no cure for a fool

 まだ腰が、肩がガタついている。あちこちの力が抜けたのです。誰かの吐いた嘘に「脱力」機能があるとは、迂闊にも油断していたのです。改めて見せつけられた「嘘力」から、もう五日もたつというのに、不愉快きわまりない気分が抜けない。まるで筋肉が萎えたような具合です。世の中に生きる際、いろいろと「苦痛の種」は、まるで地雷のようにあちこちに撒かれているし、それを踏んだがために竹箆(しっぺ)返しを食うことはしょっちゅうです。そんな時は、いつも後悔に似た気分を持ってしまう。「自分で踏まなきゃいいじゃないか」と。今回もそうだ。はなから無視、無関心、そう固く決めていたんですが、「魔が差した」か。とくと見てしまったのです、ネットで。25日の国会質疑の模様です。今はもう、口(活字)にするのも気が滅入るのですが、それを乗り越えないとこの先が思いやられるので、年末の大掃除、そのつもりで、いやな記憶も「雑文の屑籠」に放り込もうという魂胆です。一種の精進落としか。

 いつか使う(再読する・利用する)機会もあろうと、ぼくはいくつもの書きかけの駄文や「記録」「資料」「新聞記事」などをたくさん保存しています。ぼくの一大悪癖でもあるのですが、年末恒例(ぼくには年末の恒例なんか何もありません、世の習慣に倣ってです)の大掃除のホウキやハタキの使い方のつもりで(コラム氏には申し訳ありません、謝罪します)、二つの旧聞と旧聞になりかけを「掃きだし」がてら紹介します。

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【春秋】電車で「すぐに降りますので、どうぞ」…高校生がついた優しいうそ

 彼女はエープリルフールが嫌いだった。彼のうそによくだまされるからだ。重い病気になった、転勤が決まった…。ついつい信じて、泣いてしまう▼また訪れた4月1日。もうだまされないと用心していた。彼の部屋で過ごすうちに夜も更けて、午前0時近くに。今年はうそはなしかな、と思っていたら、彼が真顔になって「結婚しよう」▼そんな大事なことでうそをつくなんて。号泣する彼女に、彼は優しく言った。「だましてごめん。でも、うそはあれ」と壁の時計を指さした。実は時計の針を遅らせていて、日付は変わっていたのだ。彼女を見つめ、彼は「一生、君をだまさない。結婚してください」▼ネットで見掛けた体験談を、ちょっと脚色したお話。エープリルフールにつき、拙文お許しを。ネット上にはこんな話も▼混んだ電車の中。立っていた妊婦らしき女性に、高校生が「すぐに降りますので、どうぞ」と席を譲った。電車は次の駅に。ホームに出た高校生は、別の車両の扉から再び車内へ。女性に気を使わせまいとした、小さな、優しいうそだった▼新型コロナの感染拡大で外出もままならず、鬱々(うつうつ)とした日が続く。こんなときは悪質なデマや根拠のない中傷が飛び交いやすい。事の真偽にも神経を使いがちだ。けれど、決して人を傷つけず、すぐにばれて、笑える-。そんな優しい「うそ」を楽しめる心の余裕を、きょうくらいは持ちたい。(西日本新聞・2020/4/1 10:30 )(2020/10/20 16:38 更新)

 よくある世間話、それ以上でも以下でもないような「下世話」なネタだと思う。「世間で人々がよく口にする言葉や話」(デジタル大辞泉)の域を一歩も出ていない。だからいけないというのではありません。「一生、君をだまさない」というのは「嘘か誠か」、この時点ではわからない、あるいは「真っ赤な嘘」だったかもしれない。でも、その「嘘」(と決まったわけではないが)で、たとえ一瞬でも彼女が「笑顔」になったのなら、この手の「嘘」はつき甲斐があろうというもの。確かに「コラム」氏の脚色で、あんまりスマートじゃありませんが、でもぼくにはこんなのがいい、読んでほっとしますから。「騙されるなら、見事に」という感覚がぼくにはあります。「」嘘でもいいから、言ってちょうだい」と。(でも、「一生騙さない」と、まるで生命保険みたいなことはぼくには言えない。せいぜい二、三日の保険ならなんとか、ぼくはその程度です。でも気が付いたら、五十年ですよ、われわれ夫婦は、さ。「あっという間の煙草の煙」)

 次の高校生の逸話は、じつは実話。ぼくは何度でもこんな「嘘」(嘘だろうか、気づかいでしょ)をついてきました。こんな「小さな嘘」くらいの心持で世間は寄りあって生きていけるんですね。「袖すりあうも他生の縁」とか。気遣いや心遣い、たまには小遣い、それを嘘の範疇に入れたくないね。また言う、「嘘」を楽しめる心の余裕、そんなものはぼくにはないし、それこそ、「次で降りますから」というのは「楽しい嘘」ではない。いわば「本心から、席を譲りたい」という心持が主な動機となっていたのでしょう。ここでは「嘘」は付録にもならない。それを嘘というのは、悲しいかな、情けない話です。

 二つ目のコラム、題して「リンゴと聖書と1ドル札」の三題噺です。これは有名になっていますから、この話をご存じの方は多いはず。ちなみに「三題噺」ですが、今でも寄席では盛んにやっています。客からお題目を三っつばかりもらい、「いただきました」「整いました」とかいって、それを小話にまとめるという色物だと、ぼくは見ている。本筋の落とし噺じゃなかろうから。(この客が、たいていは「サクラ」だったという。なんでもそうで、うまい話には裏がある。いまなら「台本」「脚本」ですね。下手な台本ばかりとは言いませんけど、国会にも台本が出店を出しています、✖✖ライターだとさ)

【余録】父親がリンゴと聖書と1ドル札を息子の部屋に置いた。リンゴをとれば農業を継がせ、聖書なら牧師、札なら商人にするつもりだった。しばらくして部屋をのぞくと息子は聖書に腰掛けてリンゴを食べていた▲「おい、ドル札はどうした」。父親が聞くと息子は「オレ、知らないよ」。結局、息子は政治家になった。――アメリカンジョークだが、政治家にはうそと金がつきものということだろう。「オレ、知らないよ」がキーワードである▲こちらも政治資金規正法違反はすべてが秘書の独断専行で、当人は知らなかったとの弁明が通ったらしい。東京地検は「桜を見る会」前夜祭をめぐり同法や公職選挙法違反の容疑で告発されていた安倍晋三(あべ・しんぞう)前首相を不起訴処分とした▲刑事責任追及での「秘書の壁」はやはり厚かったが、安倍氏が国会で繰り返した“虚偽答弁”の責任も重大だ。秘書を雇う安倍氏は真実を知りうるし、知らねばならぬ立場だった。「知らなかった」だけでは国民への弁明にならない▲「桜」前夜祭の費用につき「事務所の関与はない」「差額の補塡(ほてん)はない」など、事実と異なる答弁は118回に及んだ。不起訴処分を受け、安倍氏はきょう国会で答弁の訂正を行う。誰もが納得いく説明と責任の取り方が必要である▲「政治家がうそをついている時って、どうやって分かるの?」「連中が口を開いた時だ」――これもジョークだが、今は笑えない。証人喚問を求める野党がいうように、今度は真実だという保証がほしくなる。(毎日新聞「余録」・2020/12/25)(蛇足 「聖書に腰掛けて」とはどういうことですか?)

 「刑事責任追及での「秘書の壁」はやはり厚かったが」と、あっさりすませているところは、きっとこの「余録氏」は「サクラ(囮)」だとぼくはみなしている。「図星」だと思うよ。ぼくは国会の質疑を聞いていても感じたのは、「前首相は嘘をついている「嘘でしょ」の一点張り。競馬でも花札でも、賭け事は何でも、「一点張り」は危険です。投網をかけるように、疑似餌を撒くように、外堀を埋めるように、でなければ、「逃がした魚は大きい(けど、腐っていた)」と、後で臍を噛むことになります。

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●いってん‐ばり【一点張り】 の解説 賭け事で同じ所だけに金銭をかけること。 他の事を顧みず、その事だけを押し通すこと。「勉強一点張りの生活」「わからないの一点張りでその場をしのぐ」(デジタル大辞泉)

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 その「一点」に集中して、責めまくっているように映りましたが、「嘘つき烏」は抗弁も弁解もしていないのです。誤魔化してすらいなかった。お互いが話す(使っている)言葉が異なっていたんですよ。通訳しなければ、話に埒が明かないのは、これまでにも経験済みだったといいたいですね。何を「経験」下いたのか、責める(攻める)側は。「秘書がやった」「秘書の仕業」で、俺は知らなかったと、「誠心誠意からの嘘」を彼は主張しているのです。闘う土俵がちがっていたんです。嘘つきガラスには「土俵」なんかなかった。

 相手がこんなに上手では、並みいる議員さんもまず太刀打ちできないという画像・画面でした。検察は「総理の嘘」なんかに興味はない(ふりをして)、はじめから「不記載」が問題なのだから、秘書を処罰(罰金百万円)した。それで、一件落着。海釣りなんかで「ダボハゼ」などという下手は狙わないのが繰ろうと、つまりプロです。ここで貸しを作っておいて、いずれの「おんとき」には返してもらうという算段がありました。地検は、捜査をした振り、事情聴取をした振り、罰則を科した振りと、「…振り」のオンパレードです。ぼくは検察も見事な「サクラ」だと確信しています。

 かんたんに「嘘」と言いますが、この元総理(嘘をついたのは現役総理時代)のそれは「天下一品」「人間国宝」級の代物です。名人芸ですね。質問者が何とかできる相手ではない。シャーシャーと「嘘を垂れ流す」というのも彼の至芸です。まさか「総理は嘘をつかない」と、勝手に信じ込み思い込んでいた方が悪い。「正直者はバカを見る」というやつでしょうか。(「悪賢い者がずるく立ち回って得をするのに反し、正直な者はかえってひどい目にあう。世の中が乱れて、正しい事がなかなか通らないことをいう。正直者が損をする」(デジタル大辞泉)本当にそうでしょうか。「嘘つきは得をする」「正直者は損をする」というなら、誰が得して、誰が損したのか。これは損得の問題ではなく、次元の違う話だといいたいね。

 元総理個人に限定して、今回の問題をいうなら、国家・国民に与えた「損失・迷惑・名誉棄損」などを勘案すれば、もちろん、「切腹」ものです。のうのうと国会に居座る気が知れないというのでしょう。ぼくが、どうにもやりきれないと泣きたくなるのは、「気が知れない」という「気」を彼は待っていないということ、「心から謝罪」とかいうけれど、その「心がない」というのが彼の天稟・天性であるということです。「嘘」がわかるのは「ホント(実)」を知っているからですね、世間では。でも、これは「嘘」がなんであるかを知らないのだから、「自分が嘘をついている」という自覚が働かないのは当然です。これを「病気」といってはみもふたもなくなりますが、要ははそのようなレベルの話です。嘘を言ったのではなく、「事実と異なる点」があったという、このあたりは至芸です、大勲章授与、座布団五十枚ですね。(腹式呼吸といいますが、こちらは嘘式呼吸で、嘘で「阿」といい、嘘で「吽」というのです。吸うのも、吐くのも「嘘」だらけ) 

 つまるところ、ぼくたちは「全員がサクラ(囮)」にさせられていた、なっていた、という実に情けない事態だったのですね。この何幕物かの芝居の、一方の登場人物であり、席料を払った見物客だった。そして、時と場合にあって、「いよー、大統領、いや総理大臣!」「待ってました、アベノマスク!」「いよー、山口県!」などとを歓喜して囃し立て、大挙して「大向こう」の座席占めていたのです。「新宿御苑」も大向こうだったね。彼の演じる極上の「嘘芝居」は大向こうを唸らせた、名人芸だった。「成田屋ー」「音羽屋ー」「待ってましたー、シンゾー!(心臓!)」と掛け声をかけ通しで、気が付いたら「歴代最長の嘘つき総理」という名誉を献上したのです。これはだれか特定の人間のしわざ(犯罪)ではなく、全員参加の結果だった。島を挙げての「一場の芝居」(とても長丁場でしたが)。いったい、何度選挙があったことか。こいつが「嘘つき辞任」した直後の支持率は七割を超えていました、ともろもろの「サクラ新聞」は報じました。よほど人民は、嘘つく彼がお気に入りだったんだ。「われわれ」が「心からお詫び」というか、一から出直すという覚悟を決めて生きようとしないかぎり、再生の道はないのだと思う、だから「やり切れない」のです。自己を見直し、他者を見直す、人を見る目を深く養うのが何よりも優先・先決問題でしょうよ。

 彼が米国の大統領と「意気投合」したのは「同類」「同病」だったからであり、二人の仲を他国の首脳は「信じられない」という胸のうちを隠さなかったほどです。トランプとトランペット、いかにも似合いの夫婦ではないけれど、それに近い関係だった。さらに言えば、二人ともに、相手を「心から尊敬」などしていなかったというところもそっくりでした。米側は「脅せば(強請(ゆす)れば)、金を出す」とみなしたし、島の方は「自分を高く見せるには、やつは最高のカモ」と瀬踏みしていた。これを「友情」というなら、動機が「不純」な「交友」だったとなる。両側の人民は「いい面の皮」だった、そういうことになります。 

 両者は余人をもって代えがたいといっていい。方や「七千万余票の支持者」があり、こなたは「七年八か月の最悪不当(不倒)政権」だった。どちらも「潔くない」のは、自分が「潔い」と盲信しているからです。その証拠に、再び、三度、「表舞台に登場」を念じています。大向こうには浮かれ(陰謀論)信者が陣取っている。この「期待に応えなけりゃ」と、厚顔無恥のご両人は手ぐすね引いて、捲土重来を期しているのでしょう。出馬しなければ、きっと「in prison」ですね。

 どんな場合でも、選挙(投票)する人間は賢くなければならないと、痛感している。ご両人も、堂々と「選ばれた」トップだった。こういうことはいつでも起こりうる。だから、「民主主義」というのは「最悪の制度」だ、賢い人間が「選挙をするのでなければ」です。(後援会の関わりをだれも見逃しているようにも思われます。「前夜祭」の宴会費用は、すべて「供与」「全額補填」(公選法違反の疑いを持っています、ぼくは)だったんじゃないですか。どうして宴会参加者は「沈黙を決め込んでいるの」ですかね。嘘に加担していたとなりますね。自他の過ちを救済する機会にもなりますが)

 「馬鹿に付ける薬はない(no cure for a fool.)」といいます。ぼくたちに何か手があるのか。それぞれの「悪質(fake)性」に気づかせるには、どうするか。もっと書きたいのですが、やむを得ず中座します。今これを書いていて、ぼくの頭には「山縣有朋の死」などが浮かんだり消えたりを、くりかえしています。なにがいいたいか。山縣が亡くなった時、「死もまた社会奉仕」と石橋湛山は書いた。この部分はどこかで触れておきましたが、今、ぼくにはこの湛山さんの「小文」が気になりだしているのです。(この項、今日はここまで)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです