
【筆洗】信州の豪雪地帯に生まれ、晩年を過ごした一茶に「雪」の句が多いのは当然だろう。<心からしなのの雪に降られけり>。雪を好んで詠む一方で、雪への恨み言めいた句も少なくない▼手厳しいのは<雪行け行け都のたはけ待おらん>。大雪のおそろしさを知らず、雪を風情あるものと喜んでいるような都の「たわけ者」のところに雪が降ればいいと言っている▼一茶の嘆きが聞こえてきそうな日本海側を中心にした年末年始の大雪である。穏やかな年末年始を迎えたかったのにコロナ禍の苦しみの上に今度は大雪が降り積もる▼帰省を控えるように言われていたので、この年末年始に地元に帰った若者はいつもの年よりも少ないはずだ。ボランティアも期待できない。重労働の雪かきの手は足りているか。心配になってくる▼雪の降らぬ場所に住む者が<都のたはけ>になりやすいのはしかたないところもあるが、コロナの方はどうだろう。感染しないだろうと、ひとごとのように決め込み、感染対策を軽視した風潮がなお、どこかにないか。その実、コロナという大雪は降り続いている。<たはけ>にはなるまい▼四日は仕事始めである。社会が再び動きだす。感染のさらなる拡大も心配されている。対策も万全に、より慎重な仕事始めを心掛けたい。<雪とけて村一ぱいの子ども哉(かな)>。雪もコロナも消える日を信じ、耐えしのぐ。(東京新聞。2021/01/04)
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「筆洗」氏の叫びはなんでしょうか。「たはけ」にはなりませぬと覚悟を決めても、それは自分一人だけの始末に負えない災いですから、みなの衆「一蓮托生」とでもいうほかない。感染症は、コロナに限らないわけで、金満主義も、自己中心派も、刹那幸福主義も、それぞれが生命をかけて縋(すが)るような代物(値打ち)だとは、ぼくには思えないのですが、他者はそうではないのでしょう。金も地位も名誉も評判も、すべてが自分の生涯を懸けるに値すると思えばこその、必死で齷齪の連続なのではないでしょうか。「たはけ」と呼ばれる、お門違いの一所懸命の、莫迦らしさ。

ここに一人の野人を立たせましょうか。家柄も金も地位もない、農民出の男です。さしずめ「地盤・看板・鞄(金)」というサンバンのないのは衆生の運命みたいなもので、だから三つのうちの一つでも手に入れようと、躍起になるのが人生の相場になっているのです。はたして一茶という野人はどうだったか。れっきとした農民の出でした。地主などではなく、極端な貧困にあったのでもない。実母とは三歳で死別。継母とは折り合い宜しくなく、はるかに江戸に出郷することになる。十五の春に、集団就職ではなく、単独にしての江戸行でした。いまでは廃れてしまったでしょうが、田舎(ぼくの知っているのは、石川・新潟・富山・福井・長野・岩手・青森・福島などなど)から江戸へ、身寄りを頼って出かけることは決して珍しくなかった。風呂・理髪・大工などといった職業に、前もって従事していた先人が後輩たちを呼ぶというのは人出をそろえるのと、同郷の誼という点では不思議ではなかった。このような田舎出の人々が「江戸っ子」の素になった。
一茶もそうでした。継母との心寛(くつろ)がない関係(それは、早逝した生母が一茶に残した「思慕の情」が止みがたかったことの反証でもある)、それが引き起こした、十五の春の江戸流れでした。これからの十年余、彼の足跡はよくわかっていない。さぞかし、尋常の生きづらさをはるかに超えた苦しみを味わったはずです。あるいは「宿なし」になっていた時もあった、といわれている。十年後に帰郷するも、早々に家を出る。「椋鳥と人に呼ばるる寒さかな」(椋鳥とは、「出稼ぎ者」を揶揄した江戸における蔑称だったか)この苦節の時代に、彼は俳句(俳人)と出会う。漂泊と彷徨、これが、その後の彼の生き方となったのです。
貧困にあえぐ最中の、俳句との邂逅ならば、単なる子ども好き・子煩悩であったなどという、個性の評価は、にわかには受け入れるわけにはいきません。彼の心中深くに蓄積された思いが、やがて麹菌によって醸成された酒精のように、それが彼の句の背骨になったと、ぼくは見ようとしてきました。(「しなのの国にひとりの隠士あり。はやくその心ざしありて、森羅万象を一椀の茶に放下し、みづから一茶と名乗り」(夏目成美)(wikipedia)といわれたように、人生は「一椀の茶」に過ぎない、泡沫のようだと、彼はみずからの人生を「一茶」という架空の名前にこめたのです。
唐突ですが、善光寺は彼の庭のようでした。そこに句を捧げる、その記念としての二句です。

春風や牛に引かれて善光寺
開帳に逢ふや雀も親子連
●小林一茶 =([生]宝暦13(1763).5.5. 信濃,柏原[没]文政10(1827).11.19. 柏原) 江戸時代後期の俳人。通称,弥太郎,名,信之。別号,菊明,俳諧寺,蘇生坊,俳諧寺入道。農民の子。3歳で母を失い,8歳のとき迎えた継母と不和で,15歳の頃江戸へ奉公に出,いつしか俳諧をたしなみ,竹阿,素丸に師事。享和1 (1801) 年,父の没後継母子と遺産を争い,文化 10 (13) 年帰郷し,遺産を2分することで解決する。 52歳で妻帯,子をもうけたが妻子ともに死去,後妻を迎えたが離別,3度目の妻を迎えるなど,家庭的に恵まれず,文政 10 (27) 年類焼の厄にあい,土蔵に起臥するうち中風を発して死亡。数奇な生涯,強靭な農民的性格,率直,飄逸な性格が,作品に独特の人間臭さを与えている。編著『旅拾遺』 (1795) ,『父の終焉日記』 (1801) ,『三韓人』 (14) ,『七番日記』 (10~18) ,『おらが春』など。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
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藤沢周平(1927年 – 1997年)さんの作品は、ずいぶんたくさん読みました。ほとんどすべてといっていいくらいに、よく読みました。もちろん、単行本、文庫本、さらに「全集」と、いくつも重ねながらの愛読でした。彼の作品に熱中した時期もありました。ここで藤沢さんのことを書くつもりはありませんが、彼は一茶が好きだったと思います。両人とも雪国生まれの、雪国育ち。藤沢さんは山形は鶴岡だったか。なお睦月26日は藤沢さんのご命日です。両人ともに、若くして苦節何年という辛酸をなめたのでした。生の一面は韜晦であるにもかかわらず、表現は飄逸であり、ユーモアに欠けたところはなかった。ぼくの藤沢さん好きの理由のひとつだし、同じことは一茶にも言えるのです。
一茶に関して、短い駄文を書くつもりだったので、もう一度、藤沢さんの「一茶」を読み返そうとしたのですが、それは後回し。読むと、手当たり次第に読みだして収拾がつかなくなりそうですから。(井上ひさし氏にも、一茶を書いた作品があります)実は、周平さんも俳句を嗜まれていた。相当な詠み手だったと推察しています。(一冊にまとめられた「句集」も出ています)いつの日か藤沢さんに触れる時が来るでしょうから、そのときの種として残しておく。いかにも周平さんらしいと思わせる、二句(と川柳一句)を。

雪女去りししじまの村いくつ 眠らざる鬼一匹よ冬銀河
ふるさとへ廻る六部は気の弱り(古川柳)
藤沢さんは山形師範を出て、学校の教師をされましたが、間もなく結核を病み、離職。都下清瀬にて、短くない療養生活を送ります。この間に「俳句」に親しまれた。やがて、病も癒えて、退院。業界紙の記者だったかになり、その傍らで、小説を書かれていた。師範学校の二年ほど後輩に無著成恭さんがおられました。無著氏はどこかで周平さんのことを書かれていました。

残された句からは想像できないような、大変な苦難を背負って生きたのが一茶でした。上に紹介した「略歴」を一瞥しただけで、彼の生きづらかった人生が納得できると思います。十五で江戸に奉公に出、十数年間の辛苦の末に帰郷し、さらに腰を据えるいとまもなく各地を漂泊。(江戸にいたころ、房総に足を延ばしています。半島の各地には句碑やゆかりの品々がたくさん残されている)俳人は漂泊の習性を胸中に宿している者なのかどうか、今のような通信や交通の手段が皆無だった時代、しかし驚くほど濃密な交流が島のあちこちで交わされていた。これは一考を要する問題でもあると、ぼくは愚考しています。

各地の俳人仲間との付き合いを通して、人生の荒波をまとも受けながら、それを越えて生きようとしたのが一茶でした。子ども好きの一面が大いにありましたが、それ以上に負けぬ気の強い、強情な人でもあったように見られます。彼は野人であったと、ぼくは考えています。財産をめぐる継母や弟との争いは、当時も今もつねにあることでしょうが、その執念の強さたるや、一茶を考えるうえで、看過できなものだったとぼくは感じてもいる。(彼は良寛さんじゃなかった、といって、良寛自身も一筋縄ではいかない人だったと思われてきます)
勝手な推量を言えば、一茶という人が、現代の東京のどこかの街中を歩いていたとしてもぼくは驚かない。彼のような、明け暮れに揉まれていく中で粒粒辛苦して自分を粘り強く、辛抱強く鍛えていった人生は、いつの時代であっても人間を野太く、心優しくもしてくれるし、それがまた生きるという営みの核心部をなしているともいえるのです。
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一茶の俳句を評す(正岡子規)

【 斜面】「獺祭書屋(だっさいしょおく)主人―。明治時代の俳人、歌人正岡子規の号である。獺祭は、獺(カワウソ)が捕らえた魚を祭りに供えるかのように並べる習性のことだ。詩文を作るときに、多くの文献や参考書を広げることにも用いられる。
子規は、自らの住まいを獺祭書屋と称していた。絶滅したとされるカワウソだけれど、戦前は全国の川で見られた。本人自筆の「獺祭書屋主人」をきのう、上水内郡信濃町の一茶記念館で目にした。町出身で江戸時代の俳人小林一茶を論評した原稿である。
長野市戸隠の民家で、先ごろ見つかった。1897(明治30)年に刊行された「俳人一茶」に寄せたものだ。子規は一茶を高く評価し、その特色は「滑稽、諷刺(ふうし)、慈愛の三点に在り」としている。とりわけ滑稽な句の軽妙さは、一茶の独り舞台とほめている。
〈春雨や喰(く)はれ残りの鴨が啼(な)く〉。子規が寄稿で引いた30を超す句のうち、最初の例句である。〈庵の雪下手な消えやうしたりけり〉。滑稽の方便として一茶が多用したとする擬人法の例句。〈有明や浅間の霧が膳を這(は)ふ〉。佳作の一つとして選んでいる。
「俳人一茶」はその人と作品を初めて体系的にまとめた出版物。一茶が広く知られるようになる端緒を開いた―。一茶研究者の矢羽勝幸さんが、その意義を書いている。子規直筆の一茶論の発見は、一茶生誕250年がきっかけだという。一般公開は11月末まで。」(信濃毎日新聞・「斜面」・2013年8月2日付)
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その子規が認めた(再発見した)一茶の句、「滑稽・風刺・慈愛」ばかりが一茶の本領ではなかった証拠として、以下に挙げておきたくなりました。
霞む日やしんかんとして大座敷 父ありてあけぼの見たし青田原
又ことし娑婆塞ぞよ草の家 花おのおの日本魂いさましや
最後の句は、いかにも「明治維新」近しという感がしませんか。文化四年(一八〇七年)の作、半世紀後に、島は大混乱に陥るのですが、一茶の句はその兆候を、図らずも示しているのです。
子規(1867-1902)は少し前まで生きて活躍した人でしたし、その彼が、自分と同じような傾向をもった俳人として発見、あるいは再発見したのが一茶でした。子規に先駆ける、わずか百年ばかり前の世界に生きた人でした。人の性情・生きる道理は、それほどには変わらないということを、一茶や子規を通しても、ぼくは実感しているのです。
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