京大博士のパズルに挑戦

(京都新聞・2021年1月4日 0:00)(正解は次回に)

 一時期、「数独」というパズルにハマっていたことがありました。いまではナンバープレース(ナンプレ)と呼ばれているものでしょう。購読していた東京新聞の日曜版に「まちがいさがし」「漢字テスト」などといっしょに掲載されていました。ぼくは凝り性でもなければ、物事にシャカリキになる質ではありませんでしたから、適当にやって、解ければお終い、ダメなら、次の機会に、そんな程度でした。それで何かを得たという実感はなく、無駄な時間を過ごしたという、一種の虚実感に満たされていたのかもしれない。

 このブログ(なんだろうか)を始めて、ほぼ一年が経過しようかという段階ですが、つまらない「よしなしごと」を綴っています。まあ、駄文や雑文の「賽の河原」、その石積みのようなものです。積んでは壊し、母のため。いわゆる「和讃」ですね。これにもいろいろあるのですが、ぼくが強烈に覚えているのは、新潟の角田浜の賽の河原。そこで異様な経験をしたのですが、それは、今は書きません。積んでは崩し、積んでは崩し。ぼくの好きな「浄土和讃」から。

   十方衆生のためにとて
   如来の法蔵あつめてぞ
   本願弘誓に帰せしむる
   大心海に帰命せよ
(「讃阿弥陀仏偈和讃」十六)

 賽の河原の石積み、なんか「数独」と似ていませんか。ぼくは、適当に升目を書きながら、しばしば時間をつぶしていました(時間を忘れることはなかった)。九割がた成功したと思った瞬間、ルールに外れていることに気付く、それをまた一からくり返す。「一つ積んでは、母のため」とは思いもしなかった。それもこれもが、「おのがため」でしたが、それで何が鍛えられたのか。今は「自主トレ」と称して、毎日雑文を積んでいます。誰のためでもないし、あるいは自分のためですらない、すっかり摩滅してしまった「あるか、なきか」の「記憶装置」の点検整備作業、いってみれば「自然流の法定整備」です。この「記憶装置」は自分のものでもあり、ぼくのものでもないのですね。ままならないということは、己の所有に帰していないということの証拠ですから。その「自主トレ」のために数独あり、草取りあり、農道散歩あり、かみさんとの悶着あり、加えて、雑文・駄文綴りあり、という次第です。普段着のままに生きているという証明です。(左上、青森は恐山の河原)

 今朝四時のラジオ深夜便で、売れっ子歌人・ホムラ何某の、短歌にまつわる話を聞いていました。ぼくでも知っている、いまは若くもない「サラダなんとか」さんの歌が紹介されていましたが、恥ずかしくなるようなものでした。ぼくは彼女を少しは知っていました。最初は「おや、シャレかいな」、そんな風な短歌でしたが、近年(今朝耳にしたもの)は、そのシャレがもっと崩れて、「ぼくは、こんなのいやや」、というところにまで達していました。フシダラな崩れ方だなと感じられたのです。他の方も大同小異。もちろん、これは好みですから、勝手なぼくの受けとめ方です。

 いうなれば、普段着を装っていたのが、寝間着(パジャマ)かなんかで外歩きしているところにぶつかったという具合でした。そんな恰好で出歩くのなら、あらかじめ告げておいてほしい、だったら、ぼくは違う道を通ったろうから。こんなのばっかりですね。テレビでも何でも巣でした、こいつが出るなら、事前にいっといてよ、ぼくは避けるから、と。出会いがしらは避けようがないから、困るんです。ことばが崩れているというか、品性というものが微塵もないんですね。もっといえば、下品そのものでした。普段着はいいですよ、寝間着が普段着だったら、それも構わない。でも、いかにも布団から出たままで歩いていると思わせてしまう、そんなんいややね。(今は廃れたのかどうか知りませんが、電車で「化粧」が流行っていた頃、ぼくは口にも出し、あからさまに不愉快な表情をしていましたが、大抵はいっかな気にする風もなかったね、女性たちは。そんなん、いやや。「やっても無駄や」と言ったこともある)

 短歌芸術とか何とか文学とか、そんなやかましいことを言っているのではありません。「品」の問題ですよ。人前に出すには礼儀なんかがあるんでしょうね。(これは藪蛇でした。「お前の駄文も下品じゃないか」)

 数独に戻ります。数字というのはいいですね。普段着でも寝間着でもない。誰にとっても6は6です。当たり前ですが、この当たり前の「顔つき」がいいんです。こちらの様子を見ていて、加減してはくれませんね。人によって、表情を変えないから、数字や数学は、人間を鍛えてくれるんです。単なる数字ですが、それはまるで山のように動かない。動かされるのは、こちらです。8+53=64と答えても、その間違いは泣いてもわめいても変わらないままです。自分で訂正しない限り、永遠のゼロ。(右上、新潟角田浜の「岩穴」)

 つまり、数字には、人間を動かす強制力があるという意味です。「だから、これを悪用する輩が後を絶たないんですね)教師や親がやさしく「正解」を与えてくれるような、甘ったれた性格は、数字にはいささかもありません。気を取り直して、自分で間違いを糺す、質す、正す。この繰り返しで、人は鍛えられる。人間を伸ばしてくれるんですね。一つ積んでは、自己のため。

 「数独」から離れたところに迷い込んだと思われますか。集中力、あるいは注意力をきっと高めてくれるのは、生きた人間どもではなく、たった一個の数字ですよ。試してごらんなさい。数字は「梃子でも動かない」、まるで山のようだし、岩のようでもあります。相手が動かないとわかっていれば、こちら(人間)が動くほかにありません。工夫を凝らして(脳を鍛えて)、自分を制御するんです、自分の弱さや、飽きっぽさ、我がまま、不注意などなど)。嘘つきで一貫した元総理は「数独」をやったことがなかったんだね。「可哀そうな、莫迦(moha)」というほかありません。

 小学校二年生の孫(女児)(横浜在)は、いとも簡単に解いて見せてくれる。呆れながら、わが「脳トレ」の成果のないことを、まざまざと見せつけられています。コロナ禍のせいか、このところしばらくは逢えません。この機会(鬼のいない間)を利用して、さらに練習を積んで、追いつきたいと。ますます「自主トレ」に励む次第です。(猫が七人、暴れまわっています。「数独」でもしてくれないかな)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)