
その朝の授業は鬼のあだなで畏怖された教授の英語だった。その朝とは、一九四一(昭和十六)年十二月八日。日米開戦の日だという▼開戦の臨時ニュースが校内に伝えられた。教授は廊下に飛び出し、「万歳」と叫んだそうだ。当時の学生が書き残している▼作家、半藤一利さんの『十二月八日と八月十五日』にあったが、とりわけ珍しい話ではなかろう。<やみがたくたちあがりたる戦(たたかい)を利己妄慢(ぼうまん)の国国よ見よ>斎藤茂吉。長く続く米英との緊張。当時の国民はうっとうしさや閉塞(へいそく)感の中にあり、真珠湾攻撃はその暗雲を吹き飛ばすかのように受け止められた。「利己妄慢」の米英という大国に挑む痛快さもあったという。茂吉もそうだったのだろう▼十一年後の五二年に建立された、広島の原爆死没者慰霊碑。碑文は<安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから>である。その言葉を考案したのは十二月八日に「万歳」を叫んだあの教授だそうだ▼歴史の皮肉を書きたいわけではない。教授の名は当時広島大学教授の雑賀忠義さんとおっしゃる。この人も被爆している▼あの日、今から考えれば、勝てるはずもない日米の開戦に国民の大半が高揚した。記憶にとどめなければならぬ戦争の過ち。それは軍や政府によるものだが、感情に任せたわれわれの側の「万歳」をそこから除く理由もまた見当たらぬ。繰り返すまい。(東京新聞・2020年12月8日)
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昭和十六年十二月八日、ぼくはまだ「虫」にもなっていなかったし、生まれた後に、親からもこの日の出来事を聞いた覚えはなかった。いくつかの本を人並みに読み、いくばくかの感想をいだきはしましたが、なお「戦争」はぼくの視野の外にありました。その後、昭和二十五年に「朝鮮戦争」が起こされましたが、ようやく「虫けら」なっていたぼくの記憶には何事も刻印されなかった。ただ、その当時のことだったか、田舎(おふくろの郷里・石川能登中島)で、昼の日中に空高く軍機が飛行していたのを見上げた記憶が残された。飛行機を見たのも初めてだったので、それが朝鮮戦争中のものだったと、勝手に思い込んでしまったのかもしれない。(右上写真「日本海海戦」)(左下写真、現在も、南北朝鮮両国は「休戦協定」を結んだままです)

小学校に入っていたぼくは、担任の教師から「日露戦争物語」を連日聞かされた。これが「戦争」について物心がついた初めだったのかもわかりません。日本海海戦(右上写真)を図解入りで授業され、また後の戦争による「日本占領図」なるものを示され、何の感慨もわかなかったとことに不思議な気がしました。まだ「戦争」がなんであるかが理解できなかったのでしょうか。反戦・非戦の思想や宣伝を頻繁に耳にするようになったのは「60年安保」でした。社会科の男教師が東京のデモを目撃(参加していた)情報として授業で話したのを鮮明に覚えている。とまあ、ようやく「虫」から「虫けら」に、やがて「昆虫」に進化していたぼくは、まったくの自己流に縛られながらも明治以降のこの島の歴史を学びだした。(ここからは書く必要を求めないし、書く気もしないのでやめにします)
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● 原爆死没者慰霊碑(公式名は広島平和都市記念碑)は、ここに眠る人々の霊を雨露から守りたいという気持ちから、埴輪(はにわ)の家型に設計されました。中央には原爆死没者名簿を納めた石棺が置かれており、石棺の正面には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。この碑文の趣旨は、原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというものです。
広島市は、この碑文の趣旨を正確に伝えるため、昭和58年(1983年)に慰霊碑の説明板(日・英)を設置しました。その後、平成20年(2008年)にG8下院議長会議の広島開催を機に多言語(フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語、中国語(簡体字)、ハングルを追加)での新たな説明板を設置しました。その全文は次のとおりです。

広島平和都市記念碑
(原爆死没者慰霊碑) 昭和27年(1952年)8月6日設立
この碑は 昭和20年(1945年)8月6日 世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を 平和都市として再建することを念願して設立したものである
碑文は すべての人びとが 原爆犠牲者の冥福を祈り 戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え 憎しみを乗り越えて 全人類の共存と繁栄を願い 真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている
中央の石室には 原爆死没者名簿が納められており この碑はまた原爆死没者慰霊碑とも呼ばれている。(広島市HP https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/faq/9398.html)
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海軍無線電信所船橋送信所(船橋市)船橋市行田に、コンパスで描いたかのような奇妙な円形道路がある。直径約800メートルの円内にはかつて、海軍無線電信所船橋送信所が置かれていた。真珠湾攻撃の決行を告げる暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」はここから発せられ、日本は太平洋戦争に突入した。
開戦の「Xデー」を1941年12月8日としたことを示すこの電文は同2日、船橋送信所から海軍の全艦艇に、愛知県刈谷市の依佐美送信所から潜水艦に向けて打電された。作戦当日、真珠湾上空に到達し、米軍の迎撃がないことを確信した指揮官機から放たれたのが、「トラ、トラ、トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)の電文だ。(以下略)(読売新聞・2018/08/07)
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第二次世界大戦史は、さまざまな角度から書かれるべきであるし、戦勝史や敗戦史としても書かれてきました。ぼくの知っている事実はたかが知れているし、きわめて限られた関心から得られたものですから、大きく偏っていることを否定しません。どんな局面でも戦争に無関係なものはないという姿勢で、まるで「巨像の歴史(戦争史)」に立ち向かうことの無謀とはかなさの両面を痛感してきただけのようでした。
歴史の教訓、それは何か。今日というより、人間の記憶力の観点からみれば「忘却の力」だといっていいでしょう。「この前は負けたけど、今度は負けない戦いをする」という「歴史の学び方」が、いつでも主流なんですね。ぼくがこれまでに住んだ二、三の地域においてさへ、軍事関係の施設や遺物がなかったところはありません。それほどにこの島では、いたるところに「戦争するための」装置が作られてきたという意味でしょう。でも人間の記憶は、実に都合よくといいたいほどに「忘れたり」、「忘れた振り」をしたりするのです。もっと言えば、忘却の彼方に消し去ります。「歴史の改竄」ですね。誰でもこれをするのです。ぼくも例外ではない。いやなことは「消す」、「忘れる」ことは無にしてしまうこと。

ぼくが敬愛する随筆家は「沖縄の骨」という本を書かれ、沖縄の土地には「無辜・無数の骨が埋まっている」と繰り返し書かれもし、話しもされてもいた。彼女の生涯は「軍国乙女」から「反戦・非戦の鉄のような女性」に生まれ変わって生きたと、ぼくは言いたくなるほどでした。このブログの早い段階で紹介した岡部伊都子さんです。岡部さんから心底の「反戦・非戦」の生き方を学んだとぼくは考えています。
昨日の雑文にも書きましたが、この島国が「やるべきではなかった戦争」(どんな戦争もすべきでないのは当たり前ですが)、その戦争を始めたという「印の日」として、十二月八日は忘れてはならないのです。「開戦記念日」とは、まさか誰も言うまいとは思いますが、ぼくひとりだけは、胸の底から「非戦」の覚悟(ちょっと大げさですが)を改めて強くする日でもあるのです。しばしば「勝つ見込みのない戦争」という言い方がなされています。勝ち目があろうがなかろうが、人を殺し自然を破壊する「戦争」を肯定する根拠はどこにもないと、ぼくは強く言いたい。当事者の間に問題が生じたら、「とことん話し合う」、そのために言葉を人間は生み出したのだし、どんな言葉でも「翻訳できない語」はないのです。


ぼくたちは言葉というもの、言葉の理解ということをじつに安易に考えています。同じ日本人なら、使う言語が同じだから、必ず「通じる」と思い込んでしまう。ホントにそうか。言葉が通じないからこそ、さまざまな事件や事故が日常的に生じているのではないですか。しかし、自分が知らない(理解できない)言葉でさえも、それを受け止めようとする姿勢や態度に徹すればきっと通じるはずです。今では猫語や犬語、さらにはウサギやハムスターなど多くの生き物の言語を理解しようとして、そこにコミュニケーションがなりたつことをぼくたちは経験しているのです。
問答無用という、あからさまな他者嫌悪が争いや事件を生みだしている。親子・夫婦、友人・知人間においてさえ「問答無用」が時には悲惨な事件をきたすことがある。国民同士でも国同士でも、分かろうとする態度、それは相手に対するいささかの敬愛の念を求めるのですが、それがあれば、必ず通じる(理解しあえる)とぼくは確信しているのです。

戦争反対を叫びながら、着々と戦争の準備をするという愚劣きわまりない国策。「平和の祭典」を開こうといいながら、「軍事力の増強」を言い募る。これは矛盾というものではありません。「戦争反対」が本物の叫びではない証拠です。「平和五輪」までも政治の道具にする。「原子力の平和利用」と同じ手口で、人民を愚弄してきたのです。コロナ禍を一日も早く終わらせるために行動自粛を求めながら、旅行に出かけろ、飲食に出かけろと煽る始末。それは、感染などものともしない、さらにいえば「多少の人命の犠牲」には目をつむっても、経済(景気)(金儲け)の回復こそが大事だという態度表明です。

「いささかの敬愛の念」が最も求められるのは、無能きわまりない、権力亡者の「為政者」にですが、そいつらに求めても無駄なのか、でも、なお言うべきなのか。ぼく(たち)は「座して死を俟つ」という哀れで愚かな、最悪の姿勢をとらない。自らのいのちを壊されないためにこそ、専守防衛に徹し、そのために手を伸ばし、手をつなごう。「はやぶさ」如きに興味を奪われてはなりません。誰かが付け入る隙を作っていないか、注意しよう。GNPなんかで、人民の尊さなんか測れるか。個人の尊厳は、金品から独立している。弱ったり、困ったりしている人に気が付けば、「できる範囲」で「貧者の一灯」を、その微少な精神のはたらきを目覚めさせたい。
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