達人の、人を見る眼は、少しも誤る所、有るべからず。
例へば、或人の、世に虚言を構へ出して人を謀る事有らんに、素直に真と思ひて、言ふままに謀らるる人、有り。余りに深く信を起して、猶、煩はしく虚言を心得添ふる人、有り。また、何としも思はで、心を付けぬ人、有り。また、いささか覚束無く覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じ居たる人、有り。また、真しくは覚えねども、人の言ふ事なれば、然もあらんとて、止みぬる人も、有り。また、様々に推(すい)し、心得たる由して、賢げにうち頷き、微笑みて居たれど、つやつや知らぬ人、有り。また、推し出(いだ)して、「あはれ、然るめり」と思ひながら、猶、誤りもこそ有れと、怪しむ人、有り。また、「異なる様もなかりけり」と、手を打ちて笑ふ人、有り。また、心得たれども、「知れり」とも言はず、覚束無からぬは、とかくの事無く、知らぬ人と同じ様にて過ぐる人、有り。また、この虚言の本意(ほい)を、初めより心得て、少しも欺かず、構へ出(いだ)したる人と同じ心に成りて、力を合はする人、有り。
愚者の中の戯(たわぶ)れだに、知りたる人の前にては、この様々の得たる所、言葉にても顔にても、隠れ無く知られぬべし。まして、明らかならん人の、惑へる我等を見ん事、掌(たなごころ)の上の物を見んが如し。ただし、かやうの推し量りにて、仏法までを準(なずら)へ言ふべきにはあらず。(第百九十四段)(出典は既出)
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達人は大観す、などと言います。達人とは「技芸・学問の奥義に達している人。達者。深く物事の道理に通じた人」(デジタル大辞泉)とする。そんな人がこの世にいるのかしらと大いに訝りますが、いたとしても彼・彼女はまず「判断を誤ることがない」というのでしょう。間違えないというのは、人間の分際では不可能です。兼好さんが「達人」だったかどうかをいうのではないし、達人でなくても構わないのです。要するに達人と称される稀有な人は「他者を見る目が曇ることがない」という、そこを弁えているのが大事だというのです。どんなに鋭い眼光を持っている人か、一例を挙げましょうと、「虚言」に対する「凡人」「愚人」の多様反応型を例示して、こういう愚者・凡人でない人こそが、「達人」なのだと、兼好さんは述べるのです。「嘘つき」に直面して、人はどんな反応を示すのでしょうか。兼好先生曰く。
①「嘘を、そのまま真だと思い込む人」、②「嘘を信じすぎて、その上塗りの嘘を言う人」、③「嘘であろうが、なんとも思わない人」、④「「嘘を聞いて、どうしていいかわからない人」、⑤「本当とは思わないけれど、あの人が言うのだから、そうかなと思う人」、⑥「何かと推量し、賢そうにうなずくが、まったく「嘘」であることがわからない人」、⑦「自分で推量し、ああそうかと思うが、ひょっとして間違いかも、と怪しむ人」、⑧「別段どうということもない、と手を打つ人」、⑨「嘘は見抜いているが、それについて、知らない人みたいにふるまう人」、⑩「嘘は知っているのだが、それをとやかく言わず、その嘘を言い出した人の心持になって、嘘を広めようとする人」 これを「新聞の世論調査風にすると、どういう結果が出るか。

総理が「嘘をつく」はずがないというのは、誰しもが考えたいところ。「あの人」はうそつきだと、大方の人は知っていた。そして幸か不幸か、「総理」と「あの人」が一つになった。そうなると、総理に肩をもつか、あの人の素性に反応するか。それとも「あの人は総理である」、そう考えたくなってしまう人が大多数じゃなかったか。「嘘つき」が「総理」になっても、「嘘をつかない総理」ではなかったことは事実として明らかでした。
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この島にも「世に虚言を構へ出して人を謀る事有らん」とする人がごまんといますが、中でも飛び切りの「嘘つき名人」「嘘つき心臓(晋三)」が出現して、この島の政治屋心持ちまでも壊しかけて、いや壊してしまったかの感があり、新年に入ってもその「虚言(そらごと)」の放った毒が消えないままで、あるいは人によっては致命的な痛手を負ったかもしれないのです。この「天才嘘つき」の出現に遭遇して、所在は不明ですが、「達人」はいかなる判定を下すのでしょうか。その前に、嘘をつかれた人間の反応には、なんと「十類型」あると兼好氏は言うのです。こうまで「嘘つき」の反応にこだわるには何か理由というか、背景がありそうですが、詳しくはわからない。きっと怨み骨髄に達する「嘘」に心を踏みにじられたのではなかったか、とぼくは邪推しているのです。

ともかく、たった一つの嘘つきの「嘘」に対して、こんなに多様多彩な反応があるのですね。健康という人の執念深さを知らされる思いがしてきます。そして、我が長州出の「嘘つき」が「我が世の望月」を眺めることが出来たのは、いったい嘘反応「獣類家」のどれとどれが力を与えたからだったのか。ぼくは得と考えなければならない宿題を。年末年始に課されたような気がしているのです。①から⑩までのなかに、この島ンチュウの騙された人(ぼくもそこから逃れられません)すべてが編入されることは間違いなさそうです。体を張って「この嘘つき」と、彼の嘘を暴いた人がいなかったのですから、島の住人の深手は、癒されそうにないです、③⑧を除いては。

「達人の、人を見る眼は、少しも誤る所、有るべからず」という、その「達人」はいったいどこにいるか。この島にいるのか。過去にいたのか。これから出てくるのか。あるいはその達人をも欺いた「嘘つき」の桜花爛漫だったというのでしょうか。きっと功名な嘘とは、じつは驚くほど単純なものだったのでしょう。彼の言うことがすべて正しいわけではない、すべてが嘘でもないという、微妙な虚実の按配(割合)が、問題を不透明にしているのだと言えます。ぼくは、実に短純明快に「補填はしていない、全額事務所が負担していた」とみています。(「誰一人として、参加者が沈黙を決め込んでいる理由は、そこにあるんじゃないか。ぼくは検察でも弁護士でもなく、一有権者ですから、その分だけは、「虚言者」は責任を果たさなければならぬと考えている。まだごくは、途方もない「嘘」の直撃を受けて、立ち直れていない。たちなおるために、そして従来のように「自主トレ」ができること路まで、心身の健康を回復したい。年頭の所感だね)

「明らかならん人の、惑へる我等を見ん事、掌の上の物を見んが如し」という。姿を現さぬ「達人」は、おそらく、我らが心を大局高所から、やすやすと「俯瞰」しているに違いない。雑音に惑わされず、心を静かに持すれば、きっと「掌の上の物を見んが如」く、ぼくらにも真偽の見分けがつくのかもしれない。誠実と不誠実をあからさまに見抜く、そのような感受性を、ぼくらごとき衆生もまた、育て上げることが出来る、それを身をもって証明すべき生き方が、今も求められているのです。「仏法までを準(なずら)へ言ふべきにはあらず」というのは、嘘を見抜くのに、わざわざ「仏法」を持ち出すまでもあるまいに、と兼好さんは言うのです。けったいな陰謀論の如きも、歪んだ「仏法」の類かもしれない。(左上は京都市右京区双ヶ岡の「兼好法師旧跡碑」)
屠蘇なくて酔はざる春や覚束な (漱石)(大酒呑みだったぼくが、酒なしの正月を迎えるのは何年目になるか。「覚束ない」ということはまずなくなりましたね)
(「自主トレ」もやがて、開始以来、一年がたつ。効果はいまだ不明です。自覚がないといっておきます。無理せず、無駄をしないという鉄則を守ろうとしたのではありませんが、毎日の食事や入浴のように、必要に見合った分だけを、と心がけてきました。今少し続けること、それが肝要というのでしょうね。やがて成果となって、いやいや、そんな「期待」「願望」は無用ですね)
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