一市井人として、言わねばならないこと

 政府、福島移住に最大200万円 原発事故再生へ支援金

 政府が2021年度、東京電力福島第1原発の周辺12市町村に移住する人に対し、最大200万円の支援金を支給する制度を設けることが14日分かった。避難した住民の帰還が進んでいないのが背景。移住者を呼び込み、発生から来年で10年となる原発事故からの再生を後押しする。/ 移住してから一定期間の定住や、就業などを条件にする考えで、詳細を詰めている。併せて、受け入れ側の自治体が実施する移住促進事業も支援する方針。財源は復興庁が福島県や市町村に配分する福島再生加速化交付金を活用する。(共同通信・2020/12/14)

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 福島原発事故からやがて十年。いったいこの月日はどのようなものと理解したらいいのでしょうか。ぼくたちもまた、被害者であるという認識を持たなければ、事故は日々にに遠ざかってしまい、ついには忘却の彼方に捨てられてしまうのです。被害に遭った人には気の毒だった。でも自分には自分の生活がある。こんな具合に「フクシマ」はアレグロではなく暗断点かもしれないが、叙情に忘れ去られていくのでしょう。それを千秋の想いで待望しているやからが蔓延しているのです。

 この事故の直接的な被害を受けた人々は、事故発生以後の人生と、それ以前の生活とが否応なしに分断され、いまもなお「被災者」であり、「被害者」であり続けているのです。前後に二分された深い亀裂にかける橋はない。この間、事故を起こした政府と東京電力は、「二人三脚」「夫唱婦随」宜しく、見せかけの「復旧・復興」を旗印に、途方もない税金を注入して、いったい何をしてきたのか。おそらく、一日も早く「原発事故」の痕跡を消去しようと齷齪(あくせく)しているのであり、あわよくば「なかったこと」にしたいがためにあの手この手を使って、懐柔やら拒絶やらと、あろうことか、「飴と鞭」の政策に奔走していたのです。国威をかけて「事故の痕跡を葬ろう」、これが第一目標です。自らの「過ち」を消したい、底から歴史の捏造が生じる。人であれ、国であれ、やろうとすることは「誤り」「失敗」を無にすることです。政府は、そのためにばくだいん「税金」を使いまくっている。

 いまなお汚染物質は拡散しているのであり、被爆状態は一日も休むことなく、継続しているのです。ぼくは暇に飽かせて、いくつかの視点から「原発事故」問題を調べようとしてきましたが、ほとんど途方に暮れ、路頭に迷うばかりの暗中模索状態を抜けることが出来ないでいます。なぜか、情報があまりにも拡散しており、真偽の見分けが極度に困難は状況が続いているからです。これまでにも何とか、「事故の現在」という問題意識を駆り立ててきましたが、端的に言って、原発事故の責任を負うべき当事者が、まず責任の所在をあいまいなままにして、「事故処理は終わった」「復興ができた」とありとあらゆる言動を駆使して、金を投入して、この問題を隠し通そうとしてきたし、今も同じ姿勢を保ちつづけているのです。度し難い、人民への裏切りであります。

 期限を切って、それ以降は面倒は見ないという。避難せざるを得ないからそうする人の間にも分断線を引く。言うことを聞く人と聞かない人。今度は「帰還者」が少ないかほとんどいないから、何が何でも住みつかせる(一時でも構わない、偽装でもいい)、移住者には「金をくれてやる」というのです。ぼくには言葉がない。結果的には金銭が絡むであろうことも認めますが、それを言うにも、礼儀があるというのです。しかし、かかる無礼きわまりない人間どもですから、礼儀云々は通用しない。それではと、誠意や誠実を口にしかかるけれど、言葉が出てきそうにもないのです。どこの国でも弱者ーこの場合は被災者ー社会的に排除されてしまう人を作っておいて、「お為ごかし」をしようというのです。それが政治であり行政であると、開いた口もふさがらないのです。基準に合ってている、基準を満たしていないと、硬軟合わせ技で、人民を虚仮にしているのです。そして、その「基準」は「政治」がつくる。空気や海水の汚染度も「国家基準」だと、この地球には島社会(にほん)しかないような、傍若無人の振舞いです。

 これまでにも、さまざまな後始末に「天文学的な」国税が投入されてきました。事故の補償費でも十兆円を超えると言われています。さらに「廃炉」に向けた各種の作業にも気の遠くなるような税が投入されています。「廃炉」から始まる道は「亡国」に至るのです。ぼくの感覚では、もうすでに「亡国」の入り口に来ています。

 いくつもの証言があるのですが、除染作業一つとっても、放射線量の低下が望めないような(見かけの除染作業が生み出す)事態が生じています。切りがないので止めますが、国税が投入される事業は、根本的には同じような「中間搾取」「中抜き」(早い話が、横取りです)、こんな言葉は使いたくありませんが、そのようなからくりを使って、金儲けの大きなチャンスととらえる向きが横行しているのです。コロナ禍に際しても同じような、これこそ「詐術」かと言いたくなるような、税の収奪が多発していました。五輪開催にむけても、すでに二兆円ものカネが費消されています。この先、どれくらいになるか「予測不能」だとされています。「予算」執行に際して、おそらく「ニ、三割は手数料」名目で消えています。今年度の最終予算額は「180兆円」に届こうかと報道されている。「横取り天国」だね。

 「五輪招致」も嘘から出た実(まこと)ならぬ、嘘でした。嘘からは嘘しか出てこない道理です。この時期に、五輪を開く理由はまったく見つからない。、あえて言えば、おのれの威信をけて「虚偽を世界に発した」「前総理」を筆頭とする権力亡者たちの自己(事故)顕示欲だったし、「横行する「横取り屋」だったが、ぼくたちはその生贄にされてきたのです。(これに関しては何も言わない、いうだけの値打ちもない)あまりにも不真面目が過ぎるし、不誠実です。劣島あまねく「虚勢や虚偽」が横行しています。むしろ、この虚勢や虚偽の感染力を、ぼくは恐れもし、歎きもするのです。  

 以下に挙げるような、幾多の「原発事故関連事業」においても、「詐欺」とは言いませんが、著しい「税の無駄遣い」が横行しています。いったいどれだけの公共事業、公的事業で税金を「溝(海)に捨てる」ようなことが行われているのでしょうか。ほんの一例として「原発事故」に便乗した政官財のコラボ「税収奪」スキームをし示しておきます。この問題に関する気の遠くなるような資料を見ていて、ほとほと「悲嘆にくれる」という、かつてない経験をぼくはしばしばする羽目になりました。こんなことはぼくの今までの知るところではなかった。まるでこの島社会は「泥棒天国」「律義人地獄」だと痛感しているのです。かような詐欺まがいは「枚挙に遑(いとま)なし」です。数え上げているうちに歳をとるね。

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 福島の洋上風力発電、全撤退へ 600億投じ採算見込めず

 政府が、福島県沖に設置した浮体式洋上風力発電施設を全て撤去する方針を固めたことが12日、関係者への取材で分かった。東京電力福島第1原発事故からの復興の象徴と位置付けて計約600億円を投じた事業で、民間への譲渡を模索していたが、採算が見込めないと判断した。経済産業省は、来年度予算の概算要求に撤去関連費50億円を盛り込んだ。再生可能エネルギー関連の産業を推進する福島県にも痛手となりそうだ。/ 浮体式洋上風力発電施設は2012年から、原発事故で一時全町避難となった楢葉町の沖合約20キロに3基を順次設置した。最大の1基は今年6月、不採算を理由に撤去済み。(右上写真 今回撤去方針が固まった福島県沖の浮体式洋上風力発電施設の1基)(共同通信・2020/12/12 )

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 要するに、すべては「国家プロジェクト」というわけです。触れるも腹が立ちますが、よってたかって「国を亡ぼす」という計画です。国家破壊のためになされる「公共事業」に「国税」が投げ入れられています。これに参加・参入する企業群をはじめ、なんでこいつらというべき「(アクドサトいう点では)錚々たるメンバー」です。大学生の人気企業ランキングの上位企業であり、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの感がある「経済官庁」であり、「国家強靭化」に絶大な興味と関心を示す「政治家」です。つまりは「政官財(産)」のトリオがかならず潤う例で、国家破壊プロジェクトは着実に進行中というわけです。go to~といいますが、ここにもトリプルプレイは盛業中なんですね。感染に感染、それを税金で奨励するという、度し難い蛮行が猖獗を究める国になり果(おお)せたのです。(虫唾が込みあげてきましたので、今回はここまで)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)