私らの内部の塵埃はどういうものでしょうか

 かがやく未来を 大甕、常陸多賀、勿来-全て読める人は熱烈な鉄道ファンではないか。正解は順に「おおみか」「ひたちたが」「なこそ」。東京・品川と仙台を結ぶJR常磐線にある駅名だ。東日本大震災で途切れた鉄路が全線開通したのは、震災からちょうど9年たった今年3月だった▼先週、廃炉作業が進む福島第1原発を視察するため乗車した。詳細は改めて紹介するが、取材の合間に、沿線の富岡駅(福島県富岡町)周辺を歩いた▼太平洋の海岸線から300メートルしか離れていなかった駅舎は、周辺の商店や住宅などとともに震災による大津波で流失した。新設された現在の駅舎が営業開始にこぎ着けたのは3年前。ただ、更地になった周辺に住宅はまだ少なく、人影もない殺風景な様子に津波のすさまじさを実感した▼北に約9キロ離れた福島第1原発の事故による帰還困難区域は一部を除いて解除されたものの、住居や仕事を失った住民の避難先からの帰還は鈍い。町内の学校を統合して2年前に再開した、富岡町小中学校の児童生徒数は20人足らずという▼それでも復興への決意は伝わってきた。校舎の窓ガラスに掲げられた張り紙に、こうあった。「みんなで作ろう おもいでの故郷に かがやく未来を」。全ての駅がつながった常磐線は「かがやく未来」に向けた一歩だろう。あの震災からもうすぐ10年を迎える。「ようやく」であり「まだまだ」でもある。(健)(山陰中央新報・2020/12/14)

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 ぼくは初めて、山陰中央新報のコラムに触れています。社史によれば「1882(明治15)年5月1日  山陰新聞社創立」とありますから、やがて百五十年になろうとする老舗です。明治初期、表現は適切ではありませんが、雨後の筍の如くに「新聞」は発行され、各地で開明の志を開いていたのです。さて、このコラム氏が常磐線に乗られて富岡まで出かけられた。どんな思いをいだいたのかに興味がありましたので引かせてもらいました。コラムの内容に否やはありません。島根から(だと思われます)、出張られたのはそれなりの取材目的があってのことでしょう。詳しい取材記事は他所に書かれたのかもしれませんが、ぼくが不審に襲われたのは「放射線量」のことです。今春開業した区間に電車が入ると「線量計」が警告音を発し、線量が危険値を示すといわれていたからです。(この部分については他の雑文で触れました)

 さらに魅かれたのは、コラム名でした。「明窓浄机(几)」とは、「明るくて綺麗で勉強に集中できる書斎のこと。明るい日の光が入る窓と塵一つ無く清潔に保たれている机という意味から」出典は欧陽脩「試筆」とあります。(「四字熟語辞典on line)このコラムを書く場所は、きっと字義通りに、整然として、なお陽光の入る部屋であるなどとは言いません。新聞社の机がどういう状態であるのかを知らないではありませんし、コラム氏は喫茶店で書いておられたかもわかりませんね。

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*欧陽脩[1007~1072]=中国、北宋の文学者・政治家。廬陵(ろりょう)(江西省)の人。字(あざな)は永叔。号は酔翁・六一居士。仁宗・英宗・神宗に仕えたが、王安石新法に反対して引退。北宋随一の名文家で、唐宋八家の一人。詩の評論形式の一つである「詩話」を初めて書いた。著「新唐書」「新五代史」「集古録」など。欧陽修。(デジタル大辞泉)

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 じつは、羽仁さんの文章(上掲)をいつか使いたくて、鵜の目鷹の目みたいにコラム「明窓」を読んでいたところでした。「私らの内部の塵埃(ちりほこり)というのは、どういうものでしょうか。人を憎んだり、あの人はこれこれだと勝手な推量をして、とんでもないことを考えたりする。そういうことは、みんな塵芥(ごみ)と同じことです」と、子どもたちや教師たちに向かって話されたのでしょう。初出は今から六十五年前でした。敗戦後十年。「心も明窓浄几に」という願いや祈りを語られたともいえるでしょう。

 いまは、如何に浄化しようとしても、たちどころに「塵芥」がぼくたちの内部に沈殿し、それを放置して、ついに「埃に塗(まみ)れて後病む」ということになりかねません。自分の机に塵をためるように、机上に埃がたまるように、心の奥にも塵埃をためてもそれに気づかないことが多い。この内面の埃や塵の量や質を調べる専門家も看板を出して店を構えています。そこに通えば、処方箋を書いてくれ、薬を出してくれる。その結果、一時は「心は晴れた」ようになるのかもしれない。しかしまた、何かわからないもので、内部に重圧がかかる。羽仁さんは、きっと子どもたちに向かって話されたのだとぼくは見るのですが、これを、子どもたちはどのように受け止めたか。当時の子どもたちに会って、伺ってみたいですね。「内部の塵埃」をいかにして掃除するか、そもそもどうして塵や埃が内部にたまるのか。

 この「お話」の肝心な部分は「それを皆さんと一緒に是非したいと思います」という結語にあります。子どもに命じるだけではなく、あるいは「説教を垂れる」ことで終わるのではなく、いっしょに「心の埃を払う」教師がそこにいる、「私もそうしたいと思っています」という、この姿勢・態度においてこそ、教職の核心があるのでしょうね。「子どもといっしょに」です。いうまでもないこと、その昔のギリシアでは教師に叶う人を「子どもといっしょに歩くひと」と言いました。パイダゴーゴス、そこからpedagogyという言葉(実態)が誕生したのです。

●羽仁もと子=[生]1873.9.8. 八戸[没]1957.4.7. 東京,東久留米|教育家。南部藩士の家に生れる。東京府立第一高等女学校,明治女学校高等科に学び,1899年報知新聞社に入社,日本最初の婦人記者となった。夫羽仁吉一とともに 1903年『家庭之友』 (1908年『婦人之友』と改称) を創刊,「思想しつつ生活しつつ」をモットーに主筆として健筆をふるい,生活改善・生活合理を訴えた。 21年に自由学園を創立し,高等女学校によらない各種学校に甘んじてキリスト教に基づく自由主義教育の立場を堅持した。著書に『羽仁もと子著作集』 (20巻) がある。(ブリタニカ国際大百科事典)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。