豆腐屋が豆腐を売ってあるくのは、けっして…

【越山若水】「世界でいちばん貧しい大統領」といわれた南米ウルグアイのホセ・ムヒカさん(85)。4年前に来日し熱烈に歓迎された。今年その生き方や日本人へのメッセージを伝える映画「ムヒカ」が公開され関心を集めた▼貧しい家庭で育ち、政治活動に身を投じたムヒカさん。13年間獄中生活を送り、軍事政権が終わった後、国会議員に当選し2010年、大統領に就任した。12年にブラジルで開かれた環境問題に関する国連の会議でのスピーチが、世界の人々の心を揺さぶった▼「私たちは発展するために生まれてきたのではありません。幸せになるために地球に生まれてきたのです」「命より大事なものはありません。しかし、必要以上にものを手に入れようと、働きづめに働いたために、早々に命が尽きてしまったら?」。先進国の大量消費社会を批判する言葉が胸に刺さる▼ムヒカさん自身のつつましい生き方も、多くのことを物語る。古い家で暮らし、大統領時代は給与の大半を貧しい人などのため寄付した。来日した際に「みんな私は貧しいというが、質素なだけ」「人生を享受するためには、自由な時間が必要です」と語った▼多くの困難を乗り越え進歩を遂げた日本に敬意を払いつつ、西洋化された社会に「日本人は魂を失った」とチクリ。過労死や「政治とカネ」を巡る問題が深刻な国に、その言葉はとりわけ重く響く。(福井新聞・2020年12月21日 午前7時20分)

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 お金の話はなんにつけても、ぼくの性分にはあいません。お金が嫌いなのではなく、「まずお金」という物言いが好きではないのです。もちろん暮らしに必要な分はなければならないが、それも必要最低限です。ぼくはけっして貧乏を嘆いたり、金持ちを羨ましく思ったり妬んだりしたことはない。かつかつの生活と言えばいえるような活計をこれまで送ってきました。身の丈に合った暮らしを心掛けてきたともいえるでしょう。宮沢賢治の「丈夫ナカラダヲモチ/ 慾ハナク / 決シテ瞋ラズ / イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト / 味噌ト少シノ野菜ヲタベ / アラユルコトヲ / ジブンヲカンジョウニ入レズニ / ヨクミキキシワカリ / ソシテワスレズ」、と言った姿勢・態度(すなわち生活哲学)を持ちたいものだと願いながら歩いてきました。たくさんカネがあっても、三人前も食べられないじゃないですか。

 金は一度だって「余分なもの」はなかったという、貧乏生活でした。必要になれば、働けばいいというのんびりとした、齷齪したくない態度を失いたくなかった。これは自慢でも何でもありません。あるいは自分の生き恥の一端をさらしているのかもしれない。カネに飽かせたことはしたくてもできなかったし、「余分なものはなかった」という生活でも苦しくはありませんでした。「清貧に甘んじる」というのではなかった。とても「清貧」ではなかったと思います。かといって「濁貧」でもなかった。これはぼくには大変に幸いなことでした。親の心が、ぼくの中で生きていたという意味です。

 親父は「地位も名誉も」忌み嫌っていた、と思う。それなりの仕事をした人だったといえますが、何よりも腰を据えて酒を飲むことを徹底して愛した人間だった。だから知らぬうちに、酒飲みにならぬよう、金に執着しない生き方、名誉にこだわるなという「人生の三か条」を背中で教えていたのかもしれません。ぼくは、あまり自分のことを語ることはしません。というより、語るに足る自分がないのです。だから、ここでなんか寝言を言っているようですが、「稼ぐ(ぎ)に追いつく貧乏なし」と言いたかっただけです。それで十分だ、と。「常に精を出して働けば、貧乏に苦しむことはない」(デジタル大辞泉)まあ、稼ぎと貧乏の競争(かけっこ)というよりは、二人三脚みたいな生き方をしてきたように自分では感じられるのです。

 いかにも唐突に、なぜGDPなのか。いいたいことは、ランキングの上がり下がりに「一喜一憂」しないために、時には自分の位置を知っておくことは悪いことではないという程度の、生活(人生)の「天気予報」を知るような、一種の位置確認と方角の目安みたいなものを知るためのよしなしごとです。クラスで何番、内閣支持率はどれ位などと、ぼくたちはランク付けを好むのか、否応なく見せつけられているのか。いつの間にか、気が付けば、ランクが下がることを悲観し、上がることが大事なんだと錯覚する。ランクなんて、どこに重点を置くか、何を大事なものとみるかによってどうにでもなる。でも数字や順位に振り回されるのは、なかなか忙(せわ)しない、つまり心持ちが貧しくなるんじゃないですか。尺度なんて、作ろうとすれば無数にあるんです。(以下の表は2018年のもの)

 一人当たりのGDPが「韓国に抜かれた」(2019年)と、まるで天変地異に襲われたように言い募る人がいます。逆に、一人当たりではなく全体でみるべきであり、その数値はまったく韓国を寄せ付けていないから、などとわけのわからないことをいって「メンツ(体面)」を保ったつもりの能天気もいる。経済戦争の戦士気取りは嫌ですし、韓国の(匿名の)一個人より実入りがいいと、比べられないものを比べて悦に入る人の気も知れないのです。日本という島国は「一等国」になりたがる、その仲間入りをしたと糠喜びをしているさまを、早くに揶揄したのは、漱石さんでした。「高等遊民」などと言って遊んでいるのを友人になじられた。「なぜ働かないのだ」と。それに対して「代助」は長広舌を振るう。

 『何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金をこしらえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事は出来ない。ことごとく切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、そろって神経衰弱になっちまう。』(『それから』)

 ぼくは「高等遊民」じゃありませんけれども、「蛙」の領分は知っているというより、忘れたくない。一所懸命に「牛」になる努力をすること自体、羽目を外しているんです。二等国、いや三等国でなぜいけないのか。身の程を知るというのは、国でも人でも、何よりも大切なんですね。漱石さんはいたるところで「二等国でなぜダメなんだ」と言い、それを忘れるから「みんな神経衰弱になっている」と明治の国家を詰り通し、新出来の「国民」を蹴落とすかのような言辞を吐く。以来、このような身の程知らずが「国是」になって来たんですね。愚をくりかえすのは歴史ではなく、「個人」なんですが、その個人が集まって「国」をなしているなら、「国」もまた間違いの歴史をくりかえすということになりますか。

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 「GDPは国全体の経済活動をはかる指標であり、大きいほど経済的に豊かな国とされています。一般的に、一人当たりのGDPが1万ドルを超えると先進国と言われています。/ GDPは国全体の値なので、GDPが高いからといってすべての国民が豊かとは限りません。国民の裕福度は、一人当たりのGDPの値が実像に近いとされています。/ 一人当たりのGDPが高いほど、お金をたくさん稼いでたくさん使う、という活発な経済活動があると言えます。

 実際、日本ではバブル経済がはじけてからは長いデフレの時代が続き、給料は増えず、金利は低い、といった閉塞感、停滞感がぬぐえません。一部の富裕層は豊かな暮らしを楽しんでいても、その一方で非正規労働者が増え、収入が少ないことで結婚や出産をためらう若い世代が増えていることも問題となっています。
やはり、国民一人一人を見ていくと決して豊かとは言えないことが、一人当たりGDPのランキングが下がっていることにも表れているようにも考えられます。/ しかし、気を付けておきたいのは、国際比較をする場合にはお金の単位を共通にするので、その時々の為替レートに影響を受けるということです。

(読売新聞・2020/12/21)

 IMFのデータでは、USドルを用いています。日本の100万円が、1ドル=100円なら1万ドルですが、円高で1ドル=80円なら1万2500ドル、円安になって1ドル=125円なら8000ドルにしかなりません。
2010年には1ドル=80円台~93円台の円高でしたが、2018年には1ドル=102円台~115円台の円安なので、2018年の数値が下がっても仕方がないのかもしれません。/ また、人口の構成にも影響を受けます。GDPは一人あたりの生産性×人口とも考えられますから、人口が多ければGDPは上がります。しかし、生産性が落ちればGDPは減り、結果として一人当たりのGDPも減ってしまいます。/ 日本では、2000年の総人口は約1億2700万人、2018年には約1億2000万人と、年々減ってきています。
しかも、超少子高齢化により、15歳未満の人口と、15歳~64歳の人口は減り、65歳以上の人口は増えています。」(https://woman.mynavi.jp/article/200803-17/)

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 次年度の予算案が閣議決定されました、と。収入が百六兆六千億円超、うち国債(新たな借金)が四十三兆六千億円。余計なことは言うまい。打ち出の小槌が、どこかにあるのでしょう。新規国債、赤字国債、建設国債等々、なんと名乗ろうが、できる借金はとことんしてしまう。国債が売れなかろうが、市中の国債が売れ残ろうが、日銀がどれほど引き受けようが、政府も官僚も知ったことではない。財政運営を責められても、これしかないじゃないかというばかり。さらに責められれば、「後は野となれ山となれ」どいう刹那主義で開き直るばかりです。一番病に取りつかれ、ランクばっかりにここrを奪われているうちに、亡国の輩が、この島を荒らしに荒らしたのです。国破れて借金あり。島厳寒にして万事滞留す。コロナ独り勇躍す。

 その昔、自由主義圏では第二位のGDPを誇ったと、事あるごとに思い出す。今は昔の物語だし、夢よもう一度というのはあり得ないことです。四十年前も「金だけ、今だけ」の国とみなされていたし、セールスマンが首相なんだと、揶揄されたこともありました。ジャパン・アズ・ナンバーワンとおだてられて舞い上がったのはよかったが、風船玉の空気が漏れているのに気づかなかったのでしょう。右肩上がりの風も止んだ。「あんたが一番」といい気にさせた、その方は先日亡くなられました。

 エズラ・ボーゲル氏死去 ジャパン・アズ・ナンバーワン

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者で知られるエズラ・ボーゲル米ハーバード大名誉教授が20日、東部マサチューセッツ州ケンブリッジで死去した。90歳だった。同大のフェアバンク中国研究センターが発表した。手術を受けた後、合併症により逝去したという。/ ボーゲル氏はおよそ60年にわたって日本や中国などについて研究した東アジアの専門家。ハーバード大によると1958年に同大の博士号を取得し、日本語の習得や中間層の家庭について研究するために2年に渡り日本に滞在した。同大の教授のほか、東アジア研究センターの所長も歴任した。/ 79年の著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン」では、日本が戦後に高度経済成長を実現したことついて分析し日本型のシステムや経営を評価した。日本でベストセラーとなった。知日家として知られ、来日も多かった。2019年には日中関係を歴史的観点から記した著書を発刊していた。(日経新聞・2020年12月21日)

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 これで終わりですが、最後に付けたしです。漱石さんの「私の個人主義」のお終いの部分を紹介したくなりましたので、悪しからず。「私の個人主義 ―大正三年十一月二十五日学習院輔仁会におい ―」

「個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の享有するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論と云った方が好いかも知れません、つまり自然の状態がそうなって来るのです。国家が危くなれば個人の自由が狭められ、国家が泰平の時には個人の自由が膨脹して来る、それが当然の話です。いやしくも人格のある以上、それを踏み違えて、国家の亡びるか亡びないかという場合に、疳違いをしてただむやみに個性の発展ばかりめがけている人はないはずです。私のいう個人主義のうちには、火事が済んでもまだ火事頭巾が必要だと云って、用もないのに窮屈がる人に対する忠告も含まれていると考えて下さい。(中略)

 豆腐屋が豆腐を売ってあるくのは、けっして国家のために売って歩くのではない。根本的の主意は自分の衣食の料を得るためである。しかし当人はどうあろうともその結果は社会に必要なものを供するという点において、間接に国家の利益になっているかも知れない。これと同じ事で、今日の午に私は飯を三杯たべた、晩にはそれを四杯に殖したというのも必ずしも国家のために増減したのではない。正直に云えば胃の具合できめたのである。しかしこれらも間接のまた間接に云えば天下に影響しないとは限らない、否観方によっては世界の大勢に幾分か関係していないとも限らない。しかしながら肝心の当人はそんな事を考えて、国家のために飯を食わせられたり、国家のために顔を洗わせられたり、また国家のために便所に行かせられたりしては大変である。」(以下略)(青空文庫版)

(この講演は、何度でも繰り返し読んでみるといい、今になってもなお、読んで損はしない話です)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)