持つ人と持たぬ人と

〈持つ人〉と〈持たぬ人〉-人生の〈不平等〉について-

 「持つ人は与えられ、持たぬ人は、持つと思うものまでも取られる」(ルカ福音書八・18)

 「持つ者は与えられ、持たぬ者は持っているものをも取られよう」(マルコ福音書四・25)

    「すべて持つものは与えられてあり余り、持たぬものは持つものも取られよう」 (マタイ福音書十三・12、二十五・14~30)

 皆さんはこの章句をどのように読まれるでしょうか。努力や才能の結果なら、多く持つ人と少しも持たない人がいても当然ではないか、と思われますか。すべてが平等ではあり得ない以上、持つ者と持たぬ者がいるのはあたりまえではないか、と。

 何時の時代にも、「持つ人」と「持たぬ人」がいます。この島でも「格差社会」という表現がずいぶんと長く使われてきました。たしかに、数字にもそのい格差は明瞭に表れています。「富裕層」と「貧困層」と言い換えられもしています。どこから、このような「格差」が生まれるのでしょうか。「結果(現実)」があるということは「原因」があるということを示しています。当然のことですが、「貧困」は避けたい災厄であり、「富裕」は望ましい目標ともなるのですが。

 聖書でも、この問題はくり返し提示されています。しかし、その内容を、はたしてぼくたちはよく理解できるものなのか、大いに疑問なしとしないのです。

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 新約聖書のマタイ福音書(二十五)は「タラントの譬え」とされているものです。奇妙な譬えです。およそ躓きの石となるような譬えだと私には思われます。

 「天国は、旅立つ人がおのが僕をよんで財産を預けるのに似る。ひとりには五タラント、ひとりには二、ひとりには一、すなわち各人の力に応じて与えて旅立った」そこで五タラント受けた者はそれをもとにもう五タラント得、二たらんとの者ももう二タラントもうけた。一タラントを受けた者は地面を掘ってそれを埋めてしまった。

 主人が旅から戻ってきて、五タラント、二タラント受けた者が同じだけもうけたことをしらせると、主人は「けっこう、まめなよい僕よ、わずかのものにまめであったから多くのものをまかせよう。主人の喜びにあずかれ」といいました。

 一タラント受けた者がきて「主よ、あなたはきびしいお方で、まかぬところで刈り、散らさぬところでお集めとしっていましたので、おそろしくなってお預けのタラントを地に隠しました」といったところ、「怠け者の悪い僕」それをしっていたのなら、その金を預金し利子をもうけるべきだった。「そのタラントを取り上げて十タラント持つものに与えよ。すべて持つものは与えられてあり余り、持たぬものは持つものも取られよう。この無益の僕を外の闇に放り出せ。そこでなげきと歯ぎしりがあろう」と命じたというのです。

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 私は聖書をきわめて個人的に読んできました。およそ自由気ままに読んできたものです。したがって、今ここで、考えようとしていることも、キリスト教とはなんの関係もなく-というのは言いすぎかもしれないが-道徳や教育をより丁寧に考える材料として選んでみたのです。果たして、それでいいのかどうか、わかりませんが。

 この譬えは何をいおうとしているのでしょうか。才能、富、名誉、地位、…。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っている(と思っている)ものまで取り上げられるだろう、というのです。まるで、この世の現実そのままを肯定しているともいえるような譬え話ではありませんか。試験でいい成績を上げた人はさらにいい成績をあげるし、たくさんの金を持つ人は、それを元手にもっと稼ぐことになる。位人臣を究めるという「権勢家」もいるでしょう。いかにも不平等は拡大するのです。持たない人から取り上げることによって、持つ人はさらに豊かになる、これが当たり前の現実なのでしょう。

 〈持つ〉〈持たない〉とはどういうことか、これが問題となりませんか。ぼくたちもなにがしかのものを持っていると思っています。しかし、いつとはしれずに取り上げられ(失って)しまうのです。いったい何を持っていて、どうして取り上げられるのか。持つというのは、ただ「所有する」ということなのでしょうか。あるいは、持つとは「育てる」という意味合いを指して言うのでしょうか。旧聞にすぎますが、以下を。

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 談話室 ▼▽ラジオの深夜放送は時に悲しみの受け皿にもなる。長寿番組「オールナイトニッポン」で28年前、いじめに悩む中学生からの切ない便りが読まれたことがある。当時の担当は中島みゆきさん。要約するとこんな内容だ。▼▽差出人は中3女子。「私世界で一番のブスです。分かっています。でも人から言われると傷つくんです」。周囲から白眼視され、面前で吐くまねをされ皆の笑いもの。願書を出す予定の志望校にも怖い人がいて、また泣かないといけないのかと思うと死にたくなるとつづる。▼▽「みゆきさん、こんな私でも生きてて良かったと思う日来ますよね」。読み終え中島さんは聞き手に呼び掛けるように語る。「誰が一番醜く見えるか、みんな分かると思います」。顔はお金できれいにできても、お金かけてもきれいにできないものもある、それを大事にと。▼▽大津市の事件でいじめに関心が高まっている。今もどこかの空の下でいじめが潜んでいるのだろう。言葉の刃に(やいば)無神経だったり心の醜い人には育ってほしくない。「美顔はできても、お金で心までは磨けない」。“みゆき節”による、さまざまなメッセージを思い出している。(山形新聞・12/07/15)

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  「持つ人」と「持たぬ人」の譬えは、何を、どのようなものとして言おうとしているのでしょうか。「持つ・持たない」とは「何を持つ・持たない」と言っているのか、さらには、何かを「所有する人の何が」問題とされているのでしょうか。これに対する答えは「一つ」ではなさそうです。無限にというと大げさですが、いくらでも答えが出せそうです。大事なのは、時や状況におうじて、「私は納得した」「ぼくには理解できる」という答えがはたして自分で見つけられるかどうかが問われているのではないでしょうか。説得でもなければ、強制でもなく、「なるほど」というところにまで自分がいたれるかどうか、それが問われているのだと、ぼくは考えるのです。

 「私世界で一番のブス」といった彼女は、何を悲しんでいるのですか。他人から「ブス」と罵られ侮辱されたことか、あるいはそういう扱いを受けて「傷つく自分」を嘆いているのですか。それとも、両方でしょうか。「こんな私でも生きてて良かったと思う日来ますよね」と、「なるほど」という答えの半分はすでに彼女の中に生まれているとも言えます。(「忠告」助言」もとても大きな支えになります。それを認めたうえで、まず「そうなんだ」という「自分」を発見することが肝心ではないでしょうか。

 「福音書」の「譬え」に、ぼくはじゅうぶんに対面していないようにも思われますし、いやいや、その答えは、いつでも自分が見つけようとする姿勢や態度の中に在るのだ、という感覚もぼくの胸中にはあるのです。(今朝の四時からのラジオ放送で、激しいDVに襲われていた一人の女性が、長い葛藤や苦しみの最中に、いろいろな出会いがあって、遂には「離婚」し、子どもたちと自立する生活を選んだ結果、「自分にもできる」「私の足で歩けた」という生活の実感を得た。その上で、今では「DVに悩む人の自立支援組織」を運営しているという女性のお話を聞きました。それを考えているうちに、「持つ・持たない」という迷路に入り込んだというわけです。

 数年前にぼくは友人の妻から「助けて!」という緊急メールをもらい、激しいDVに襲われている彼女の必死の声を聞いて、(途中経過は省きます)しばらくの後に「調停離婚」にまで至ることができたという経験をしました。(もちろん、ぼくは彼がいつでも妻や子どもに「暴力」を振るっているのを知っていたし、強く諫めたり、非難したりしたこともしばしばでした。しかし、まさか「これほどの暴力」をくりかえしているとは、と驚愕したし、その点で、ぼくは不覚を恥じ入った。なんとも迂闊であったといわざるを得ないのです。このような「経緯」はどこかで触れるかもしれませんが、とにかく、「暴力」を振るうのはまず「男」です。「男」は何を持っているのか。あるいは何を持っていないのか、ラジオを聴きながら、胸を痛めていました。「愛情」を持っていると思っていたが、それはいつしか奪われてしまった、ということもいつでも、どこにでもあるのでしょう、また反対に、自分にはなかったと思っていたものが、じつはあったのだという経験をすることもあるでしょう。「ある・ない」というのは何をもって(基準に)決められるのか、あるいはそれは簡単に決めつけてはいけないことなのか、たくさんのことを考えなければならないようです)

(この問題は、さらに考察を深める必要がありそうです)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。