そっと置くものに音あり夜の雪 (牧之)

 京都で積雪 嵐山が雪化粧し墨絵のような世界に

 京都市では17日未明にかけて雪が降り続き、気象庁によると午前5時に積雪1センチを観測した。/ 右京区と西京区に掛かる渡月橋付近では嵐山が白く雪化粧し、墨絵のような光景が広がった。/ 早朝からカメラを手にした人が訪れ、盛んにシャッターを切っていた。(2020/12/17 07:35京都新聞)

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 余禄 「夏草やつわものどもが夢の跡」をもじった「この雪に馬鹿者どもの足の跡」という江戸川柳がある。雪が降れば、いさんで雪見に出歩く物好きをからかった句で、昔の江戸は今よりも雪の日が多かったようだ▲雪景色の浮世絵や雪見の名所の評判がそれを示している。実際に江戸時代後期の気候は寒冷で、隅田川の結氷という記録もある。ただ、雪にはしゃいだ江戸の人に対し、雪国の人が豪雪に苦しみ、恐れたという対比は今昔変わらない▲越後の人・鈴木牧之(すずきぼくし)が、初雪が来れば喜ぶ江戸の人と、これからの雪中生活を思う雪国の人を比べ「楽と苦と雲泥のちがいなり」と記したのもよく分かる。さて雪のシーズンも始まったばかりなのに、早くもドカ雪が雪国を襲っている▲列島上空への強い寒気の流入により、まだクリスマスも先なのに日本海側の地方や関東の山沿いでは記録的な大雪に見舞われている。群馬県みなかみ町や新潟県湯沢町では、24時間の降雪量がそれぞれ観測史上最高を記録したという▲交通への影響や停電の被害も各地で出ている。きょうも降雪は続くというから、屋根からの落雪や雪崩への警戒も必要だろう。例年ならクリスマスや年末年始寒波が話題となるが、雪国の人も驚く師走半ばの記録的寒波の急襲である▲「雪は天から送られた手紙」とは氷雪の研究で知られた物理学者、中谷宇吉郎(なかや・うきちろう)の言葉である。シーズンのっけからのドカ雪も、荒々しさを増す地球規模の気候変動にまつわる天からの消息なのかもしれない。(毎日新聞2020年12月17日 東京朝刊)

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 コラム氏が触れている鈴木牧之(明和7年・1770年 – 天保13年・1842)。新潟は魚沼の人。商人。随筆、俳句などにすぐれた作品を残す。中でも最もよく知られたのが『北越雪譜』、ぼくの愛読書でもあります。これと並んでよく読んだのは菅江真澄の『菅江真澄遊覧記』。いつかは触れてみたい人と作です。真澄という人は生涯の大半を漂泊の旅に費やした。驚異的と言っていい、歩く人だった。宮本常一さんも真っ青というくらいに歩き、かつ書いたのでした。さて、鈴木牧之さんです。この人も長い年月をかけて「雪国の生活誌」というべきものを残した。それが『北越雪譜』です。

 魚沼あたりは何度か遊んだところです。その時期にはまだ記念館はありませんでした。平成元年創立とあります。当地の冬の奇祭に誘われて参加したり、下手な横スキーなどに時を過ごしたのでした。それはともかく、雪の多い地方でしたね。今はすっかり様変わりしてしまいました。などとのんきなことを言っているうちに、東北や北陸などで「大雪(豪雪)」との報道。雪に馴れるということはないのでしょうが、雪かきや雪下ろし、道路の除雪など、どんなに大変か、重労働かは少しばかりの経験で身に染みています。

 「鈴木牧之は1770年に越後塩沢の地、縮(ちぢみ)の仲買と質屋を営む鈴木屋の子として生を受けます。牧之は幼い頃より商売を学ぶかたわら、父・牧水の影響もあり俳諧や書画もたしなむ人物でした。
そんな彼に転機が訪れたのが19歳の時、縮の行商で訪れた江戸でのことでした。雪深い越後の国と異なり、暖かな気候のもとに暮らす江戸の人々。彼らに雪国のことを話すと、まるで異国の話であるかのように全く理解してもらえません。/ そこで牧之は、雪深い地域での生活文化を広く多くの人々に知ってもらいたいと思い、長い歳月と文人らの協力を経て、苦労の末に『北越雪譜』を世に出したのでした。」「鈴木牧之記念館」HPより。(https://www.pref.niigata.lg.jp/site/minamiuonuma-miryoku/1298404865782.html)

 「牧之は各地域の文人・俳人などと、書簡を交わし、『北越雪譜』の出版に至るまでの過程には、こうした文人らとの交流なくしては語ることができません。交友の中には「南総里見八犬伝」で知られる滝沢馬琴、「東海道中膝栗毛」で知られる十返舎一九、『北越雪譜』を出版に漕ぎつけた山東京山、その兄・山東京伝などの存在がありました。」(同上)かくして、なんと四十年余をかけて『北越雪譜』を書きあげた。まるで宣長さんの『古事記伝』のようではあります。彼はこの仕事を三十五年かけて完成させた。彼のおかげで、ぼくたちは「古事記」を何とか読めるようになったのです。また菅江真澄です。郷里を出て以来、およそ半世紀も旅の途上にあった。一度も帰郷しなかった。詳細は別の機会に譲りますが、博覧強記であり、歩きに歩いた人であり、空前絶後の漂泊の人でした。牧之に先立つこと、数年の先覚でした。

●菅江真澄=1754-1829 江戸時代中期-後期の国学者,紀行家。宝暦4年生まれ。三河(愛知県)の人。国学,本草学をまなび,天明3年より信濃(しなの),奥羽(おうう),蝦夷(えぞ)地などを遍歴。享和元年からおもに出羽(でわ)久保田藩(秋田県)領内に居住。旅先での地理,風俗を挿絵入りで記録した日記「真澄遊覧記」や,地誌,随筆をのこした。文政12年7月19日死去。76歳。本姓は白井。名は秀雄。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

彼らはなぜ、このような記録を残すことに「執念」を燃やしたのでしょうか。たんなる読者ごときには、その気心が知れません。ぼくは真澄についても論文か本を書こうとしたこともあったのです。もちろん、途中で放棄してしまいましたが、彼や牧之の生活・地理に対する拘泥というか関心といおうか、その向学の志をこそ、ぼくは感じ取りたいと今でもなお願っているのです。(絵と文・真澄 ⇒)

 雪が多ければ多いほど、そこには雪の生活・雪にかかわる文化があるということでしょう。雪は邪魔だから除雪してしまえというのは、この時代の生活観です。それが間違いだともいけないともいうのではなく、ぼくたちの今ある生活の、その前の時代には、どのような「人と暮らし」があったのか、それが知りたいというだけの話です。当たり前の、偉くもなんともない「人間の生活」を学びたいというのです。

 一雫ふた雫つつ終氷柱(つらら)かな(牧之)  *雫=しずく

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 (この雑文・駄文は、二月の初めころ(コロナ感染初期、ほんの走りでした)から書きだしました。高尚な目的があったわけもなく、単なる思いつき、あるいは「老化防止」(無駄な抵抗ですが)のためだけで、日記でも書くつもりで、だらだらと続けてきました。発端は若い友人の一言でした。暇があり、頭の体操にもなるから、「漢字の練習にもなるから、なんでも書いて見なさいよ」と言われたのです。分かりましたと、始めたのですが、なかなか思うに任せず、老化老衰の惨状を明かすだけの結果になっているようです。歳をとる、それはスリルであり、スリラーですね。

 じゃあ、物は試しで、いつでも終わりにします、という気楽な気持ちで、客の来ない「本屋」みたいなものを開店しました。でもまだ「自主トレ」の効果は絶無ではないにしても、芳しくないとの自己判断がありますので、暫時継続か。日銭も入らないし、閉店が迫っていますが。(SNSではなく、ブログでというところが「反時代的」ですな。ニイチェという奇人には「反時代的考察」という危険な本がありました)

 でも、どんなことにも余録はあるもので、若いころに読んだ本や、くり返し学ぼうとしたよしなしごとを今頃になって整理している気にもなってきました。常に気に懸けていたのは「読んだ本(の内容)はどこへ行ったんだ」という思い。本の形骸・骸骨は書屋に積んである。でも中味がすっぽり抜けているんですね。それを取り戻そうとしても無理ですが、読んだ本の臭いぐらいは、もう一度嗅いでみたいという程度の「自主トレ」で、なんの効果や改善もなさそうですが、まあ、「コロナ禍」の年回り、腐敗の臭(衆)に悪態でも付きながら、猫ともつきあいながら、ゆっくりと歩きますかね)

 (蛇足 春先から拙宅の軒先や車庫にいた猫たち、今は何と家の中で、文字通り「傍若無人」「乱暴狼藉」の振舞いに及んでいます。小生はまるで、朝五時からの「給仕」扱いをされている。これが、「軒を貸して、母屋を取られる」という図ですな。ただ今、大小合わせて七人、(それにプラス)かみさんとおれ。この暮れも無事に越せるでしょうか。その内に、七人の姿(侍)を掲載しますか)

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