「コロナに感染しませんように」と初詣か

 年の始めに、オンラインでのご祈願

 神社まで参拝にお越しいただくことが難しい方に、オンラインでのご祈願のお申し込みを承っております。/「国安かれ」の一念のもと、尊い生命を捧げられた御祭神への奉慰顕彰のため、また皆様が日々お健やかにお過ごしいただけますよう、祝詞を奏上し祈念申し上げます。(https://www.yasukuni.or.jp/e-worship/)

*靖國神社の由緒 靖國神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社しょうこんしゃがはじまりです。/ 明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社しょうこんしゃに御親拝の折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。(中略)

 しかし、そうした大変革は、一方において国内に避けることのできない不幸な戦い(戊辰戦争)を生み、近代国家建設のために尽力した多くの同士の尊い命が失われる結果となりました。/ そこで明治天皇は明治2年6月、国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために、東京九段のこの地に「招魂社しょうこんしゃ」を創建されたのです。
 この招魂社が今日の靖國神社の前身で、明治12年(1879)6月4日には社号が「靖國神社」と改められ別格官幣社に列せられました。/ 明治天皇が命名された「靖國」という社号は、「国を靖(安)んずる」という意味で、靖國神社には「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。(https://www.yasukuni.or.jp/history/detail.html)

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 もともと、神社仏閣に「お参り」するという習慣をぼくは、自分に育ててこなかった。いや、それはきっと両親の影響が大きかったに違いないと、今では考えています。信仰心というものがそもそも、ぼくにはなかったし、だから何とかしてそれをもとうという、殊勝な心がけがありませんでした。もちろん、お寺や神社には何度も出かけたし、それなりに関心を維持してきました。この靖国神社にも何度でかけたでしょうか。上京直後はよく通いました。一つは花見、ある時は建物見学でした。もちろん「靖国」の由来は知っていました。だからといって、「拝殿に額ずく」ということにはなりませんでした。実に篤信家からすれば、「罰当たり」な人間ではあります。

 初詣というものには出かけたことがありません。この無関心は、京都にいたころからです。手を合わせるとか、お経(お題目)を唱えることが「性に合わない」ということでしょう。ぼくは山登りを若いころからしていました。目的は「自主トレ」でしたが、おりよく「日の出」に遭遇すると、一応は敬虔な気分になります。それは花や植物に見とれるときの気持ちによく似ているかもしれない。心中ひそかに、「手を合わせ」ていることがあったかもしれません。

 この神社の「オンライン参拝」は、時宜にかなっているというか、お手軽というのか。お札も祈祷もすべて「stay home」で可能だし、支払いはクレジットカードのみ。はたして、霊験はあらたかでしょうかね。「ふるさ」のなかに「新しさ」を生み出す、さすがというべきか、

 混雑の中、マスクをして、たくさんの「善男善女」が神社仏閣に参詣する時期です。面白いというと顰蹙を買いそうですが、このような風習はどれくらい古いのか、いやじつはかなり新しいのではないか。ぼくは後者の説です。村の鎮守や産土(うぶすな)神社にはいつでも詣でたでしょうが、大勢が挙ってお参りするという「初詣」の習慣は、かなり新しいものだと考えています。かなり以前は、めいめいが各家で信心を守っていた中での一コマでした。(この点に関してはいずれかの日に)

 「困った時の神頼み」「地獄に仏」というように、娑婆で生きていると「避け得ない災厄」「待ったなしの困難・苦悩」が常に襲ってくるのですから、あらかじめそれを防ぐためにもお参り(参詣)は大事なのでしょう。それにしても寺社は「見事な営業」を生みだしたものです。その走りは京都でしたね。観光と信仰は隣り合わせ(仲間同士)だったのです。

(初詣のため東京の神田明神を訪れた人々(2021年1月1日撮影)。(c)Kazuhiro NOGI / AFP)

 コロナ禍の最中、必死で手を合わせ拝んでいる「信仰篤い」とみられるたくさんの人々の姿を見て、ぼくは不思議な感情に襲われているのです。感染は大丈夫か、「感染しませんように、神さまにお願いします」神さま仏さまがついているからというけれど、コロナウィルス(covid-19)は、寺社が「聖域」であることを認めたがらないのは、欧米各地を見てもわかるのです。いずれにしても、この年が、ウィルスをはじめ、厄介な災害の被害者に、どなたもならないことをぼくはこの駄文を書きながら祈念しています。(感染を恐れるなら、まず、人混みに行かないことなんですがね)

 いまや、あらゆる場面で「オンライン◎◎」が蔓延中です。これは近年の「新文明」、そうです「文明の利器」の仲間入りということか。人との交わりもオンラインで、飲み会もオンライン。教育(学校)も…。 この奔流はは押しとどめられないのでしょうか。(もちろん、その成果次第ですが)

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 光陰、何のためにか惜しむとならば…

 時節柄ですね、またまた「徒然草」です。あるいは、それは現実から逃げているんだと横やりが入りそうですが。しかし、無性にと言っていいほどに、これが読みたい、そんな気分が募ってくるのを抑えられないんです。なぜでしょうか。兼好さんは七十くらいで亡くなられたといわれている。この「随筆」を書かれたのは五十代だったとも。「寿命」が今とは比較できない、彼方の時代の人でしたから、そこからなにかを言おうとするのは正しくなさそうですが、しかし、この人の長短さまざまな文章を読んでいると、その行間から気配が感じられてくるのは、いかにも時代意識(自意識)が強すぎる一人の人間が、達観しているように見えて、実際は生きることに呻吟している様、とでも言いたくなってくるのです。勝手な言い方をすれば、人間五十にもなれば、おおよその実感というものを「己の人生」から得ているにちがいないと思われるのです。兼好さんも例外ではなかった。しかし、枯れ切ってなんかはいないのです。

 長く生きれば「悟るところ」が、早逝した人より多くなるに違いないといいたい気がしますが、そんなことはなさそうです。恥も失敗も多くなりますから。三十で生命が途切れたとしても、「人生の難問」にはきっと、それなりに対面していたのだと、ぼくには思われます。兼好や長明をつれづれに読んでいて感じるのも、そこです。また時代の早い遅い(文明の程度)を指摘したくなるけれど、それだって、ぼくたちが表面上に見るような差異はなさそうです。生老病死と言いますが、その段階ごとに、人は得るべきものを得ているのだし、それを「悟る」と言っても一向構わないでしょう。十歳は十歳なりに、三十は三十なりに、五十は五十なりに、です。

 兼好研究の専門家によっても、彼の生涯の履歴は明らかではない。どこかに謎が隠されているとは思えませんが、杳として知られない「生の奥深さ」を感じさせられるのもまた、偽りのないところです。一点の疑問もないように、歴史上の人物の履歴(謎)を明らかにするなどということはあり得ないし、あってはいけないでしょう。十三世紀末に生まれ、南北朝にかかる時期(十四世紀半ば)を生きた人で、一時期は天皇の側近として仕えていたし、歌詠みもそれなりの力量に恵まれていた。生家は神職の官だった。いってみれば「波瀾万丈」の波頭を流されつつ乗り越えようとした生涯だった。世のだれとも同じような、しかし、彼独自の生き死にを送った人でした。その「波瀾万丈」が直截・間接に活写されているのが「徒然草」でした。

 今回は、以下の二つばかりの章段を取り出してみた。

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  (その1) 「寸陰、惜しむ人無し。これ、よく知れるか、愚かなるか。愚かにして、怠る人の為に言はば、一銭軽しといへども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす。然れば、商人の一銭を惜しむ心、切なり。刹那、覚えずと雖も、これを運びて止まざれば、命を終ふる期、忽ちに至る。

 然れば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。もし、人来て、我が命、明日は必ず失はるべしと、告げ知らせたらんに、今日の暮るる間、何事をか頼み、何事をか営まん。我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん。一日の中に、飲食・便利・睡眠・言語・行歩、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇、幾何ならぬ中に、無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して、時を移すのみならず、日を消し、月を渡りて、一生を送る、最も愚かなり。

 謝霊雲は法華の筆受(ひつじゅ)なりしかども、心、常に風雲の思ひを観ぜしかば、慧遠、白蓮の交りを許さざりき。暫くもこれ無き時は、死人に同じ。光陰、何のためにか惜しむとならば、内に思慮無く、外に世事無くして、止まん人は止み、修せん人は修せよ、となり」(第百八段)(島内校訂・訳)(既出)

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 「束の間(一分一秒)」を惜しむ人はいません。これは道理がわかっているからなのか、あるいは愚かだからなのか。愚か者のために言っておくと、「一銭」は軽いというが、これを積み重ねれば貧者は富者にもなる。商人の一銭惜しみ、それは切実なものだと分かります。「束の間」は、知らぬ間に過ぎていく。でもこれをそのままにしておけば、あっという間に最期(命を終ふる期)が来てしまう。

 「然れば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし」道理にかなう生き方を求める人は、遠い先の歳月を惜しんではならない。それよりも「この、今の瞬間」が空しく過ぎ去ることをこそ、惜しむべきです。誰かがやってきて、「君は明日、死ぬでしょう」といったなら、今日が終わるまでに、いったい何をして過ごすのか。「我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん」生きるのに必要なこまごましたことをしているうちに、日が暮れてしまう。一日を無駄にし、一月をもそうして過ごし、やがて一生を送ってしまうのだ、これほど愚かしいことがあろうか。

 謝霊雲という人は法華経の翻訳筆記者でしたが、「常に風雲の思ひを観ぜしかば」いつも世に出たい出世したいビッグになりたいという、抑えられない邪念でいっぱいでした。そこで、慧雲は「白蓮(同志社)」への参加を認めなかった(まっとうな「仏道者」としなかった)。なぜ生きるのか、この問いかけがなければ「死人に同じ」です。なぜ時間を惜しむかと言えば、心のうちに邪念がなく、世俗への無用な関心をもとうとしない、そんな人は仏道に励む、そのために時を惜しむのです。(左写真 兼好墓石、京都市内双ヶ岡長泉寺内)

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 この雑文集のどこかで、高校時代に古文の時間に、「徒然」の一説を読まされて、大いなる失敗をした話を書きました。ぼくの愚かさのゆえでしたが、今もこれを書きながら、その場面を思い出しています。そして、こんな兼好さんの「哲学」「人生観」が、怠け心いっぱいの高校生に分かるはずがあるものかと、再確信してもいるのです。国語に限らないが、学校の教室や授業には、越えられない限界、入ることのできない領域があることを教師もせいとも、はっきりと悟った方がいい、改めてそう考えます。学校には「教える」「授ける」「学ぶ」「習う」という核心の部分に致命的な欠陥があるのです。できないことをしようという「無謀さ」、がそれです。限界を熟知するところから、「学校再生」は、その始まりの端緒をつかむでしょう。

 「光陰矢の如し」と「読めて、書けて、説明ができる」と合格(百点)ですというのは、とてつもない道徳的な頽廃を示しているとぼくは感じるし、やってはいけないことをやっているという意味では、何か罰当たりな仕業のようにも思われてくるのです。(この点については、この雑文の山の中で、同じことをあちこちでくりかえしています)

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 その2 「一道に携る人、あらぬ道の筵(むしろ)に臨みて、「あはれ、我が道ならましかば、かく、余所(よそ)に見侍らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常の事なれど、よに悪く覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな、羨まし。などか、習はざりけん」と言ひて有りなん。我が智を取り出でて、人に争ふは、角有るものの、角を傾け、牙有るものの、牙を咬み出だす類ひなり。

 人としては、善に誇らず、物と争はざるを、徳とす。他に勝る事のあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才芸勝れたるにても、先祖の誉れにても、人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心に、若干(そこばく)の咎有あり。慎みて、これを忘るべし。烏滸(おこ)にも見え、人にも言ひ消(け)たれ、禍をも招くは、ただ、この慢心なり。

 一道にも、誠に長じぬる人は、自ら、明らかに、その非を知る故に、志、常に満たずして、終に物に誇るる事なし」(第百六十七段)(この部分は、機会を改めて。熟読するだけが肝要ですから)

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 兼好さんの真髄はどこにあるか。ぼくにはよくわかりませんが、どこまで行っても経験主義者だったという点、どんなことでも、自らの経験から学んだという意味では、彼はプラグマティストでした。こういって、彼がプラグマティズムの「先駆者」だったなどというつまらないことを言うのではない。どんな人でも、自分がやってみて、その結果や経験から物事を判断し、価値を規定する思想(生き方)を作り出したという点で、あえていえば、それを「プラグマティズム」というばかりです。観念や教典・経典からの「知識」にものを言わせなかった人でした。ぼくが彼を好むのは、もっぱらこの傾向からでした。(今でも、彼は高校生などの「教材」(お手本)になるような人物じゃないと、言いたいですね)

 「謝霊雲は法華の筆受(ひつじゅ)なりしかども、心、常に風雲の思ひを観ぜしかば、慧遠、白蓮の交りを許さざりき」と。兼好自身が謝霊雲でなかったとは、ぼくには言えない。若い兼好(かねよし)も世間並みに、「立身出世」を求めなかったはずはないし、その道が閉ざされたならどうするか、彼は「徒然草」を書いた。怨み辛みではなく、人の生きる様子(生き方の流儀)は、どこかできっと重なるものです。時代や社会を隔てているとみえるものは、実は表面・皮相ではないかとぼくはみなしています。彼我の差は、あるようでいて、ないんですね。つまりどんな人も、自分で歩き、自分で転び、自分で立ち上がり、泣いたり笑ったり、そんなことをして生きているのですよ。(⇑ 徒然草絵巻・海北友雪(1598~1677年)(サントリー美術館蔵)

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