いつもどこかで朝がはじまっている

「年賀状の写真に!」湖の大鳥居から朝日 冬至の頃、ねらい目に 滋賀・高島

(厳しい寒さの中、鳥居の内側から昇る朝日)(18日午前7時15分、高島市鵜川)

(⇦ 鳥居の内側から昇る朝日を撮影するカメラマン)(18日午前7時15分、高島市鵜川)

 「近江の厳島」と言われ、琵琶湖沖に立つ白鬚神社(滋賀県高島市鵜川)で18日朝、大鳥居の内側に朝日がまばゆく輝きながら昇る光景が見られた。/21日の冬至が近づくにつれて日の出の位置が南に移り、より鳥居を正面に写すことができるという。/ 午前7時すぎ、対岸の山頂にかかる雲の隙間から黄金色に輝く太陽が現れ、波立つ湖面と鳥居を照らした。湖南市から訪れた男性(66)は「朝焼けもきれいで年賀状の写真に使いたい」と熱心に写真に収めていた。(京都新聞・2020年12月20日 18:33)(註 これを年賀上の写真にか?)

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 日の出とか日の入りとか、まるで太陽が人間(地球)のために出たり入ったりしてくれている(顔を出したり隠したり)という、いかにも人間中心の自然(宇宙)観を、きっと悠久の昔からぼくたち(人類といっていい)は抱いてきました。確かに理屈で説明すれば、なんとも味気ない現象になるのですが、つい最近も夜空の(ペルセウスや双子座流星群など)星座ショーが見られましたが、年中行事のように生じる自然現象にも、ぼくたちは、願いを込めて祈りの姿勢を取ってしまうのです。宇宙の引力や天体の現象に、いったいどのような願いや夢を描くか、それぞれの民族や社会には他処には見られない、独特の一種の信仰・宗教心とでもいうような自然への対し方があるはずです。

 毎朝、天候に恵まれれば、拙宅から「日の出」をゆっくりと眺めることが出来ます。ぼくは無信仰人間ではありますけど、この天体の運行を見るにつけ、すこしばかり厳かな気持ちになるのです。手を合わせて拝むことはしませんが、いい心持ちになるのは確かです。若いころは毎夏、北アルプスに登りました。白馬や穂高が大半でしたが、たいていは朝日に間に合うために苦労したように、今では気恥ずかしい気分を伴って思い出されます。早朝、(文字通り)黒山の人だかりが山頂で発生し、なんと奇特な、いや珍奇な人々がいるものよ、と我を忘れて思われたのでした。

 拙宅から九十九里まで車で三十分もかかりません。普段でも結構ドライブがてら出かけますが、「初日の出」には出向いたことはない。神社もそうです。いつも言うように、ぼくは人混みが大嫌い人間で、信号待ちで人だかりするのもできれば避けたいほどの、変わった人間(変人)です。だからどんなところでも、人混みや群衆の発生するところはまずいかない。今では寄席や演奏会にすら出かけなりました。

 さて、琵琶湖白髭神社の「朝日」です。この写真を見ているだけで、ぼくはいい気持ちになります。実に安上がりにできています。琵琶湖は往時の遊び場、いろいろな場所に出かけました。ただ、この「日の出」はみたことがない。(今この駄文を綴っている時間(6時45分)、やがて前方(東方)から太陽が顔を出しかけています。九十九里の海岸から少し離れていますので、昇る気配がかなり長く感じられる。ジャズ風の音楽を流しながら、雑文に勤しむというか、よからぬことを練っている、日が昇る、猫が呼ぶ、かみさんはまだ寝ている)

 日が昇る、その一瞬だけでも心が洗われるというのか、実に清らかな心持が生まれているというのか、こんな太陽に照らされれば、この世に悪人も犯罪者もいないと思ってしまうのです。(日没でも同じ)でも昇りつめれば、さてどんな悪事で金をせしめるか、人をだますかなどと、だれが邪な気持ちにいとも簡単に切り替わるのでしょうか。洗足という地名は各地に多いのですが、洗心という精神の浄化作用は「お天道さん」の下にあってさえ、どうして進まないのでしょうか、ぼくには不思議でなりません。「見上げてごらん、夜の星を」もいい、確かにいいのですが、「拝んでごらん、朝の陽を」も、それ以上に素敵ですよ。地球が丸いというのは、まことに御慶ですね。谷川俊太郎さんじゃないけど、まさに「朝のリレー」です。カムチャッカの若者も、メキシコの娘も、ニューヨークの少女も、ローマの少年も、きっと朝日に心を洗われている。「この地球では いつもどこかで朝がはじまっている」

ぼくらは朝をリレーするのだ
 経度から経度へと
 そうしていわば交替で地球を守る
 眠る前のひととき耳をすますと
 どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
 それはあなたの送った朝を
 誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

 人生は朝から始まる(La vie commence le matin)、こう教えてくれたのはフランスの哲学者でした。彼は長い間、高校(リセ)の教師をしていた。青臭くやんちゃ盛りの生徒たちに、つねに「人生は朝から…」と言っていた。そして、教室に入ると、即座に授業を始める。毎日、質問がある生徒は黒板に書く。それを見た教師は、おもむろに考え考えしながら、答えようとしていく、それが授業の開始でした。(生意気な、教師が答えに詰まるような質問が書いてあると、彼は何も言わないで消してしまい、それにかかわる話を投げかける、「自分の脚で立て、自分の頭で考えよう」「それは君が考えたことじゃないだろう」と)こういう教師に出会う若者は、きっと自分をまちがいなく発見するに違いない。

 思想家としての彼も尊敬の対象ですが、それ以上に教師としてのアランにぼくが引き付けられてきたのは、彼は決して生徒たちを大人と比べたりはしなかったし、一人の人間として期待し、その期待にふさわしい人間になることを、子ども自身がおのれに求めるように、一人の人間と認めるところからしか付き合わなかった。自分が低いところで満足したりしない、少しでも高く自分を成長させることに注意を払う、そういう人間であることを生徒に期待したのです。表現はまずいのですが、小さな大人としてしか見ない、まだ足りない人間であるとみなす、そんな侮蔑した態度をまったく取らなかった人として、ぼくはアランという人に大きな恩恵を被っているのです。「君はそんなところでつまずくような人ではない」(左写真、前列真ん中がアラン)

 世の中には「夜から一日が始まる」、そんな人もいるかもしれません、一日の始まりはそうかもしれないが、人生は「朝から」、です。ぼくはいまだに、その教えを真に受けて生きています。

(本日は、これから「病院行き」です。かみさんの手術(十月末)後の「生体検査」の結果がよくわからないままで、本日になりました。繰りかえし顕微鏡での検査をしていると、担当医はいっておられましたが、さて、「吉と出るか、凶と出るか」、なに、すこしも心配なんぞはしていません、かみさんも。「果報(家宝)は寝て待て」、「寝言は寝てから言え」という心持ですね)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです