光陰、何のためにか惜しむとならば…

 時節柄ですね、またまた「徒然草」です。あるいは、それは現実から逃げているんだと横やりが入りそうですが。しかし、無性にと言っていいほどに、これが読みたい、そんな気分が募ってくるのを抑えられないんです。なぜでしょうか。兼好さんは七十くらいで亡くなられたといわれている。この「随筆」を書かれたのは五十代だったとも。「寿命」が今とは比較できない、彼方の時代の人でしたから、そこからなにかを言おうとするのは正しくなさそうですが、しかし、この人の長短さまざまな文章を読んでいると、その行間から気配が感じられてくるのは、いかにも時代意識(自意識)が強すぎる一人の人間が、達観しているように見えて、実際は生きることに呻吟している様、とでも言いたくなってくるのです。勝手な言い方をすれば、人間五十にもなれば、おおよその実感というものを「己の人生」から得ているにちがいないと思われるのです。兼好さんも例外ではなかった。しかし、枯れ切ってなんかはいないのです。

 長く生きれば「悟るところ」が、早逝した人より多くなるに違いないといいたい気がしますが、そんなことはなさそうです。恥も失敗も多くなりますから。三十で生命が途切れたとしても、「人生の難問」にはきっと、それなりに対面していたのだと、ぼくには思われます。兼好や長明をつれづれに読んでいて感じるのも、そこです。また時代の早い遅い(文明の程度)を指摘したくなるけれど、それだって、ぼくたちが表面上に見るような差異はなさそうです。生老病死と言いますが、その段階ごとに、人は得るべきものを得ているのだし、それを「悟る」と言っても一向構わないでしょう。十歳は十歳なりに、三十は三十なりに、五十は五十なりに、です。

 兼好研究の専門家によっても、彼の生涯の履歴は明らかではない。どこかに謎が隠されているとは思えませんが、杳として知られない「生の奥深さ」を感じさせられるのもまた、偽りのないところです。一点の疑問もないように、歴史上の人物の履歴(謎)を明らかにするなどということはあり得ないし、あってはいけないでしょう。十三世紀末に生まれ、南北朝にかかる時期(十四世紀半ば)を生きた人で、一時期は天皇の側近として仕えていたし、歌詠みもそれなりの力量に恵まれていた。生家は神職の官だった。いってみれば「波瀾万丈」の波頭を流されつつ乗り越えようとした生涯だった。世のだれとも同じような、しかし、彼独自の生き死にを送った人でした。その「波瀾万丈」が直截・間接に活写されているのが「徒然草」でした。

 今回は、以下の二つばかりの章段を取り出してみた。

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  (その1) 「寸陰、惜しむ人無し。これ、よく知れるか、愚かなるか。愚かにして、怠る人の為に言はば、一銭軽しといへども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす。然れば、商人の一銭を惜しむ心、切なり。刹那、覚えずと雖も、これを運びて止まざれば、命を終ふる期、忽ちに至る。

 然れば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。もし、人来て、我が命、明日は必ず失はるべしと、告げ知らせたらんに、今日の暮るる間、何事をか頼み、何事をか営まん。我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん。一日の中に、飲食・便利・睡眠・言語・行歩、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇、幾何ならぬ中に、無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して、時を移すのみならず、日を消し、月を渡りて、一生を送る、最も愚かなり。

 謝霊雲は法華の筆受(ひつじゅ)なりしかども、心、常に風雲の思ひを観ぜしかば、慧遠、白蓮の交りを許さざりき。暫くもこれ無き時は、死人に同じ。光陰、何のためにか惜しむとならば、内に思慮無く、外に世事無くして、止まん人は止み、修せん人は修せよ、となり」(第百八段)(島内校訂・訳)(既出)

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 「束の間(一分一秒)」を惜しむ人はいません。これは道理がわかっているからなのか、あるいは愚かだからなのか。愚か者のために言っておくと、「一銭」は軽いというが、これを積み重ねれば貧者は富者にもなる。商人の一銭惜しみ、それは切実なものだと分かります。「束の間」は、知らぬ間に過ぎていく。でもこれをそのままにしておけば、あっという間に最期(命を終ふる期)が来てしまう。

 「然れば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし」道理にかなう生き方を求める人は、遠い先の歳月を惜しんではならない。それよりも「この、今の瞬間」が空しく過ぎ去ることをこそ、惜しむべきです。誰かがやってきて、「君は明日、死ぬでしょう」といったなら、今日が終わるまでに、いったい何をして過ごすのか。「我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん」生きるのに必要なこまごましたことをしているうちに、日が暮れてしまう。一日を無駄にし、一月をもそうして過ごし、やがて一生を送ってしまうのだ、これほど愚かしいことがあろうか。

 謝霊雲という人は法華経の翻訳筆記者でしたが、「常に風雲の思ひを観ぜしかば」いつも世に出たい出世したいビッグになりたいという、抑えられない邪念でいっぱいでした。そこで、慧雲は「白蓮(同志社)」への参加を認めなかった(まっとうな「仏道者」としなかった)。なぜ生きるのか、この問いかけがなければ「死人に同じ」です。なぜ時間を惜しむかと言えば、心のうちに邪念がなく、世俗への無用な関心をもとうとしない、そんな人は仏道に励む、そのために時を惜しむのです。(左写真 兼好墓石、京都市内双ヶ岡長泉寺内)

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 この雑文集のどこかで、高校時代に古文の時間に、「徒然」の一説を読まされて、大いなる失敗をした話を書きました。ぼくの愚かさのゆえでしたが、今もこれを書きながら、その場面を思い出しています。そして、こんな兼好さんの「哲学」「人生観」が、怠け心いっぱいの高校生に分かるはずがあるものかと、再確信してもいるのです。国語に限らないが、学校の教室や授業には、越えられない限界、入ることのできない領域があることを教師もせいとも、はっきりと悟った方がいい、改めてそう考えます。学校には「教える」「授ける」「学ぶ」「習う」という核心の部分に致命的な欠陥があるのです。できないことをしようという「無謀さ」、がそれです。限界を熟知するところから、「学校再生」は、その始まりの端緒をつかむでしょう。

 「光陰矢の如し」と「読めて、書けて、説明ができる」と合格(百点)ですというのは、とてつもない道徳的な頽廃を示しているとぼくは感じるし、やってはいけないことをやっているという意味では、何か罰当たりな仕業のようにも思われてくるのです。(この点については、この雑文の山の中で、同じことをあちこちでくりかえしています)

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 その2 「一道に携る人、あらぬ道の筵(むしろ)に臨みて、「あはれ、我が道ならましかば、かく、余所(よそ)に見侍らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常の事なれど、よに悪く覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな、羨まし。などか、習はざりけん」と言ひて有りなん。我が智を取り出でて、人に争ふは、角有るものの、角を傾け、牙有るものの、牙を咬み出だす類ひなり。

 人としては、善に誇らず、物と争はざるを、徳とす。他に勝る事のあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才芸勝れたるにても、先祖の誉れにても、人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心に、若干(そこばく)の咎有あり。慎みて、これを忘るべし。烏滸(おこ)にも見え、人にも言ひ消(け)たれ、禍をも招くは、ただ、この慢心なり。

 一道にも、誠に長じぬる人は、自ら、明らかに、その非を知る故に、志、常に満たずして、終に物に誇るる事なし」(第百六十七段)(この部分は、機会を改めて。熟読するだけが肝要ですから)

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 兼好さんの真髄はどこにあるか。ぼくにはよくわかりませんが、どこまで行っても経験主義者だったという点、どんなことでも、自らの経験から学んだという意味では、彼はプラグマティストでした。こういって、彼がプラグマティズムの「先駆者」だったなどというつまらないことを言うのではない。どんな人でも、自分がやってみて、その結果や経験から物事を判断し、価値を規定する思想(生き方)を作り出したという点で、あえていえば、それを「プラグマティズム」というばかりです。観念や教典・経典からの「知識」にものを言わせなかった人でした。ぼくが彼を好むのは、もっぱらこの傾向からでした。(今でも、彼は高校生などの「教材」(お手本)になるような人物じゃないと、言いたいですね)

 「謝霊雲は法華の筆受(ひつじゅ)なりしかども、心、常に風雲の思ひを観ぜしかば、慧遠、白蓮の交りを許さざりき」と。兼好自身が謝霊雲でなかったとは、ぼくには言えない。若い兼好(かねよし)も世間並みに、「立身出世」を求めなかったはずはないし、その道が閉ざされたならどうするか、彼は「徒然草」を書いた。怨み辛みではなく、人の生きる様子(生き方の流儀)は、どこかできっと重なるものです。時代や社会を隔てているとみえるものは、実は表面・皮相ではないかとぼくはみなしています。彼我の差は、あるようでいて、ないんですね。つまりどんな人も、自分で歩き、自分で転び、自分で立ち上がり、泣いたり笑ったり、そんなことをして生きているのですよ。(⇑ 徒然草絵巻・海北友雪(1598~1677年)(サントリー美術館蔵)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。