
【水や空】「十三月」に思える 日本SF小説の始祖といわれる海(うん)野十三(のじゅうざ)は戦争末期の1944(昭和19)年12月、日記を書き始めた。住んでいる東京で日に日に空襲が激しくなり、記録を残すことにしたと、日記の前書きにある▲大みそかの夜にも3回の来襲があった。45年の元日にこう書いている。〈「一月ではない、十三月のような気がする」とうまいことをいった人がある〉(「海野十三敗戦日記」青空文庫)▲空襲に次ぐ空襲で、旧年も新年もあったもんじゃない。そんな嘆きが交じっている。次から次にウイルス禍の波が押し寄せ、年をまたごうとするいま、そこまで来ている年の初めが「十三月」にも思えてくる▲今のところ第3波は収まる気配がない。県内でも感染確認の数は高止まりが続き、首都圏などから帰省する人もずいぶん少ないらしい▲皆が集まりその年の苦労を忘れること、つまり「年忘れ」を今年は多くの人が自粛した。歳末の街のにぎわい、年忘れ、帰省で混み合う駅や空港…と、1年に終わりを告げる風景が見られないまま、ひっそりと年が暮れていく▲新しいカレンダーをめくってみたら「13月」とある-わけがなく、鮮やかに「1月」と印字されている。〈初暦知らぬ月日の美しく〉吉屋信子。13月、14月、15月…と我慢や不安を持ち越すことになりませんよう。(徹)(長崎新聞社・2020/12/30 )
いま、2020年「大晦日」の午前七時過ぎ。眼前に眩しい太陽が顔を出し始めて、すこし経過したところです。昨日の午後にはかなり大きな揺れの地震があり、さらに歳をまたいで大雪が降り続くと予想されています。新型コロナの感染者数も死者数も一向に衰えを見せておらず、ゆく年くる年もないような、暗澹として朝を迎えている。政治や行政の長は、馬鹿の一つ覚えの如くに(自分を棚に上げて)「静かな年末年始を」というばかり、このままでは「緊急事態宣言」を「要請」したり「発出」したりしなければならないとかなんといって、まるで庶民を脅しているのか愚弄しているのか。年始からの「惨状」が年末に至って隠し果せないような事態にいたっているのが、この島の「政治(家)状況」です。くれぐれも、わが身は己で守るほかないと、心したいと改めて気を引き締めているところです。

新玉の春もあるなし年の暮れ(無骨)
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【国原譜】「大晦日分別ばかり残りけり」(森川許六)。大掃除の分別ごみが残ったわけではない。なすべきことが残ってしまったというべきか。● 課題は先送りされるのが常。消費増税が半年延びて、2015年10月実施が民主税調で了承された。苦い薬は飲みたくないが、飲むなら早いほうがよい。● 国の財政を見れば、これからの社会保障は、消費税として国民が負担するしかないと誰もが感じている。この痛みをどう分かち合うかだろう。公平性の担保がほしい。● 当初案より半年遅れでも、首相が「政治家としての集大成」と見得を切った以上、決意の中身に注目したい。離党者が出ても「素志貫徹」がぶれないよう。● 税金だけでなく、私たちの社会はお互いに助け合わなくてはやっていけないのだと痛感した1年だった。被災地救援に黙々と向かって行く若者がいた。多額の寄付を人知れず届けている人がいる。● 善意が裏切られてはならない。それを生かし切るのが政治だ。一歩でも前へ進まないと明日はない。あれこれあったが、取り急ぎ「いざや寝ん元日はまた翌の事」(与謝蕪村)(コ)(奈良新聞・2011.12.31)
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ぼくの気分は明治二十八年の大晦日に移っています。またもや、子規と漱石です。「男心に男が惚れて」だったかどうか、すこし怪しい二人の関係でしたが、それぞれに、一端の骨のある青年でしたね。子規の死後に書かれた漱石の、子規の墓碑への、偽りのない「銘」のような文章です。
漱石「正岡子規」
「非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わして居ったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。こちらが無暗に自分を立てようとしたら迚も円滑な交際の出来る男ではなかった。例えば発句などを作れという。それを頭からけなしちゃいかない。けなしつつ作ればよいのだ。策略でするわけでも無いのだが、自然とそうなるのであった。つまり僕の方が人が善よかったのだな。今正岡が元気でいたら、余程二人の関係は違うたろうと思う。尤も其他、半分は性質が似たところもあったし、又半分は趣味の合っていた処もあったろう。も一つは向うの我とこちらの我とが無茶苦茶に衝突もしなかったのでもあろう。忘れていたが、彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大に寄席通を以もって任じて居る。ところが僕も寄席の事を知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう。それから大いに近よって来た。

彼は僕には大抵な事は話したようだ。(其例一二省く)兎に角正岡は僕と同じ歳なんだが僕は正岡ほど熟さなかった。或部分は万事が弟扱いだった。従って僕の相手し得ない人の悪い事を平気で遣ていた。すれっからしであった。(悪い意味でいうのでは無い。)」(明治四十一年初出)
この二人の「想い出」のよすがに。明治二十八年の大晦日にタイムスリップしましょうか。

前年春、子規は陸羯南の住まいの隣(根岸)に転居。羯南主宰の「日本」に入社。四月には日清戦争の従軍記者として渡清。五月には鴎外と現地で語り合う。帰途の船上で喀血し、神戸で入院。その後小康を得て松山に帰省。松山中学の教師だった漱石の住まいに居候。やがて健康を回復し、八月末に帰京、その途上に大阪、奈良などによる。この年の十二月、虚子に「後継者」を要請するが断られる。虚子は俳句より小説を、という時期であった。(ぼくは虚子の短編小説をいくつか読みましたが、すべて読了できませんでした。初志を曲げて、俳句に戻ったのは幸いだった)
そして、いま二十八年の大晦日。居住まいをただして、気の置けない友人を待つ風情です。(新年には「句会」が予定されていた。それにはやがて鴎外も参加する)
梅活けし青磁の瓶や大三十日 梅活けて君待つ菴の大三十日 何はなくとこたつ一つを参らせん
漱石が来て虚子が来て大三十日 思ふこと今年も暮れてしまひけり
子規二十九歳の大晦日(おおつもごり)でした。このころから、宿痾(痼疾)が始まっていた。新年睦月末には鴎外の「めさまし草」が創刊され、子規は「俳句革新」の健筆を振るいはじめます。

●陸羯南=1857-1907 明治時代の新聞記者。安政4年10月14日生まれ。内閣官報局勤務ののち,明治21年谷干城(たてき)らの援助をうけ,新聞「東京電報」を創刊。22年同紙を「日本」に改題,39年まで社長兼主筆をつとめ,一貫して国民主義の論陣をはった。明治40年9月2日死去。51歳。陸奥(むつ)弘前(ひろさき)(青森県)出身。司法省法学校中退。旧姓は中田。本名は実。著作に「近時政論考」「原政及国際論」など。
【格言など】民の声は必ずしも音あるにあらず,音あるものまた必ずしも民の声にあらず(「無音の声」)(デジタル版日本人名大辞典+PLUSの解説)
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