コロナにもいろいろな「仲間」がある

 【日報抄】「CORONA」。店員さんは太字の名札を下げていた。新潟市郊外の家電量販店は歳末商戦たけなわだ。「新型は消臭力が強くなりました」。暖房コーナーでファンヒーターを熱心に説明している▼三条市のメーカー「コロナ」から派遣された若手社員だった。「大変な年でしたね」。思わず声を掛けた。マスクの彼はうなずいて言う。「でも年配の方が励ましてくれました。ありがたいです」▼世界中に広がった疫病の正式名は「COVID-19」。だがウイルスの名前の一部である「コロナ」の呼び名が広がった。本来は太陽の周囲で光る輪である。クラウン(王冠)の語源で暖房器メーカーにぴったりの社名だ▼感染拡大に伴い、感染した人に対する差別や偏見の符丁にもされた。「キミのじまんのかぞくは、コロナのじまんのしゃいんです」。6月、社長が社員の子どもらを勇気づけようとメッセージ広告を本紙に載せると、共感の輪が全国に広がった▼3月、米国の俳優トム・ハンクスさんが感染した。アニメの主人公の声も務めていたため、少年から見舞いの手紙が届いた。少年の名はコロナ君。名前でいじめられていると打ち明けた。ハンクスさんは愛用のスミス・コロナ社製のタイプライターを贈り、返事にはアニメ主題歌の「君はともだち」のフレーズを記して感動を呼んだ▼年末年始はまた大寒波が来そうだ。感染予防で“冬ごもり”も長引きそう。きっとあのストーブで、身も心も温める団らんの光景が増えるだろう。(新潟日報more・2020/12/29 08:30)

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 「キミのじまんのかぞくは、コロナのじまんのしゃいんです」という社長のメッセージについて、以前このブログの中で触れたことがあります。偶然でしたが、コロナ社の製品を(二台も)使っていたから、どうしても関心を持ってしまったのです。さいわいにも、企業の業績は落ちることなく「盛業」中であると知って嬉しくなります。いまなお感染者への差別、病院勤務者やその家族に対するこころないいじめなどが後を絶たないのは、どうしたことか。このようないやな事態は「コロナ感染中」のどこにでも見られる現象なのでしょうか。きっとそうでしょう。でも、状況は似ていても、その表れ方は地域によってきっと異なるのだと、ぼくは見ています。偏見と差別、これは人間の集団にあっては、けっして克服できない課題のようにも思われてきます。まことにささやかではありましたが、長い間、ぼくはこの問題と格闘してきたといってもいいほどでした。時間が経つとともに、問題は大きく深くなってきたという実感もあります。

(それには理由がある。「女のくせに」と男が言っても見逃されていた時代が終わりつつあるということの証拠です。このような事態はなににおいても明らかです。見えなかったものが見えるようになったということですね。無視して平気だったのが無視できなくなったという段階です。難しいのはこれからですね)

 普段は地下に隠れていて(差別意識・偏見の思考)、何かのきっかけによって地表に顔を出す(差別行動・態度)。顔を出すというだけではなく、なにかと「悪さ」をする。この一年、アメリカでも多くの「差別事件に」が発生し、多くのいのちが蔑ろにされた。いつでもどこでも誰でもが「偏見と差別」の当事者(加害者であり、被害者であるという意味)になります。自分には関係ないと思っていても、そうなります。自分は加害者じゃないと意識していても、じつは加害者にもなるのです。(その反対もある)「命を守ろう」「生命を尊重しよう」という掛け声や呼びかけではまず埒が明かないのが、この問題です。人権を尊ぶ、その程度の「かしこさ」「こころつかい」があってもいいんじゃないですか。

 (ぼくは下の写真をよく覚えています。中学生で、まだ京都にいましたが、昭和三十六、三十八年豪雪は記憶に生々しく残されています。一人一台を背負って、駅まで、船着き場まで、二キロ、四キロを歩いたというのです。会社とは、職業とは、それがどういうものであるかを明示する「一枚の写真」ではないでしょうか。いまなら、さしずめ「自衛隊災害派遣」事態でした。そして、こんな企業が、この島の背骨だった時代があったんですね。今ももちろん、いくつもこのような企業のあることを、ぼくは知っています。いい会社とはと聞かれて、どうこたえるか。いつでもどこでも、この答えを求め続けたいですね。

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「1961年(昭和36)と1963年(昭和38)の記録的な豪雪により輸送路が寸断された時には、全国から届く注文に少しでも応えようと、猛吹雪の中、社員全員がストーブを一台ずつ担いで2km の道のりを最寄駅まで運び、そこから客車で輸送させました。鉄道がストップすると、4km先の信濃川にある船着場まで同様にストーブを運び、船で出荷をして注文に間に合わせました。創業の精神である「誠実と努力」で社会に貢献した象徴的な出来事だったといえます。」(https://www.corona.co.jp/company/history/)

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 この会社の宣伝をするのではありません。いまもなお、「コロナ」で社会に貢献しようとするその企業の姿勢に、かえって励まされる思いがするといいたかったのです。その一方で、「復興」にいったいどれくらい税金がかかるのか、全く予測されない福島原発事故。やがて年が明ければ十年です。これまでに軽く、いや、貴重な税金を充てたのですから、そんなことは言えませんね、言いようのないくらいに重たい税金を十兆円超も費消し、詐欺や横領や抜き取りなどをあちこちで許しながら、先行きが真っ暗な一大挑戦作業は(遅々として、遅々ながら)進められているのか。空恐ろしい「不正・腐敗」が堂々と罷り通ているというほかないように、ぼくは見てきました。(「福島原発事故とその後」については別項で扱います)原発事故の被害者になった(された)まま、行政からも見放され、見知らぬ人からも差別を受け、居場所を見出せずに「漂流」している、多くの避難者がおられる、九年目の年の暮れです。(さとみ君、「サクラ」になってる場合じゃないよ。 右下写真)

 復興五輪と銘打った以上は。嘘でもなんでも、「立派に復興」を世界に示す。そのための看板(表だけ)作業にも、莫大な税を投げ入れてきたのでした。何が何でも「五輪開催」という人々は、何を考えて「開催」を叫んでいるのでしょうか。日々感染者数は増大の一途をたどり、並行して死者もまた驚異的な数になっています。世界の各地で、コロナ(covid-19)は猛威を振るい続けています。いつ終焉を迎えるか、誰にも分らない状況で、無駄な税金を湯水のごとくに使い、いまなお「東京五輪」にしがみついている。それで何をしゃぶり取ろうとしているのでしょうか。

 誰かが決めるまでもなく、当たり前の感受性があれば、「平和の祭典」はこの災厄の時代に開くべきではないと、誰しもが認めているのです。ぼくはいつも、「開きたい、開くのだ」を騒いでいる人間だけでやればいいじゃないか、パン食い競争だろうと、税金取り比べだろうと、組織委員会の面々が率先して一肌脱いだらどうですか、といっている。「聖火リレー」とやらも、国と東京都と組織委員会の関係者で走りなさいよ、まず福島の被災現場を。(左、ここにも囮たち)

 2013年、五輪招致が決まった段階で、組織委員会は開催費用「73億ドル」と明言していました。それが次々に膨張(関係者は増長)し、今では三兆円を軽く超えるといわれています。何のための予算ですか、予算を組むたびに金額は右肩上がり、何のための五輪。たかだか三週間程度で、三兆円を突破する無駄遣い。正確には、ただ今現在でもどれだけの税金が使われているか、誰も知らないという底抜け。原発事故は「統制されている」という嘘から始まり、七千億で収まるという嘘がつづき、緊縮予算にと三百億円を削って、さらにその何十倍もの税金を計上するという売国奴ぶりです。歳毛まで待たないで、年内に「開催中止」を世界に明言すべきだし、消失した税金は「返納」してほしい。元総理をはじめ、大蔵(財務)次官たちがスクラムを組んで「税金泥棒」だったとは、情けないのを通り越す、愚挙ではないですか。はじめは「嘘」から始まった「五輪」招致。その前には賄賂を贈ってまで招致に駆け込もうとしたのでした。

 「はじめ良ければ、終わりよし」とするなら、その反対ももちろんある。こんなに「亡国の徒」がそろったのは、いつ以来でしょうか。徳川末期は言うまでもありませんが、第二次大戦の敗戦時にまでさかのぼるのか。時代も事態も、なんにも変わらないと思われるほど、人間の愚かさ(個人と言わず集団と言わず)は「不変」であり「普遍」であります。「あっという間の煙草の煙」ですが。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。