
柴田宵曲著『評伝 正岡子規』を折に触れて読んでいます。耳目に爽やかな景色も音色も聞こえてくる気がしない時節には、なおさらに子規居士に会いたくなるし、それも宵曲さんの「子規」にかぎる、といいたいほど、簡潔にして要を得ているのです。余計なことは一切かかれていないし、足りないところはまずありません。この宵曲さんについては早い段階で、どこかで少し触れましたが、極めつきの文筆家だと、ぼくの評価は高い。その「子規評伝」の開巻冒頭に次の記述があります。少しばかり長くなりますが、余計な邪説を交えない方が筋が通るとも考えて引用します。
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自筆の墓誌
明治三十一年七月十三日、子規居士が河東銓氏に与えた手紙の中に、「あしゃ自分が死んでも石碑などはいらん主義で、石碑立てても字なんか彫らん主義で、字は彫っても長たらしいことなど書くのは大嫌いで、むしろこんな石ころをころがして置きたいのじゃけれど、万一やむを得んこつで彫るなら、別紙の如き者で尽しとると思うて書いて見た。これより上一字増しでも余計じゃ、但しこれは他人に見せられん」とあって、次のような自筆の墓誌が添えてあった。

正岡常規(つねのり)マタノ名ハ処之助(ところのすけ)マタノ名ハ升(のぼる)マタノ名ハ獺祭書屋(だっさいしょおく)主人マタノ名ハ竹ノ里人(たけのさとびと)。伊予松山ニ生レ東京根岸に住ス。父隼太(はやた)松山藩御馬廻加番(おうままわりかばん)タリ。卒(しゅつ)ス。母大原氏ニ養ハル。日本新聞社員タリ。明治三十□年□月□日没ス。享年三十□。月給四十円。
この墓誌は居士の歿後直にその墓に刻まれはしなかったが、昭和九年の三十三回忌に、子の墓誌を刻んだ碑が新たに太竜寺の墓畔に建てられた。居士の筆蹟そのまま銅板に鋳て板碑風の石に取付けたのを、その後改めて石に刻んだものとなっている。
子規はどうして明治三十一年にこの墓誌を撰し、河東銓氏にこれを送ったか、その理由は固より明でないが、居士の一生はほぼこの百余字に尽くされているように思う。処之助と升とはともに居士の通称である。前者は四、五歳までのもので、爾後用いられる機会もなかったが、後年『日本人』誌上に文学評論の筆を執るに当たり、居士は常に越智処之助なる名を用いていた。越智はその系図的姓である。升の名は親近者の間に最後まで「のぼさん」として通用したばかりでなく、地風升、升、のぼるなどの署名となって種々のものに現れた。子規は現在では居士を代表する第一のものになっているが、元来は喀血に因んでつけた一号だったのである。獺祭書屋は書物を乱抽して足の踏場もないところから来たので、出所は李義山の故事にある。居士が獺祭書屋主人の名を用いるときは、すべて俳論俳話の類にかぎられた。竹の里人は居士の住んだ根岸を呉竹の根岸の里などと称するところから来ている。新体詩、和歌、歌論歌話などに専らこの名が用いられた。居士の文学的事業の範囲は、自ら「マタノ名」として墓誌に挙げたものの中に包含されるのである。

孫悟空の如意棒は伸せば三十三天より十八層地獄に及び、縮めれば一、二分ばかりの縫針となって耳の中に蔵(かく)すことが出来る。子規居士の一生も縮めれば百余字の墓誌に収まるが、扱い方によってはどの辺まで伸びるか、ちょっと見当がつかない。(以下略)
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まるで「綴り方」のお手本のようにして、ぼくは宵曲氏の文章を読んできました。この文庫本の解説は佐伯彰一さんです。「柴田宵曲(一八九七ー一九六六)によるこの評伝は、…どう位置付ければよいか。一見したところ、あまりにも控え目で、少々律義すぎ、型通りで平凡な子規伝と受け取られかねない」といったうえで、しかし、「さりげない淡々たる筆致でありながら、いかにも着実でコクがあり、しかも妙な硬さがない。無駄なく目のつんだ ‘informative’ な本としておのずと信頼感がわいてくるばかりでなく…」と褒めそやしています。いずれにしても、本読みはそれぞれに読めばいいので、まず読んでみてのお楽しみと、ぼくは言うばかりです。

● 柴田宵曲=大正-昭和時代の俳人。明治30年9月2日生まれ。寒川鼠骨(さむかわ-そこつ)の知遇をえて,アルス版,改造社版「子規全集」の編集にあたる。昭和10年俳誌「谺(こだま)」を創刊,主宰したほか,俳句に関する随筆や考証物を手がけた。昭和41年8月23日死去。68歳。東京出身。開成中学中退。本名は泰助。著作に「古句を観る」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
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大学に入った時から、ぼくは文京区本郷に十年ばかり住んでいました。その間、いろいろな場所に徒歩で出かけた。根岸も駒込も、上野も浅草も。お茶の水や神田までも。下駄ばきで浴衣を羽織って、といういで立ちで、あちこちを徘徊していたのです。鴎外も漱石も藤村も、あるいは子規やその他、もろもろの人々とも、散歩途上の出会いがきっかけだった。なにがしかの知識も関心もなかったのですから、今から思えばなんとも惜しいことをしたとも言えますが、半世紀以上を経て、彼らに再会、「濃厚接触」を試みているといった塩梅です。それにしても明治という時代、明治人というのはどんな感じだったのか、それを漱石や子規に見て取ろうとするのもまた、ぼくの近代史の学習でした。

何か意図をもって、現実逃避を図ろうとしているのではありません。実際、どこかへ行きたいとか逃げ出したいとかいうのではありませんが、耳目には障りのあるものばかりが飛び込んでくるのをどうしようもないのです。ほとほと悪しき時代に遭遇したものだと、われながら「自省の念」に駆られたりもする。もっともっと前に生まれていたならば、とか何とか。(⇦ 漱石山房主人)

これほど堕落や退廃が目の当たりに来るとは、いかにも迂闊千万というほかない。ことさらに子規をひきだすのも、「贔屓の引き倒し」の懼れなしとはしませんが、三十余歳で逝った子規に、ぼくは哀惜の念の止むときがないのです。その思慕の念たるや、漱石に向けたものの比ではありません。ましてこの二人の「青年の交わり」を想うだに、羨望の情は募り止まないのです。子規は大学をしくじったし、漱石は優等生で通すことに精神を病んで、後半生を送った。その二人の生きた時代をいま、社会が瓦解寸前にある状況にいながら、想像をたくましくするのです。でも、明治維新とは異なった時代の変容を俟つつもりでいながら、ぼくは無性に切なくもあり悲しくもあるのです。(子規についても、もう少しまとまった感想を書いてみたいですね)
障子明けよ 上野の雪を 一目見ん(子規)
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