禁酒して見れば興なし雪月花

 本年で第34回を迎えた「サラリーマン川柳」の「歴代ベストファイブ」だそうです。主催は第一生命。ぼくもほんの数年前までは、しがないサラリーマンをしていましたので、この「みんなのサラセン」には思い入れも深く、応募したことはありませんが、いつも目にしては、一人笑ったり涙したりと、悲喜こもごもで、同情を禁じ得なかった。世相というものが自然ににじみ出てきて、時代を手っ取り早く知る機会にはなっていました。歴代のベストファイブといわれても、後期高齢者の身としては、詠みこまれた風景の実感とは著しく「時代遅れ」の感があります。それと同時に、なにか面白みに「へんな真面目さ」が匂ってくるのはなぜでしょうか、ぼくにはこれもまた、「遊びの少ない」「余裕が失われた」時節のしからしむるところではと、思案などするのです。真面目に川柳を、つまり「マジセン」ばかりが目に付くんですね。(https://event.dai-ichi-life.co.jp/company/senryu/index.html)

 第一位の「最強スクラム」、ぼくのところでは、たった一人のかみさんで手を焼き、舌を巻き、音を上げてきました。年々歳々、頑固になり、見下げられ、梃子でも動かない、威風堂々たる貫禄を感じさせられています。第二位「パプリカ」は見たこともないのですから、口に入る筈もありませんでした。今時、世に流行るもの、またはやりすたりが極端に短いのはどうしてでしょうか。従前は、「人の噂も七十五日」といいましたが、今ではどうでしょう、一週間ももちますか。だから何を咎められようが、言わず語らず、首をすくめていれば世間が忘れてくれるとばかり、人民を虚仮にする総理大臣がつづくのでしょう。

 良いか悪いかではなく、それぞれの社会的身分や地位にはそれなりに求められる「規範・期待」というものがあり、それにふさわしいものになるための精進が付随していました。敷居が高いとか、馬子にも衣裳など(これは関係なさそう)と、それなりの評価があったのですが。例えば「横綱」とか「総理大臣」とか。いまでは「八百長の成れの果て」という感がありますね。

 当節は、椅子やポストにつくばかりが目的で、ついたらついたで好き放題、後は野となれ山となれという、どうしようもない刹那主義、「自分第一」が瀰漫しているね。手段を択ばない目立ちたがりの世だろうね。ぼくにはその気が知れないが。高いところに登ろには注意がいります。落下するぞ、と。

 第三位、四位の「スマホ」をぼくは所有したことがない。見たことはある。でも、持つ必要性を感じないという以上に、他人から予期しないときに呼び出されるということが我慢できない性分であるということです。スマホ(携帯も含めて)を持たないという人に、ほとんど出会ったことがありません。サルにもスマホ、という時代。ここでもぼくは「時代遅れ」なんですね。何周遅れか。でもいつか時代がぼくに追いついてくる、そんな予感があります。自分は右往左往したつもりがないのに、お前は「左翼だ」、「お前は右だぞ」と言われます。位置を変えたのは時代なんですよ。止まっている時計は、下手に動いているのより正確です。一二日に二回は「時間が合う」んですから。

 第五位「たばこ」は学生(になる前?)の頃から相当に長く吸っていました。ぼくの喫煙はちょっと変わっていて、三年吸って、五年禁煙などということをくりかえしていました。中断・再会の繰り返し。気が付いたら止めていたり、吸い出していたり。これも性分ですね。「俺は絶対に禁煙しない」とも、「どんなに値上げされても、音を上げない。きっと吸い続ける」という、そんな気は毛頭ない。意志が強いのか弱いのか。いまはすっかりご無沙汰しています。ほしいとも思わない。

 この傾向は酒でも同じでした。若い時から、かなりの呑兵衛だった。自分でいうのもおかしいが、かなり呑んだ方かもしれませんが、これもあるときに口にしなくなり、何年もたってしまいました。酒の上の失敗もあるわけでもなく、一人で呑むのが好きでしたから、一人で止めるのにも何の抵抗もなかったというのでしょう。「酒なくてなんの己が桜かな」「酔覚めの水のうまさや下戸知らず」とは、今は昔の物語。

 煙草は止められても、酒はダメだと勝手に信じ込んでいたのです。信じるよりも、止めるが易し。禁酒禁煙していても、かみさんには煙たがられるのは本当で、旧悪を暴かれるように「呑兵衛時代」を今でも非難されています。(ぼくは喧嘩はしない。しなければならないときはしますが、かみさんとの場合は、いつでも負けることにしています。「金持ち喧嘩せず」ということかなあ。「金持ちは利にさとく、けんかをすれば損をするので、人と争うことはしない。または、有利な立場にある者は、その立場を失わないために、人とは争わないようにする」とはデジタル大辞泉ですが、この意味でなら、ぼくの場合は違う。まず勝てない、連戦連敗の結果、喧嘩はしないにかぎるという処世訓。男とはよく喧嘩をしました)

 というわけで、もしぼくが川柳を詠んだらどうなるか。さぞかし、覇気のない、面白みのない、「出涸らしのお茶」の味がするかもしれません。本年は出だしから「コロナ流行り」が海外で認められ、あっという間に、この島にも飛んできました。以来ほぼ一年、今なお猛威が衰えないどころか、さらに勢いを増してきました。今年の「サラセンん」はすでに締め切られ、年明けの一月末に発表されるそうです。いのち存(ながら)えて、コロナ禍の「みんなのサラリーマン川柳」を味わいたいですね。

 憂き世にぞ 笑いはいのちの 晴雨計(無骨)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。