「国民の皆さんの期待に応えて」、早く消えてくれ

 前夜祭補塡の原資「手持ち資金から」 安倍前首相、議員辞職を否定

 安倍晋三前首相(66)の後援会が主催した「桜を見る会」の前夜祭を巡る政治資金規正法違反事件で、不起訴処分となった安倍氏は24日、衆院議員会館で記者会見した。前夜祭の費用を安倍氏側が補塡(ほてん)していた原資について、「私のいわば貯金から下ろしたもの、手持ち資金の中から支出した」と説明した。

 また自らの責任について、「政治責任は極めて重い」との認識を示した。一方で、議員辞職については「反省の上に立って、国民から見て一点の曇りもないように私自身が説明をしていく。政治家として国民の皆さんの期待に応えていくように、職責を果たしていきたい」と述べ、否定した。(毎日新聞・12/24(木) 18:35配信)

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 「嘘つき」が会見を開いて「謝罪」だとさ。ここでもまた、真っ赤な嘘で塗りたくったというほかない。もう触れたくないけど、この嘘つきを長期間のさばらせてたいた「政治的・道義的責任」を、ぼく自身がいだくし、それを否定しきれない、まったくのぼく個人の問題でもあることを、なんとか、はっきりと始末したいのです。「秘書が」というのは嘘つきの通り相場です。ちょっと、この嘘つきめ、天才だな。ぼくが言いたかったのは、(補塡していた原資について)「私のいわば貯金から下ろしたもの、手持ち資金の中から支出した」という方弁。「あんた、知ってたんじゃないか」、それとも「通帳」まで秘書が管理していたのか。あるい「これだけの金を何に使う」と聞かなかったのか。口を開けば、嘘しか話せない。

 もうどうでもいいのですが、この嘘つきを捕まえる仕事を放棄している役所があるし、これを食い物、使い放題に利用し「自己増進・自己達成」を図った議員連中も含めて、国会は一旦、きれいさっぱりご破算ですか。(アメリカの大統領選挙の愚図」を笑った人は、どうします)

 「反省の上に立って、国民から見て一点の曇りもないように私自身が説明をしていく。政治家として国民の皆さんの期待に応えていくように、職責を果たしていきたい」(註 こんなところは「天才」の本領発揮部分です)

 「反省の上に」、どのようにして立てるんだか。座れもしまい。「針の筵」を想定しているのです、ぼくは。「一点の曇りもない」「国民の期待」「職責を果たして」と、嘘の行列・羅列・整列です。一瞬でも早く、ぼくの視界からだけでも消えてほしい。責任なんて、君にはその正義の感覚がないのだから、もういうな。早く、後生だから消えてほしい。彼は希代の「嘘つき(の天才)」だし、「奇才・鬼才・機才」というほかない。もたもた「長生きする」と恥ばかり多しと、ぼくは痛感しています。こんな恥辱を味わう羽目になるんですから。見なくてもいいものを見せられる、これもまた、ぼくの「不覚」の一幕です。

 ぼくは「消しがたい恥辱」を、ずっと味わってきました。日本の「恥部(最高権力)」を、「総理」と名乗って世界に晒した、奇跡であり、軌跡です。民主主義(が歩く道)は、こんな「恥部」にまで至るんですね。デモクラシーは、鬼滅の刃か諸刃の刃か。いつでも、「でも暗し」となる危険性を内在させているし、鬼っ子を孕んでいるのです。でも問題は、「鬼っ子」は一人では生まれないし、育たないという生物物理学の法則です。そこがぼくたちの、逃げてはいけない問題(責任)ですね。とにかく、「落とし前」はつけなければ、それこそぼくは、「国民」を辞めるしかなくなります。

 「反省の上に立って、国民から見て一点の曇りもないように私自身が説明をしていく。政治家として国民の皆さんの期待に応えていくように、職責を果たしていきたい」、そんな難しいことを望まない。一人の「国民の皆さん」の已むに已まれぬ願いです、ぼく(一人の「国民」)の視界から、早く消えてほしい。それが職責じゃないか。どこに消えるか、その道の専門家が決めてくれるよ。(*東京高検の黒川弘務元検事長の不起訴(起訴猶予)処分に対し、検察審査会が「起訴相当」と議決。「嘘会見」と同じ日の報道。なんか暗示的、いや実に明示的ですね)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)