春樹は「カナリアの歌」を唱っているのか

 村上春樹氏「日本の首相、批判に批判投げ返す」 仏紙に

 作家の村上春樹さんが仏紙リベラシオンのインタビューに応じ、21日の紙面で新型コロナウイルスの感染拡大について「グローバル化やポピュリズムと切り離せないできごとだった」などと振り返った。同紙東京特派員の質問に日本語で応じ、紙面に仏語訳が掲載された。/ 同紙によると、村上さんは「自分にとっても、2020年はコロナの年だった」と振り返り、コロナ禍について「何もないところから突然出てきたものではない。一連のできごとの中にある」と指摘。経済のグローバル化やポピュリズム、インターネットやSNSの発達といった動きと切り離せないとの見方を示した。

 政府や政治家が自分たちの利益や権力の維持に都合のいいような政権運営をした場合、「この方向に行ってはいけない、と言うのが科学者や研究者の役割だ」として学者の役割に期待した。/ 最近気にかけていることとして、SNS上で交わされる言葉や言論が貧しくなっている、との認識を示した。「批判を受けたら(それには応えず)別の批判を投げ返している。方法として恥ずべきこと。日本の首相さえそうやってふるまっている」と嘆き、「自分の中に何をもっているのか、明確に説明しなければいけない」と注文した。(パリ=疋田多揚)(朝日新聞・2020年12月22日 10時43分)

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 村上さんの発言には大いに頷けます。といって、何がどうだというのではありません。ここにおいても、この島の新聞と彼の地の新聞が、ずいぶんとかけ離れてしまっているということを感じたまでです。向こうがいい、こちらが悪いと、単純に比較して言うのではありません。もし、彼我の差が目に付くほどにも大きいというなら、それは「文化の差」であり、「歴史の差」でもあるという点にぼくは留意したいのです。「言論の自由」「表現の自由」と言いますが、それは人間の社会生活全体の中でしか培われないものです。

 要するに、昨日や今日に生じた違いでもなければ、追いついたり追い越したりできる違いでもないということです。「文化」というものは、移し替えることも受け取ることもできない、そこで育てるほかないものです。うらやましいという感情の問題ではないだけに、なかなか深刻です。「長いものに巻かれろ」(「自分より力の強いものや上位の者には、とりあえず従っておくのが無難で得策であるというたとえ」ことわざを知る辞典)というのでしょうか。「泣く子と地頭には勝てない」(「道理の通じない子供や権力者とは、争ってもどうにもならない」同上)とでもいうのでしょうか。多分、それぞれが自分には手の出せない「長いもの」や「泣く子や地頭」がいるのでしょう。下には強いが上には弱いというのはどうでしょう。力の序列が、あるいは出来上がっているのでしょうね。

 もう一点は、コロナ禍が「何もないところから突然出てきたものではない。一連のできごとの中にある」という指摘です。これも大方がする(言う)ことで、なにも目新しい視点ではないようにも見えるし、いや、確かにそうで、やみくもに国際化、さらにはグローバル化がすすめられた結果、それぞれの独自性が雲散霧消というか、跡形もなく消えてゆくという、この島の現状に対する警告とも受け取れます。

 さらに「SNS上で交わされる言葉や言論が貧しくなっている」という認識には、抗う術もない時代の軽薄な風潮に襲われている世相の退廃を痛感しているだけに、ぼくは同感の想いで肯定してしまいます。これは、おそらく「SNS」の上だけのことではないでしょう。新聞や文学のように書かれる言葉、あるいはテレビやラジオなどのような話される言葉にも「ぴたりと符号」するのではないでしょうか。人を理化し、人に分かってもらうための「不可欠の条件」の劣化と欠如、これは防ぎようもなく突き進んでいますから。

 細かいところでは、それぞれには幾多の違いもあって当然ですが、一見したところでは、もはや無視できないような時代状況の「世界的類似」というのもが大手を振って闊歩しているということでしょう。「言葉や言論の貧困」は何をもたらすか。それは日常的に生じている「突然の暴力の解放」であり「止まらない暴力の噴出」です。「暴力」を抑制する「タガ」、自省力が壊れてしまったのです。人間が自分であることを証明する手段はいろいろありますが、中でも大切なのは「ことば」です。ぼくたちは言葉を組み合わせて「思考」という行為を育てます。この言葉が貧しくなれば、思考(思想)が貧しくなるのは当然の結果ではないでしょうか。言葉で自己表現をする能力が貧困・貧弱であれば、それでもなお自分の言いたい事やしたい事を他者に分からせるのは、どんな手段があるか。

 言葉や言論の貧困は「暴力の生みの親」となるのです。国家のリーダーやマスコミの指導者、あるいは経済界の重鎮とされる人々が「失言」や「暴言」を放ったり、暴力まがいにの行状に及ぶのもまた、世界規模です。さらに言えば、「刹那主義(今がよけりゃ)」「金力盲信(金こそが尊い)」「自分至高(一人よがり病)」という悪癖がその貧困からとめどもなく生み出されるのです。

 村上さんの発言から、ずいぶんと離れたことを言うように思われるかもしれない。しかし、事実はこの方向にあからさまに進んでいるのです。打つ手はあるか。多分、行くところまで行くほかないようにも思えるし、おそらくそうなるに違いない。だが、そこへ至るにしても、自分の守備範囲で可能なことは何でもしようとする意欲を失うのはまずいんじゃないか。せいぜい、ぼくが今の段階で言えるのこんな程度です。わざわざ春樹さんを持ち出すこともなかった。でも、このような指摘が「高名な新聞」に掲載される可能性はまずない、それが島のたったいまの状況、嘆かわしくも否定できない現状だと、嫌いな新聞をネット上で眺めて痛感しているのです。

 「カナリアの歌」とか「炭鉱のカナリア」と、よく言われます。それはどういうことか?

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 【小社会】炭鉱のカナリアという。昔、欧米の炭鉱員はカナリアの籠を先頭にして進んだ。人間が感知できない有毒ガスが多ければ、その歌声は止まり、卒倒する。人間はいち早く退避した。
 
 米国の作家カート・ヴォネガットに「坑内カナリア理論」がある。〈芸術とは社会全体の表現にほかならないもので、社会が危険な状態になったとき、芸術家は率先して炭鉱のカナリアのように声を上げるべきである〉(伊藤優子編著「カート・ヴォネガット」)。/ この理論に共鳴する表現者は多いようで、同著では作家の大江健三郎さんも言及している。まだ見えにくい危険を社会に警告する役割は報道も、時として科学者も担っているのだろう。
 
 新型コロナウイルスの感染者急増をめぐり、科学者と政治に温度差があるのが気になる。例えば「Go To トラベル」。感染症対策分科会の提言を受けても政府は当初、札幌市と大阪市が目的地の旅行を一時除外したのみ。分科会はすぐに提言を重ね、政府はやっと急増地域からの出発分も自粛を呼び掛けた。/ 政府は、春先に接触の8割減などを提案した専門家会議を廃止。分科会に改組後は明らかに経済再生にかじを切ってきた。分科会の座長は今回、「個人の努力に頼るステージは過ぎた」。政治がどこまで反応するかだろう。/ カナリアは随分、警告を発し始めたように見える。ただ、炭鉱員が見ようとしなければ意味を失う。(高知新聞・2020/11/28)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。