒然草」・第二十段)

 この短文のなかに、吉田兼好の「人生と自然(宇宙といってもいい)」が明確に刻印されているとぼくは読んでいる。たったこれだけです。「世捨て人」とは、自身の事でもあったはずですが、それはどのような事情を内に孕んでいた人だったか。ここでは「俗世間との関係を絶った人。僧侶や隠者など」(デジタル大辞泉)というのでしょうか。実際に僧侶にしろ、隠者にしろ、完全に世の中と絶縁するなどということは難しいというより、むしろあり得ないことだったと考えられます。今でもよく見受けられる、禅宗の坊さん(雲水)は、托鉢といって「物乞い」(今はそうは言わないようで、「お布施を受ける・喜捨を得る」などと洒落た物言いをします)といって「僧尼が修行のため、経を唱えながら各戸の前に立ち、食物や金銭を鉢に受けて回ること。乞食 (こつじき) 。行乞 (ぎょうこつ) 」に励んでいます。これを盛んに行ったのは、種田山頭火という偽坊主の俳人でした。

 兼好さんは僧侶ではなかったし、だから行乞などもしなかった。今でいうなら「フリージャーナリスト」という新手の旗手だった。もちろん、だれかに「生活の糧」を恵まれるような境遇にはなかったので、純粋の「世捨て人」ではなかったのは確かです。ぼくは兼好や長明、あるいは西行など、所謂「出家者」(を装った)と称される人は、世の中を棄てたのではなく、世の中から捨てられたという意識を持った人々だったと思っています。あえていうなら「無用者」でした。世に受け入れられなかった、出世を拒まれた、その行く先の「出家(家出)」であり、遁世だったといえばいいでしょう。いまだって、きっといたるところに「遁世者」はいるし、「家出」ならば数限りない。渋谷にも新宿にも「家出)は五万といるはずです。

 細かいことを言えば切りがありませんが、世を儚(はかな)むどころか、満々とした「自意識」を働かせながら、都の周辺に留まったり、あるいは新たなスポンサーを求めて各地を行脚していたのです。彼らは「世捨て人」でも「出家者」でもなかった証拠に、残された和歌や文章を読めば、それは一目(一読)にして瞭然とします。ひるがえって、今日の状況はどうでしょう。どんな人でも、一度や二度は「出家」「遁世」「家出」を願わなかったことはないでしょう。実際に世を儚む人は後を絶たない。世知辛い社会の片隅に追いやられた挙げくの、文字通りの「遁世」だとするなら、あまりにも痛ましい。無用者は、現代社会にこそ溢れているのです。

 *****************

 万(よろず)の事は、月見るにこそ慰む物なれ。或る人の、「月ばかり、面白き物はあらじ」と言ひしに、また一人、「露こそ、哀れなれ」と争ひこそ、をかしけれ。折に触れば、何かは哀れならざらん。

 月・花は、更なり。風のみこそ、人に心は付くめれ。岩に砕けて清く流るる水の気色こそ、時をも分かず、めでたけれ。(略)(同・二十一段)

 この文章も、一読、何を言わんとするか、判然とする。多弁は無用です。どんな時でも「月を見ると、心が慰められる」という。確かにそうです。どこかで「冬の星座」に触れたのも、ぼくのような無粋を画に描いたようなものでも、この厳寒の冬空に数多の星が輝く様に心ひかれたからでした。「見上げてごらん、夜の星」をと謳った人は、坂本九さんだけではなかった。兼好さんもそうでした。もちろん、人それぞれで、月よりも露ですよ、という御仁があったってかまわない。心に届くものがあったなら、それは何でもいいのです。花でも風でも、岩に砕けた清流であっても。

 いつの時代でも「活計(かっけい)」(暮らしを営むこと。また、その手段。生計)に苦しむのは衆生の定めです。とりたてて、身に誇るものがなければ、毎日の暮らしに齷齪するのが当たり前であり、それが続くと、時には「世捨て人」になりたくなるのも、時世にはかかわりなく、常民が束の間の夢にみるところです。もちろん、兼好さんの時代と今日では、あまりにも世情・人情の厚薄に違いがあり過ぎます。だからこそ、「月」でも「露」でも、「花」や「風」にでも心を慰められる必要があるというのです。これは贅沢などとは無縁の、人の心が飢えている際の、いのちの水なんだというのです。

 「わが心慰めかねつ更科や姥捨て山に照る月を見て」(「新古今和歌集」八七八・古歌)

 信濃の善光寺平の姥捨て山の頂上に照る月を見て、自分の心は慰められないのだ。たしかにこのような二進も三進も行かない時はある、でも、だからこそ、夜空の星や月を見てごらん、と兼好は言うのですよ。「折に触れば、何かは哀れならざらん」「人に心は付くめれ」「時をも分かず、めでたけれ」とは、いつ何時でも、とらわれから放たれるために、自然に包まれ、面と向かう、そのようにして得られるであろう心の救済、それを兼好はのびやかに、しかし、深い哀れみの情から、読者に訴えているとも読めるのです。こんな人が「出家者」であるものですか。人情・世情を弁えればこその、至言であると、ぼくはいいたいですね。

_____________________________